「恵みの応答者」  


 Tペトロ4章10〜11節
 2006年2月12日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。昨日オリンピックが開幕し、テレビなどはオリンピック一色です。私は妻からお叱りを受けるほどのめりこんでしまう類の人間だから、何も偉そうなことは言えません。妻からはオリンピックの時期は「私は“オリンピックウィドウだ”と言われています。4年に一度のことですから、ある意味当然のことかもしれません。

そのように世界中の人がスポーツの祭典を楽しんでいる時に何なのですが、こういう時こそ目を研ぎ澄ましていないといけないのかもしれません。昨日の高知教会で信教の自由を守る日の集会でも少し話しがでていましたが、今憲法改定の大きな動きがある中、国会でもまた一般国民の間でも憲法についてしっかり議論をするべきであるのが、年末からの耐震強度偽装の問題やライブドア騒動などに振り回されてしまっているのではないでしょうか。これは何も憲法改定の事柄だけでなく、大きな事件や人の目を奪うような出来事が起こると、私たちの目はまた関心はそのことに奪われてしまう、そういう時はとても危険な時なのではないでしょうか。一部のことに目を奪われてしまわないようにしたいものであります。フィリピの信徒への手紙1章9・10節(361ページ)で「わたしは、こう祈ります。知る力と、見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」とパウロは述べています。オリンピックを楽しみながらも、大切なことを見過ごしてしまわないようにしたいものであります。

さて、今月はスチュワードシップについて共に聖書から聞いております。私たちは神さまから多くの恵みをいただいております。そしてその与えられている恵みを良く管理していくことが神さまより求められております。この管理人がスチュワードであり、その管理人としての働きがスチュワードシップです。

先週は時のスチュワードシップについてみました。私たちは神さまから時間を賜っています。その与えられた時間をどのように忠実に管理していくか。ここでいう管理とは、時間に限ったことではありませんが、後生大事にしまっておくことではありません。神さまの良きスチュワードとしての条件には、それを忠実に用いていくことが求められます。

時間を良く管理し用いていくというと、一分一秒を大切にし有効に用いることを連想しそうですが、そうのように効率と生産性を第一として時間を用いることは私たちをせかせかと駆り立て、ストレスから自分自身を苦しみへと追いこみ、神さまの作り出された神さまの時間を破壊することになってしまう。私たちはその神さまの時間の中で過ごすことです。そのためには自分の手のわざを一旦ストップして永遠を思うことであります。神さまに時を献げ、神さまの時の中で過ごすことが時の喜ばれる用い方であるのです。

さて、今日は賜物のスチュワードシップ「あなたは賜物を持っていますか」と尋ねられたら、なんと答えるでしょうか。私たちにはみんな神さまからの恵みとして賜物が与えられているのです。

賜物には様々なものがありますが、ロマ書の12章6〜8節には預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善の賜物があげられています。そしてこれらの賜物に応じて、エフェソ4章11節では、ある人を使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師とされたとあります。その4章12節には(356ページ)「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」とあります。この“キリストの体”とは教会のことですから、神さまはそれぞれの人に賜物を与えて、教会を建て上げるために用いて下さるのです。

賜物はギリシャ語で“カリスマ”と言います。これは恵みを指す“カリス”と同じ語源を持つ言葉です。日本語でもいつのことからか「カリスマ美容師」や「カリスマ主婦」といった言い方がされるようになっていますが、これは特別な才能を持った人に対しての言葉とされているようです。

賜物とは神の恵みによって神さまの側から自由にそして一方的に与えられるもので、これは私たちの側で努力して獲得するものではありません。

神さまは私たちを整え、教会の働きのために、キリストの体なる教会を建てるために与えられるのです。先ほどのエフェソの信徒への手紙4章13節には「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識とにおいて一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」と記されています。賜物とは繰り返しになりますが、キリストの体なる教会を建て上げさせるために神さまが私たちに与えて下さったものなのです。

 賜物と同じように理解されているものに才能があります。才能とは信仰のあるなしにかかわらず与えられている能力のことです。賜物もそうですが、これには大きく個人差があります。大きなまた目立つ才能もあれば人には気づかれない、時には自分にでも気づいていないような小さなものがあります。オリンピックに出場するような選手は努力もありますが、大きな才能が与えられていると言ってよいでしょう。賜物と才能とは外に現れてくる形としては違いはないものです。能力は自分のために用いるものですが、賜物は神さまのため、また教会を建て上げるためのものです。才能は信仰のあるなしにかかわらず与えられますが、賜物は信仰によって確認出来る形で与えられます。

 教会においても、賜物ではなく自分の才能を用いられていることがあります。賜物は教会を建て上げるためのものですが、才能は自分のためのものです。どんなに人より優れた才能であってもそれが自分のために用いられるのであれば、それは賜物とは言えないのです。音楽や物を作る大きな優れた能力を持った人がいて、それを教会の中で用いていたとしても、自分の教会内での評価や自分の名声のために用いているならば、またその能力や経験を誇っているならば、それは教会を建て上げるためのものとはなりませんから、賜物とは言えません。

 わたしたちは自分のためにではなく、主のみ名が崇められるために用いられるとき、私たちは神さまからその能力が賜物として受けていることを知ることが出来るのです。そして才能も信仰によって更に豊かにされることになるのです。このように賜物は神から与えられるものですから、自分の必要と欠点を素直に認めて、神に祈り求めていくことが大切となります。

ローマ12:3(291ページ)

「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に与えてくださった信仰度合いに応じて慎み深く評価すべきです」

エフェソ4:2(356ページ)

「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい」

このように私たちが自分の能力を教会の働きのために用いているときにはそのようにあるべきであります。

 そのように大きな賜物能力を用いている時もそうなのですが、逆の場合もあるような気がするのです。神さまが賜物として与え用いようとされているのに、それに気づかなかったり、また「自分は何も出来ないから」と決め付けてその賜物を用いようとしなかったりすることです。そしてそこから才能と同じように賜物に優劣をつけてしまうことです。これも神さまがとても悲しまれることです。

 賜物は神さまが与えられるものです。そこには人間の思いを越えた神さまのお考えがあってのことです。「自分のようなものは何も出来ないから」一見すると謙虚で慎み深いように思えますが、神さまはそれをどのように思われるでしょうか。私たち一人ひとりのことを全部ご存知の上で神のわざを進めるためにまた教会を建て上げるために与えておられるのですから、それを用いようとしないことが神さまの意に反したことであることは明らかです。

 そのように賜物には優劣や大きい小さいまた高い低いはないのです。マザーテレサに与えられた賜物も、私たち一人ひとりに与えられている小さく低く思える賜物もその意味では同じなのです。

 先ほど賛美しました「すべてを神に」、献げると言えば、献金が思い起こされますが、それだけでなく、ここでも歌ったように「罪に汚れたこの身をも」「何もできないこの身にも」、そんな何も出来ないちっぽけな私たちであっても、その私たち自身を神さまに用いていただくように献げること。それこそが、賜物を与えられていることへの感謝の応答であります。

神さまがお用いになるために私たちに対して与えられている賜物、それを「神さまお用い下さい」とて委ねること、任せること、こそが良きスチュワードシップです。そしてそれは教会を建て上げるため、神さまのみわざを進めるために用いられていくのです。

 教会はさまざまな奉仕によって成り立っています。そしてその奉仕者を求めています。今週の週報でも教会学校の奉仕者を募っていることが記されていますが、他にも求められている奉仕は多くあります。どうぞ皆さんの方からも奉仕をお申し出下さい。そのように賜物が献げられることを神さまも待っておられます。お祈りいたします。いつものように黙祷の時をを持ちましょう。

お祈りをします。いつものように黙想の時をしばらく持ちましょう。



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