「主イエスの眼差し」  


 ルカ22章54〜62節
 2006年3月19日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。受難節のこの時期、今日も共にイエスさまの十字架に思いを馳せて礼拝できますことを感謝いたします。昨年より奇数月の最終土曜日に映画上映会を行なっております。教会員だけでなく地域の方々にも教会に足を運んで下さる機会となればと願っています。今月は今週の土曜日ですが、受難節のこの時期のものとして「聖衣」を上映します。「聖衣」とは生前にイエス・キリストが着用していた衣服のことです。主人公のローマ貴族マーセラスは、イエス・キリストの処刑を取り仕切った人物でした。その彼がこの聖衣を手に入れたことから彼が変えられていくことを描いたのがこの映画です。実際このような人物のことは聖書には記されてはいませんが、イエスさまの逮捕処刑の場面やその後の弟子たちの様子、また当時の過ぎ越しの祭りのさまなどが描かれています。イエスさまの十字架に思いを馳せる受難節に鑑賞するにはちょうどの映画ではないかと思います。是非来会下さい。

2005年度が終わろうとしています。本年度の主題聖句は箴言3章6節「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」でした。皆さんこのみ言葉と共に歩んで来られました。本日は新年度の主題聖句の投票の締め切り日です。まだ投票しておられない方もおられると思います。是非祈って投票下さい。投票するのは私たち一人ひとりですが、その私たちの投票という行為を通して神さまが働かれて、私たちを用いて神さまがお決め下さるものです。これは聖句人気投票ではありません。好きな聖句ナンバーワンを選ぶのでもありませんし、ただ自分が知っているみ言葉の番号を書き入れる投票でもありません。この高知伊勢崎キリスト教会の2006年に必要なみ言葉を決めるものです。どうぞその思いをもって祈って投票下さい。報告後に開票しますが、報告の時に祈りの時を持ち、まだ投票されていない方のために時間を取ろうかと思っています。

さて本日受難節3週目の礼拝に与えられましたのは、弟子のペテロがイエスさまのことを知らないと否認した話しです。最初に申し上げておきますが、新共同訳聖書では“ペテロ”ではなく、“ペトロ”とされていますが、“ペテロ”で通させていただきます。このペテロがイエスさまのことを知らないと否認したこと、それも一度ならず三度まで否認したときの話しです。

イエスさまの弟子の中でも筆頭格の存在であったペテロ、そのペテロがイエスさまのことを知らないと言った。これはペテロの罪というよりは、彼の弱さを示した事件として、四つの福音書全部に記されています。このルカ福音書には記されてはいませんが、マタイやマルコの福音書にはイエスさまが逮捕されたとき「弟子たちは皆、イエスさまを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14:50)と書かれています。しかしイエスさまが大祭司の家に連れて行かれた時に、ペテロは他の弟子とは異なり、一人だけで、遠く離れてはいましたがイエスさまについて行ったのです。今日の54節です。

このペテロの行動をイエスさまは予告されていました。22章31節からです。

「『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにか

けることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』するとシモンは、『主 よ、御一緒になら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております。』 と言った。イエスさまは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」

 ペテロは彼なりにイエスさまについて行こうと思って行動したのです。しかし大祭司の中庭に座っていた人に混じって焚き火にあたっていた時、

その場にいた人から「あなたはあの人の仲間だった、一緒にいるところを見た」と指摘されると、「わたしはあの人知らない」(57節)「いや、そうではない」(58節)「あなたの言うことは分からない」(60節)と、自分がイエスさまの仲間であることを認めることが出来なかったのです。彼は彼なりに精一杯イエスさまに従っていこうとした。彼の覚悟「御一緒になら、牢に入って死んでもよいです」と言うのも嘘ではなかった。直情径行型のような彼の性格からするとそれも全く真実な嘘偽りのない心情であったと思います。しかしイエスさまの十字架についていくことは出来なかった。それが人間の限界であるのです。実際イエスさまでさえ、「御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られたほどの苦しみ、それが十字架であるのですから。

 ペテロが三回目にイエスさまのことを知らないと言った時、「あなたも一緒にいた、ガリラヤの者」だからと言われました。当時の社会においては、ガリラヤ地方は都から離れた片田舎の地方でした。話される言葉もとても特徴があった、訛りがかなり激しい方言であったようです。お前の話し方が「あの男といた証拠だ」と言われたのです。その時、ペテロは外に出て激しく涙しました。

 この時のペテロはなぜ泣いたのでしょうか。どこまでもついていくとイエスさまに誓ったことが果たせなかった自らの不甲斐なさを嘆いた涙だったのでしょうか。イエスさまに対しての申し訳なさを悔やんでの涙だったのでしょうか。いろいろと考えられると思いますし、そういった自分の弱さを悔いる嘆く思いがペテロに涙させたのだと思います。それらはすべてが彼が涙した原因でしょう。

 61節をもう一度見てみましょう。

「主は振り向いて、ペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した」

 この時ペテロは自分の行動を予告した「主の言葉」を思い出したのです。それは単にイエスさまがペテロの行動をご存知であったこと、イエスさまに予知能力があったことを思い出しただけではありませんでした。ペテロは自分の弱さ、自分がイエスさまに罪を犯すことを全部ご存知の上で赦し受け入れて下さっているイエスさまのその愛をこの時知ったのです。その愛の深さ、憐れみと慈しみの大きさに触れた時に、激しく涙せずにはおられなかったのではないでしょうか。ペテロの罪は、ペテロの主への裏切りは全部主イエスに知られていたのです。

 22章の31節からをもう一度見て下さい。ペテロの離反を予告した時にイエスさまは「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」とあります。離反する、裏切るペテロのことをご存知であった主イエスはそのペテロの信仰が無くならないようにと、父なる神さまにペテロのためのとりなしの祈りをして下さっていたのです。ペテロはそのイエスさまのお言葉を思い出すことで、主に立ち返ったのです。これは単に自分の行動を後悔しただけでなく、主の言葉を思い起こし、イエスさまの所に帰って行った、その涙であるのです。

 来週のメッセージでも触れますが、この時ペテロはイエスを裏切ったのです。イエスさまはいつもペテロたちと共にいて下さいました。また取税人や罪びとたちといつも一緒にいて下さいました。しかしペテロは「お前もイエスと一緒にいた」と言われたときに、「自分はあんな人のことは知らない、あなたの言っていることが分からない」と言って、イエスさまと一緒にいることが出来ない弱さを抱えていることを知らされたのです。

 しかしそんな弱さを抱えている自分のことをイエスさまは全部ご存知であることを知らされたのです。

 イエスさまはそんな弱さを抱えた人間、自分のことを裏切り、離れていく弱き者たちのために十字架に架かって死んで下さったのです。私たちはイエスさまを信じイエスさまに従っていきたいという願いを持っています。それは今日のペテロと同じであります。しかし私たちはイエスさまの十字架に従っていくことが出来ない現実、弱さによる限界があるのも事実です。私は決して弱いままであってもよいとか、罪を犯してもよいのだなどと言いたいのではありません。皆さまにお伝えしたいのは、イエスさまは私たちがそのイエスさまに従い得ないこと、私たちが裏切る弱さを抱えていることを全部ご存知であったこと、イエスさまは全部ご存知の上で十字架の道を歩まれたのです。

 61節には、他の福音書には記されていないイエスさまの姿が描かれています。「主は振り向いてペトロを見つめられた」

今日はこの後、新生賛美歌の486番「ああ主のひとみ」を賛美します。これは現在天城山荘のチャプレンをされている井置利男先生、この先生は長くバプテスト教会の牧師をされていた先生ですが、その井置先生が作詞された賛美歌です。バプテスト教会の枠を超えて広く愛され歌われている賛美歌です。1節では富める若人に、2節では今日の否んだペテロに、3節では疑い惑ったトマスに、主は眼差しを向けられたことを歌います。

 全部ご存知であったイエスさまは、三度否認したペテロを見つめられたのです。そしてその眼差しがペテロに主の言葉を思い起こさせ、彼を立ち返らせたのです。ルカは「振り向かれるイエス」というモチーフをよく用います。それは弟子の行動や考えの間違いを指摘するために振り向きますが、それだけにとどまらず、赦しを与え、再出発を促し、立ち返らせる、そのためにイエスさまは「振り向いて」「見つめられる」のです。

 イエスさまの十字架に従っていくのは本当に厳しい、私たちは今日のペテロのように、その思いはあっても行動がついていかず、イエスさまを悲しませるようなことをしてしまうことがあります。しかしイエスさまはそんな私たちのことを全部ご存知の上で、その罪を犯す私たちのほうに振り向いて、私たちに眼差しを注いで下さいます。

 お祈りをします。

2006年説教ページに戻るトップページに戻る