「肉を喰らい、血を啜る」  


 ルカ22章7〜23節
 2006年3月5日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



  皆さんお帰りなさい。早いもので先週の水曜日から受難節(レント)に入りました。受難節はイースターまでの40日間、イエスさまのご受難に思いを馳せて過ごす期間のことです。今年のイースターは4月16日ですから、その喜びの日曜日から日曜日を含まない40日さかのぼりますと、先週の水曜日3月1日が受難節のスタートとなります。日曜日を除くのはこの日こそは主イエスのご復活された日、喜びの日だからです。この40日はイエスさまが荒れ野でサタンから試みを受けられたのが40日であったことによっています。受難節の間の日曜日は6回あることになります。ですから教会暦によると、今日の礼拝は受難節第一主日となります。今日からイースターまでの6回の礼拝でイエスさまのお受けになられた苦しみの道から共に聖書に聞いていければと思います。

 さてその受難節第一主日に取り上げるのは主の晩餐、聖餐式についてです。今日のタイトルを見られて、何だか吸血鬼みたいと思われた方もあるかもしれません。実はこれは私の妻が教会に集うようになって初めて主の晩餐式に参列した時の感想によっています。彼女は教会の方たちが、パンとぶどう酒をイエスの体と血として食されているのを見て、「げー、これって全く宗教儀式ではないか、肉を喰らい血を啜る儀式だ」と思ったというのです。皆さんは最初どのように思われたでしょうか。

 さて今日の聖書の箇所の前の所をみると、22章2節ですが、「祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。」とあります。祭司長や律法学者などの当時の宗教家たちとイエスさまとの決裂は決定的なものとなりました。彼らにしてみたら、イエスさまは生きていてもらっては困る、何とか抹殺してしまおうと思ったのです。そしてこの頃からがイエスさまの具体的な形での十字架への歩みとなっていったのです。時は丁度除酵祭の日でした。これは酵母、イースト菌を入れないパンを食べるお祭のことですが、これは過越祭に続いて守られるユダヤ教の祭りです。過越祭とはイスラエルの民が奴隷であったエジプトの国から救い出されたことをお祝いする祭りのことです。

 イエスさまご自身もご自分が民の罪の贖いのために犠牲の死を遂げることを覚悟されました。弟子たちにこの出来事を忘れることのないよう教えるために、この除酵祭の過越の食事を用いられたのです。それは十字架にかかられる前の日のことでした。

今日の箇所にもあるように、イエスさまは感謝の祈りを唱えて、弟子たちにパンを取って裂き、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行ないなさい」と命じ、さらに「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と約束されました。パンが裂かれたのはイエスさまの体が十字架で裂かれたことを記念し、杯、ぶどう酒が分けられるのは、イエスさまが十字架で流された血潮によって私たちの罪が赦されたことの約束を与るためです。キリスト教界はこのことを繰り返し行ない、大切にしてまいりました。イエスさまの十字架の贖いを決して忘れないようにするためです。

 私たちはこのパンと杯を受ける度に、イエス・キリストのいのちによって養われ、清められ生かされていることを確認します。パンが肉体の糧であるように、イエス・キリストは私たちの霊的ないのちの糧であります。またイエス・キリストの体と血潮をいただくことで、キリストと一体であることを確信させられます。そして主にある姉妹兄弟と共にいただくことで、主のからだなる教会に連なって生かされていることを思い起こします。私たちはキリストと一体であるのと同時に、信仰者として主にある姉妹兄弟として一つとされるのです。

 この儀式を私たちバプテスト教会では、“主の晩餐”と呼んでいますが、他の多くのプロテスタント教会では“聖餐式”、またローマ・カトリック教会では“聖体拝領”と呼んでいます。プロテスタントの多くの教会においては、この主の晩餐式、聖餐式は月に一回だけ行なうようですが、教会においてはイースターやクリスマスと言った特別な礼拝の時にだけ行なう教会もありますが、カトリック教会では必ず毎回行ないます。それはこの聖体を拝領することが礼拝の一つの中心であるからです。しかしこれは決してプロテスタント教会が主の晩餐式を軽んじているからではありません。これはこの儀式に関しての考え方の違いにもよっています。

 カトリック教会の信仰によりますと、聖体拝領のときに用いられるパンとぶどう酒は、司祭がその時聖別の祈りを献げるとそのパンはキリストの体に、ぶどう酒はキリストの血に変化すると信じているのです。これを化体説と言います。このことに関してはキリスト教の歴史においても様々な論争がありました。

 それに対してプロテスタント教会では一般的には化体説にはよらず、これらはキリスト体と血潮を象徴するものだと理解しています。これを象徴説と言います。それ自体はパンとぶどう酒ではあるが、私たちが信仰をもって受け止めるとき、そのパンはキリストの体に、ぶどう酒はキリストの体に変わるのだとする象徴説に立っています。私たちのバプテスト教会もこの理解に従って主の晩餐式を行なっています。そのため私たちの教会では、ぶどう酒を用いず、ぶどうジュースを用いております。これはアルコールを受けつけない方や子どもたちも飲むことで出来るようにとの配慮からです。プロテスタント教会でもそれぞれの教派によってこの理解は異なっています。私はどの考えが正しいか、また間違っているかを云々するつもりはありません。それぞれの理解や考えを尊重することこそが大切であり、それぞれが信仰に従って行なうべきことだと思うからです。それらは方法論であり、イエスさまが「このように行ないなさい」命じておられることこそが重要であり、それを大切に守っていくことがイエスさまの教えであると信じるからです。

 本日は第一主日ですから、この後主の晩餐式を行ないます。そして本日の主の晩餐式は受難節期間中に行なう特別の主の晩餐式になります。イースターは月の暦、太陰暦によって日にちが決まりますから、年によっては一度だけのこととなりますが、今年は本日と4月2日も受難節の中で主の晩餐を行ないます。主の晩餐は十字架の出来事を覚える事柄です。ですからそれがイエスさまのご受難と深い関わりがある事柄です。イエスさまの受けられた御苦しみを深く心に刻み付けてこの後の晩餐式に与りたいと思います。

 初代のキリスト教会においては、この主の晩餐をパン裂きと呼んでとても重要視し、特に大切に行なっていました。何故か、それはキリストが「このように行ないなさい」と命じたことに従ったからです。彼らが大きな迫害の中にあった頃、教会は地下に潜みました。それは命の危険にさらされることでもありました。しかし彼らはこの“パン裂き”を行なうことでイエスさまのことを心に刻んでいったのです。迫害の中にある頃、彼らに対する風説が広がっていきました。それは「キリスト教徒たちは人肉を食べ、人間の血を飲んでいる」というものでした。そのことで、彼らは益々世の人々の嘲笑の的、いや不気味な存在であるとされていったのです。しかしそれでも初期のキリスト教会は、このパン裂きを止めることはなかったのです。

この前に置かれているのはパンであり、ぶどうジュースです。そして牧師が祈ることで、それがキリストの体と血潮に変化するものではないと信じます。しかし、私たちが信仰をもってそれを受け入れる時に、聖霊の働きによってパンはキリストの体に、ぶどう酒はキリストの血潮へと変えられ、私たちはキリストへと連なる者とされていくのです。イエスさまが自分の体を献げ、血を流して、私たちを贖い出して下さった。これは全く綺麗事ではありません。イエスさまの激烈とも言える愛を受け止めることであるのです。イエスさまの「肉を喰らい、イエスさまの血を啜る」のです。お祈りをしましょう。


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