皆さんお帰りなさい。今祈祷会では詩編を共に読んでいますが、先週は46編でした。その中に「地は溶け去る」という件があります。私はその時、この「地が溶ける」というのがどういうことかよく分からないと言いました。するとどうでしょうか、その翌々日の17日の金曜日にフィリピンのレイテ島で大規模な地滑りが起こったとのニュースが届きました。私ははっとさせられました。地滑りとは「地が溶ける」ことではないでしょうか。
現在まだ全貌は分からないようですが、既に100人以上の死亡が確認され、行方不明者は3000人を超えているとのことです。これは現地のレイテ島南レイテ州では今月に入っての降水量が500ミリに達し、2月の平均である127ミリを大幅に上回っていたとのことです。集落を囲む山並み幅数キロにわたって崩れ落ち、土肌がむき出しになって、集落は10ヘクタール以上にわたり泥の海になっているそうです。南レイテ州の知事は、「人口三千人の村がほぼ丸ごと土砂に埋まり泥は一部では『ココナッツの木の高さ』にも達している。また一つの小学校が建物ごと土砂の下敷きになったとみられる」と語っています。
現在国際的な救援隊が現地に緊急に向かって、救助活動が続いていますが、今もまだ雨が断続的に降り続いていますが、行方不明の方のうちかなりの人数が生存している模様です。まもなくバプテスト世界連盟の中のBWAid(世界バプテスト救援委員会)を通じて募金等の依頼が来ると思います。是非祈りに覚えて下さり、また募金など、支援の手を伸ばして下さるようにお願い申し上げます。
地が震える、これだけでも考えられないような、それこそ驚天動地、天が驚き地が動くような出来事でしょう。しかし「地が溶ける」とは私たちが立っている“地”が震えるだけではない、“地”が無くなってしまうようなことなのではないか。これほどの驚きというか、私たちのより所としているものが根底から崩れ去るようなことはないのではないでしょうか。
“地が震える”地震のニュースは後を絶たないほど頻発しています。それ以上の事とも思える地滑りが現実起こった。この46編では作者の詩人は「すべての民は騒ぎ、国々はゆらぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る」と言っています。不動不変に思っている“地”も震え、溶け去ることがある。本当に変わることがないのは神さまのみであることを強く思わされたことでした。
さて神さまの恵みの良き管理人としての道であるスチュワードシップについて、本日で第三回目となります。私たちは神さまから多くの恵みをいただいております。その恵みをいかに管理し用いていくか、これまで時間や賜物について共に神さまに聞いていきました。しかしこのことに関しては一つの大前提があります。それはその神さまからいただいている恵みを受け取らないことには管理することも用いること出来ません。皆さんは神さまの恵みを受け取ってらっしゃるでしょうか。当たり前のことですが、受け取らないことには何も始まりません。神さまの恵みを受け取るとはどういったことなのでしょうか。
本日の聖書の箇所は今年度の主題聖句です。6節です。「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」
私を信仰の道に導いてくれた友人がある時、次のように言ってくれたことがありました。「クリスチャンになって何が変わったかというと、生きる意味というか目的が変わった。それまで自分は生きているのだと思っていたが、神を信じるようになってからは、生きているのではなく、生かされているのだと思えるようになった」
人間が自分の力で生きていると考えるうちはその歩みはとてもしんどいものです。自己責任ですから。しかし造り主である神さまによって命が与えられ、その神さまのみ心によって生かされているのだとする人生は本当に楽になれます。この命を掌り、導いて下さるお方がおられる。だからどんなに辛くともそこに神さまが共にいて下さることを知ることが出来るからです。それはこんな私の歩みをも責任を持って導いて下さることであるからです。しんどさが全くなくなることはないのですが、辛く苦しくなった時に、神さまに自分の進む道を委ねることが出来るのはとても解放された思いとなります。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)
生かされていることを知ることでそこから更にキリストが内に生きていて下さるのだとのこのパウロの言葉は大きな慰めを与えられます。
主を覚えるとは、神さまのことをいつも忘れずに認識しておくということではありません。そうだとすれば常に精神を研ぎ澄まして気を張って歩まねばならないことになります。ここで“覚える”と訳されている言葉は、「知る」という意味であると言われています。この知るとは単なる知識として知るということではなく、「深い交わりを持つ」という意味を持っています。何時いかなる時も忘れずに記憶しておくということではなく、神さまの存在を生活のあらゆる場面において認める、気づくということであります。そしてそのことが神さまの恵みを、導きを受け取ることとなるのです。これこそがスチュワードシップの第一歩であります。
私は最初スチュワードシップのことを聞いた時には、神さまの忠実な僕になるための道ですから、何だか修行をするみたいで少しいやな思いを持ったものです。修行の道は辛く苦しい忍耐を要求されることが多くあるからです。しかしそうではなく、行く所、歩み道のどこにおいても主を認めることこそがスチュワードとしての歩みであるのです。
しかしそのためには今日の5節にもあるように「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らない」ことが求められます。私たちはわかれ道に立ちます。その時に悩む、どの道を行くのか、そしてその判断を自分でする。生きているのが私であるならば自分で判断するのは当然のことかもしれません。しかしその時に主を信頼するのです。その分かれ道に立ってその道を眺めるのです。そしてどうすべきかを主に委ねるのです。
以前にヒマワリの話しをさせていただきました。ヒマワリは常に太陽を慕い求めています。太陽を追い求め、太陽の方向に常に顔を向けている。そうするとどうなったか、その顔とも言える花びらが太陽の姿のようになった。私たちも「常に主を覚え、全ての道で主を認めて歩く」ならば「主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。箴言の著者はそのように語ります。
私たちは自分の歩みを変えることが出来ない、悪いと思っていても止めることの出来ない行ないや習慣、考え方があります。また自分で自分を変えようとしても悪あがきにしかならず、どうしようもないことがないでしょうか。そういった方に朗報です。神さまを認め、神さまを覚えて歩くことで、主は私たちの道を歩みをまっすぐにしてくださるというのです。私たちの判断はたかがしれています。その判断によらず、それを神さまの存在を認め、神さまが共にいて下さることを思い起こして、覚えて、そうして神さまにすべてを委ねるのです。そうすればヒマワリが太陽の似姿に変えられていくように、主は私たちの道筋をまっすぐにして下さいます。スチュワードシップの第一歩は、「常に、全ての道において主を覚える、認めること」に始まります。
お祈りをします。しばらく黙想の時を持ちたく思います。
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