「ユダの裏切り、ペテロの裏切り」 


 ルカ22章47〜53節
 2006年3月26日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。本日は2005年度最後の礼拝です。先ず最初にこの一年間神さまの御守りのもとに歩めたことを感謝いたします。先週私たちには来年2006年度のみ言葉が与えられました。詩編100編1〜2節です。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

ご存知の通りこのみ言葉は2004年度の主題聖句でありました。私は正直言って最初戸惑いをおぼえました。何故もう一度、それもたった2年前の聖句を神さまは私たちにお与えになったのかと思わざるをえなかったからです。

先週も申し上げましたが、これは私たちの投票という行為を通して、神さまがお働きになり、私たちに必要なみ言葉として与えられたものであります。私は祈りつつこのことの意味を考えました。その中で示されたのは、神さまは私たちにこの聖句を突っ返されたのではないかということです。2004年度の歩みが不十分であったかどうか、それは私にも分かりません。私たちのことを全部、ある意味私たち以上にご存知の神さまは私たちにもう一度このみ言葉と共に歩むようにお考えなられたとしか思えません。これは私たちにとっては大きなチャレンジでありますし、手放しで喜べることでもないと思えます。2004年度一年間の歩みを考え直さねばならないことをも含んでいるからです。

「わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなた

 たちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているよう

 に、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたち

 の思いを高く超えている。」

イザヤ書55章8,9節のみ言葉です。神さまのみこころの全貌を私たちは知ることは出来ません。どうしてですかと叫ぶことが多くあります。

しかし造られた者被造物である私たちには造り主である神さまのお心、お考えの全てが分からないのは当然のことでしょう。だからこそ、その時に神さまに祈ることが求められているのではないでしょうか。

 私は決して今回この聖句が主題聖句とすることに異議を唱えたいわけでも、またそのことを受け入れられないと思っているのでもありません。始め神さまのお考え、みこころが自分の中で見えないことに戸惑いを覚えたのです。是非祈って下さい。そして私たちの新しい年の歩みが神さまのみこころに適うものとなるようにご一緒に考え祈り求めつつ歩んでいければと願います。

受難節4週目、今日もイエスさまの十字架に思いを馳せて礼拝を献げましょう。先週はペテロがイエスさまに従っていくことが出来ず、三度知らないと否認したことからみ言葉にききましたが、本日はユダがイエスさまを裏切ったとされている話しから学びたく思います。

イエスさまの12人の弟子の中には、もう一人“ヤコブの子ユダ”という人物がいたと記されていることから、この二人を区別するためにか、“イスカリオテのユダ”と呼ばれている、その人物が今日の登場人物です。イスカリオテのユダと言えば、古来裏切り者の代名詞のように捉えられております。それは今日の48節のイエスさまの言葉にもあり、また聖書の他の箇所においても、このイスカリオテのユダがイエスを裏切ったという表現は何度も出てまいります。

マタイ福音書によりますとこのイスカリオテのユダは「あの男を引き渡せば幾らくれますか」と祭司長たちに述べたと記されています。金のために自分の師匠を売ったのですから全くとんでもない裏切り者として、マタイは描いているのです。

しかしユダが何故イエスを裏切ったかということに関しては、福音書によって記述が異なっています。ルカにおいては、22章4節ですが、彼が祭司長たちにどのようにしてイエスを引き渡そうかと持ちかけ、それを聞いた祭司長たちが喜び、金を与えることに決めたとされています。そうであるならば、ユダはマタイのように最初から金を要求していたと決め付けることは出来ず、彼は金目当てでなく、他の理由で裏切った可能性も残ることになります。この点においてはマルコもルカと同様の記述をしています。(14章11節)またルカとヨハネはユダの心にサタンが入ったのだと、その理由をサタンの働きによるものだとしているのです。

ユダの出身地を指しているのだと思われるイスカリオテとは、「ケリオテの人」という意味ではないかと言われています。12弟子の多くが北部のガリラヤの出身であったのと違い、ケリオテはパレスチナの南部の町の名だと推定されます。とすると彼だけが出身が全く別だったと推測されます。このことも彼の行動の原因になったのかもしれません。

どうも彼に裏切りを決意させた背景には、メシア、救い主ということに対しての彼の考え方、期待のしかたが影響していたように思われます。彼の期待したメシア像と実際のイエスさまの姿は異なっていたことが明らかになっていったのです。

十字架にかかられた過越の祭りの直前のことでした。ベタニアという村に行かれた時に一人の女がとても高価な香油を持って来て、イエスさまの足を香油でぬぐったことがありました。この時一人の弟子が「なぜ、この香油を売って貧しい人々に施さないのか」と言いました。この弟子こそがユダだったと告げている記述も福音書にはあります。

裏切りはユダの代名詞のように言われています。その原因がどうであれ、彼がイエスさまの居所をひそかに敵に知らせたことは確かであります。しかし先週も述べたように、人からイエスの仲間ではないかと指摘されて、そのことを否認したということにおいては、ペテロもイエスを裏切ったのです。それはまさに自分の身を守るためのものであった、自らの弱さのゆえに不甲斐なさのゆえにペテロもイエスを裏切ったのであります。

ユダはイエスさまに対して政治的な意味や革命者としてのメシアを期待していたのではないか、それが全くそのような行動をとろうとしないイエスに対しての失望を感じたのではなかったであろうか。この人こそは自分たちの国の指導者として、憎っきあのローマの手から救い出して下さる方なのではないかと思い従って来たのに、そうではなく、自分はこの後祭司長や律法学者たちに捕らえられて死ぬのだとなどと言い出す。彼はイエスに失望したのです。彼は潔癖で真面目でとても純粋な人物だったのではないか。つまりその意味ではユダはイエスに裏切られたと感じたのではないかと思われます。

ユダは最後には、イエスさまに有罪判決が下されたことを知り後悔し、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯した」と言って首をくくって死んだとマタイ福音書は告げます。ペテロは「あんな人のことは知らない」と言った後、自分の裏切りを予告したイエスさまの言葉を思い出して、激しく泣きました。罪を犯したことに対しての責任の取り方からしたら、どちらの方が筋が通っていると言えるでしょうか。ユダは悔い改めは自分を自分の意志で抹殺するという意味で最後まで、自分の意志を貫き通すという悔い改めだったのに対して、ペテロはただ外に出て激しく泣くという悔い改めでしかなかった。自分の行動の責任を、命を絶つという形でユダは貫いたのに、ペテロの悔い改めは自分の弱さを無様に曝け出すだけではなかったかと思います。その意味ではユダの方がはるかに筋を通して責任をとろうとした、ユダの方が完全で徹底した悔い改めだったのではないかと思われます。

 しかし聖書が説く悔い改めは世間で言う筋を通すこととは異なっています。聖書の悔い改めには“メタノイア”という言葉が用いられています。これは「方向転換」を意味しています。つまり、それまで向いていた方向を変え、神さまの方に向き直ることを指しているのです。そしてそれは自分で自分の罪を清算する、責任を取るのでなく、己がしでかしてしまったことでさえ、神さまに任せることを説いているのであります。

 ユダは自分の過ちに気づいた時、あくまで自分の手で問題を解決しようとしたのですが、それはただ死を招き寄せることでしかないのであります。

 ペテロは鶏の鳴き声を聞いて主の言葉を思い出しました。その涙はイエスさまの後に従っていきたいという気持ちはあったのに、それが出来ない自分の無力さを痛感させられたことにもありました。彼は何もしなかったのです。いや何も出来なかったのです。どうにもならない自分、ユダのように潔く罪の責任をとることも出来ない自分。

 しかしそんな自分を見捨てることなく、自分に眼差しを向けていて下さることに気づいたのです。もう自分ではどうすることも出来ない、ただ自分を救ってくれる存在が自分のところに来て欲しいといった心境だったのではないでしょうか。そしてその心が命の道へと導いたのです。二人とも主を裏切りました。しかし神の御心に適った悔い改めをしたのは、ユダではなくペテロの方だったのです。

 私たちも弱さのゆえに、主を裏切ることがあります。神さまはそのことをとても悲しまれます。しかしそこから立ち返ること、主の方に方向転換することをずっと待っていて下さるのです。

 最後に使徒パウロの言葉を読んで終わりたいと思います。ローマの信徒への手紙7章15〜25節です。

お祈りをします。弱い私たちに目を注いで下さっている十字架のイエスさまに思いを馳せて暫く黙祷のときをもちましょう。


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