「御心のままに」 


 ルカ22章39〜46節
 2006年4月2日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。2006年度最初の礼拝をこうして主の守りのうちに献げることが出来ますことを心から感謝申し上げます。先週は皆さんのお祈りのうちに全国小羊会キャンプにM田蒼輝君と一緒に参加することが出来、無事高知に戻ってくることが出来ました。お祈りありがとうございました。年度末のとても忙しい時期でしたが、参加出来たことはとても感謝でした。私自身初めての参加でありましたが、子どもたちの多くの笑顔に出会うことが出来たことはとてもうれしい出来事でした。講師の岐阜教会の野口先生のお話も、またリーダー研修会の講師の金沢教会の田口先生からも、自分に今必要なものは何であるか示唆を受けることが出来ました。またこのような大きな全国的な集会では、主にある友人たちとの出会うことが出来ることも大きな恵みです。この後、報告時に蒼輝君と共に今回のキャンプの報告をさせていただきます。

さて、受難節5週目、今日も共に礼拝を献げることが出来ますことを心から感謝申し上げます。さて、今日はイエスさまが十字架にかかられる前のクライマックスとも言えるオリーブ山での祈りです。ここは他の福音書においてはゲツセマネの園での祈りと言われています。39節には「いつものように」とありますから、イエスさまはこの場所で祈ることを習慣とされていたことが分かります。その祈りの場に弟子たちも従っていきました。その弟子たちにイエスさまは「祈る」ことを命じられました。祈りこそが誘惑に負けない力です。このように命じられたからには、イエスさまご自身がこの時「誘惑に陥らないように」祈られたことと思われます。石を投げて届くほどの所、とありますから、弟子たちから少し離れた所でイエスさまは祈られました。注目すべきは「ひざまずいて祈られた」ことです。私たち現代人にとっては「ひざまずいて祈る」ことは一般的なことですが、当時は立って祈るのが普通のスタイルだったようです。すなわち立ち上がり、天に向かって手を上げて祈ったのです。ですから「ひざまずいて祈った」ということからも、立ち上がることも出来ないほどの苦悩があったことが見て取れます。

先週見たイスカリオテのユダは、イエスさまにこの世のリーダー、イスラエル民族を引っ張っていく革命家のような姿を求めました。そしてそのような行動に出られないイエスさまに失望しました。今日のイエスさまの姿も全く英雄的なメシアの姿とはかけ離れています。苦悩するメシア、弱いメシア、くずおれるメシア。マルコ福音書は「わたしは死ぬばかりに悲しい」とのイエスさまの言葉を残しています。父なる神が御子イエス・キリストに歩むように示されたメシアとは、苦悩するメシアであったのです。

 42節「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」何と弱々しいメシアであることでしょう。ユダならずとも受け入れることの出来ないメシアの姿であり、祈りに思えます。

 イエスさまと父は一つでありました。そしてイエスさまが願われることは何でも可能だったはずです。だからこそ今まで力あるみわざを成し遂げられたのではなかったでしょうか。そのイエスさまが苦しまれるとはどういったことなのでしょうか。しかしここにこそ祈りの究極の意味が表れています。

 祈りとは何なのでしょうか。神さまが全てを導き、神さまがご自身の御心に従って私たちをご支配されるなら、祈る意味はあるのでしょうか。私たちが祈る前から、私たちの願いを神さまはご存知であると、み言葉で言われています。しかし今日のイエスさまが苦悩の姿を通して私たちに示して下さっているのは、祈ることを通して変えられていくということです。

 44節にあるようにイエスさまは「苦しみ悶え、汗が血の滴るように」して、「御心のままに行なって下さい」と祈られました。神の独り子として、貧しい者、弱い者に寄り添い、休む暇もないほど人々と接せられたイエスさま。父なる神に仕え、その御心に従って歩んで来たこの人に進むべき道として与えられたのは、人々の罪の身代わりとなって十字架で死ぬことでした。愛し可愛がった弟子たちにも裏切られ、そして何よりも父なる神さまに見捨てられたかと思えるほどの苦しみが、今自分の目の前にある。そんな中でなされたのが今日の祈りであります。

 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし

  わたしの願いではなく、御心のままに行なってください。」

 私たちは何故祈るのか、それは祈りによって私たち自身が変えられていくからです。それは私たちが成長するからではなく、祈りそのものが成長していくからです。私たちは自分の願望を神に求めます。それは苦しさからの解放の願いであったり、病気が癒されるようにといったものでしょう。しかし深い祈りの中で、私たちは徐々にではあっても祈ることを通して、自分自身の醜さや罪深さに気づかされます。聖書教育にも記されているように、「他人には厳しく自分には甘い倫理基準やつまらないこと、とるに足りないことを重大問題として、それさえ解決したならば幸せになれるかのような錯覚から自由にされていくのです。」祈り自身が深められ、成長させられ、私たちを生かしてくれるのです。

 人が苦悩のさなかにあるときにするのは、次の三つのいずれかではないでしょうか。 @答えを求めてとめどなくさすらう Aどうとでもなれと投げ出す B苦悩する自分の存在を自らの手で絶つ しかしこれらはいまだ「自分の思い」の中でうごめいていることでしかありません。それに対して「私の願いではなく、御心のままに」という祈りは、たとえ答えがなくとも最後のところを委ねる方がおられることを信じる者の姿を表しています。「自分の思い」の中にある限りは、たとえそれが何であれ、苦悩に対する答えを必要とします。しかし「御心のままに」とは、たとえ答えがなく未解決のままであっても、そのことをも委ねる信仰のあり方です。

 私たちは苦悩し、痛み傷つき、自分自身や神さまを恨むことがあります。そのときひたすら答えを求めようとします。しかし生きていくことは答えなき旅である言えます。神さまに祈ってもその答えが得られないことが往々にしてあります。今日の箇所のイエスさまもそうであったと思います。苦しみ悶えて祈られました。「この杯を取りのけてください」と。しかしそんな中でイエスさまが到達された祈りは、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」という祈りだったのです。

 私たちが苦しみの中にある時、この時のイエスさまと同じ境地にはなかなかなれないことでしょう。しかし祈ることはできます。イエスさまの祈られた祈りを口から発することはできます。そしてそうすることで、祈りそのものが成長し、神の御心に委ねる歩みへと私たちを導いてくれるのです。

 「悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう

  お前が来なかったら つよくなかったら

  わたしは今どうなったか

  悲しみよ悲しみよ お前が私を

  この世にはない大きな喜びが 変わらない平安がある

  主イエス様のみもとに連れてきてくれたのだ」(悲しみよ)

 これは瞬きの詩人として知られている水野源三さんの詩です。水野源三さんは9歳の時赤痢になり、目と耳以外の機能が奪われました。言葉を話す力も失われたのです。しかしその後12歳の時に一人の牧師を通して聖書に触れ、13歳で洗礼を受けクリスチャンとなられました。以来、体を動かすことも口も利けない源三さんが、お母さんの助けによって、50音図を瞬きで指定する方法で多くの詩をつくられました。

 

「生きる」

  神さまの大きな御手の中で かたつむりはかたつむりらしく歩み

  蛍草は蛍草らしく咲き 雨蛙は雨蛙らしく鳴き

  神さまの大きな御手の中で 私は私らしく生きる

 源三さんの詩はとても素朴です。しかしその一つひとつの言葉の中に神さまへの信仰、答えがなくともその自分の歩みを「御心のままに」と委ねる信仰に貫かれています。そしてそれはイエスさまに倣われたことにより、今日のイエスさまの「御心のままに」という祈りによって、変えられていき、神さまと共に歩む生涯を全うされたのです。

 最後に源三さんの「御心のままに」という詩を読んで終わりたいと思います。

「この道行きたいと願っても  御心でなければ行かれない

御心を成したもう御神よ   御心のままに行かせたまえ

試練を避けたいと願っても  御心でなければ避けられない

御心を成したもう御神よ   御心のままに助けたまえ

どんなに生きたいと願っても 御心でなければ生きられない

御心を成したもう御神よ   御心のままに生かしたまえ」

 お祈りをします。


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