「恵みの獲得者」   


 マラキ書3章6〜12節
 2006年2月26日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。今月はスチュワードシップについて共に考えてまいりました。私たちは神さまから多くの恵みを得ています。そしてその管理を委ねられています。それは時間であったり、命や体であったり、また賜物であったりしました。それは神さまからの預かりものであり、それをどのように用いていくかが問われています。それがスチュワードシップ、良き管理人の道でありますが、今日はその最後として献金について学ぼうと思います。

 今日のマラキ書は献金のことを取りあげる時によく用いられる箇所であります。しかし教会で献金のことを話すのは話しづらいように思われています。それは献金が教会に通う者の義務のように捉えられている感覚が残っているからではないでしょうか。そして話す側だけでなく、聞く側も義務を果たしていないような後ろめたい思いを抱いて聞いてしまうからなのではないでしょうか。献金は誰のためにあるのか。それは当然、神さまのためのものであります。しかしそれだけではありません。献金は自分のためのものでもあるのです。献金は自分のためにするものだ、などと言うと、「だから宗教はいやだ、愛だの魂だのと綺麗ごとを並べるけど結局はお金なのか」と思われるかもしれません。確かに、間に教会が介するものではありますが、献金は神さまと私たち一人ひとりの間の行為です。その意味では、やはり献金は、神さまのため、そして自分のために為すものであります。

 新共同訳聖書には見出しがついており、今日の箇所には「悔い改めの勧告」とあります。《勧告》とは「あることをするように勧めること」であります。7節には先祖の時代から掟を離れ守らなかった、だから「わたしに立ち帰れ」と神に立ち帰ることが勧められています。そしてどのように立ち帰れば良いかと尋ねる民に対して、具体的にその方策を示してくれています。それが10節の「十分の一の献げ物を倉に運びわたしの家に食物があるようにせよ」との命令であります。しかしその続きを読めば、これは単なる命令でないことが明らかになります。10節「これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう」

 ここでは掟を守らない民に向かって懲らしめの言葉として「立ち帰れ、十分の一を献げよ」と神さまは命じておられるのでなく、「わたしを試してみよ、必ずあなたたちを祝福する」と、どうしたら立ち帰ることが出来るかを具体的に教え、更に神さまのからの限りない祝福を受けることが出来るようにという祝福への招きの言葉が、ここに記されているのです。誰が祝福されるのか、それは掟が守れず、神さまから離れてしまっている他でもない《あなた》に対しての招きの言葉です。

 神さまは、私たちが神さまの掟に従って歩むことを願っておられます。掟を破ることは罪を犯すことです。私たちはどうしても罪を犯してしまう、知らず知らずのうちに神さまを悲しませてしまい、神さまが与えようとされている祝福を、自分のほうで受け取れないようにしてしまっている、そんな民への祝福の、招きの言葉、それが今日のみ言葉であるのです。
 10節の「わたしを試してみよ」との言葉は驚かされる言葉です。造り主である神さまを試みることは、私達の側からなすべきことではありませんが、ここでは神さまの方から「試みよ」とおっしゃっているのです。しかも「必ず祝福するから」との確約をつけておっしゃっているのです。「必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう」と。
 先にも申し上げましたように、献金のことを取り上げるのはなかなかためらわれる、何せお金に関することですから。このマラキ書においては直接的には金銭の事柄として取り上げられてはいません。「わたしの家に食物があるようにせよ」との言葉からも、また他の旧約聖書の箇所においても収穫物の十分の一を献げよ、との記述もありますから、畑などの地から取れた産物を献げることであります。地の産物でもって日常の生活を維持し、それを食することで命を保っているのですから、それがなければ生きていけないのが現実の私たち人間の姿であります。しかし、これが神さまからの恵みとして、また私たちを生かすために神さまが与えて下さっているものであることは明らかですから、それを神さまにお返しするのは当然と言えます。

 神さまが人間からの献げものがなければ生きていけない存在でないことは、明らかです。では、なぜ神さまは十分の一の献げものをするように命じておられるのでしょうか。それは収穫物や現代社会においては金銭に、人間の心が表れるからです。私はお金が全てだとは全く思っていません。お金では解決しない事柄は多くあり、また、金銭的に裕福であれば無条件に人が幸せになれるとも信じてはいません。それどころか金銭面の問題が逆に揉め事の種になることはいくらでもあります。しかしこれらも神さまが私たちの命を養うために与えて下さっているものなのですから、それをどのように用いるか、そのことに人の心のありようが現れるものであります。

 お金が人の心を支配することは例を挙げるまでもないでしょう。イエスさまもマタイ6章24節で「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」とおっしゃっています。それゆえ、献げものを通して、そこにある人の心のありようをこそ、神さまは問うておられるのです。
 十分の一の献げものに関しての聖書における最初の記述は、アブラハムがサレムの王であるメルキデデクに「すべての物の十分の一を贈った」記事(創世記14章21)です。また、レビ記27章30節に、十分の一の献げものの律法の規定があります。旧約の209ページです。見てみましょう。
 「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、
主のものである。それは聖なるもので主に属す」
 十分の一、10%、これは献げる側にしてみれば、楽な割合ではないと言えます。ただ何となく、考えているならば、その額を維持することは出来ないでしょう。その献げものをするために、自分の生活のあり方を考えて備えていかなければ、献げられない額だと言えます。しかし十分の一は、それを献げれば生活が成り立たなくなるだけの割合では決してないのではないでしょうか。だから何の考えもなしには維持出来ないけれども、普段の生活をするのに差し障りが出てくるほどのものでもない。楽ではないけれど、少し痛みというか、抑えるべきところは抑えたりなど、生活に少しは影響が出るだけの金額ではないかと思えます。私たちのあり方の全てをご存知である神さまは、最も良きかたちでの献げものとして私たちに提示して下さっているのです。

 今日の11節では万軍の主は、「わたしはあなたたちのために食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず畑のぶどうが不作とならぬようにする」と言われると、マラキは伝えます。作物が守られ、その働きや仕事が守られるというのです。そうして神さまは私たちの生活を守って下さるのです。十分の一の献げものを通して私たちは仕事が守られ、かつその生活が守られる恵みへと私たちを招きいれて下さるのです。
私たちはこの世で私たちに与えられている富の十分の一を神にお返しすることで、私たちの生活が、体が、命が、神さまから無条件に与えられたものであることに気づくことが出来ます。そのようにして私たちは神さまに立ち帰ることが出来ます。私たちが所有していると思っている富や生命や体などは、すべて神さまのものです。私たちはそれらを神さまからお預かりしているのであり、その管理を任されているに過ぎないのです。十分の一を献げることで、私たちに与えられているそれらのものを正しく管理するものとされていくのです。

 また12節には「諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだ」とあります。なぜ「喜びの国」へとなっていくのか、それは私たちが神の国の福音を宣べ伝えることを通して、諸国の民が私たちのことを神の民であることを知るからです。すなわち神の御業を諸国の民に伝えるものとされることで、私たちは幸せな者と呼ばれ、喜びの国となっていくというのです。私たちは十分の一の献げものをすることで、福音宣教のあふるる恵みへと招かれていくのです。
今日の主の言葉は私たちへの命令ではありません。神さまは私たちに恵みをあふれるばかりに注ぎたいという願いをもっておられます。今日の言葉はその神さまが与えようとされているあふれるばかりの恵みへの招きの言葉であるのです。その招きの言葉に応える者として歩めればと願います。

 お祈りをいたします。しばらくの間、黙想の時をもちましょう。


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