皆さんお帰りなさい。本日の礼拝は棕櫚の主日です。本日より受難週に入ります。今週金曜日にイエスさまは十字架にかかられました。十字架は栄光に満ちたものではありません。それは惨めな死であり、無力なものです。20世紀を代表する神学者の一人であるドイツのボンヘッファーはその著書で「神はこの世においては無力で弱い。聖書は人間に神の無力と苦難を示す。」と述べています。イエスさまの十字架が何故力を持つのか、それはイエスさまがとことん苦しまれたからです。私たちはイエスさまが甦られたことを知っており、その主の甦りに希望を見出しています。しかし受難週であるこの一週間はそのことではなく、苦しまれ無力であられたイエスさまと共に過ごしたく思います。
さて本日与えられましたみ言葉はルカ23章32〜46節です。いよいよイエスさまが十字架にかけられた場面であります。このとき二人の犯罪人がイエスさまと一緒に処刑されました。今日の箇所の32節においてはこの人たちは「犯罪人」と記されていますが、マルコとマタイ福音書には「強盗」とされています。ただの強盗が当時の極刑である十字架にかけられたとは思われませんので、むしろ「熱心党」のようなこの時のユダヤの支配者であったローマの支配からの解放を計った者たちではなかったかと言われています。
33節には「されこうべ」とそのときの処刑の場所を記しています。これはヘブライ語では“ゴルゴタ”という言葉です。エルサレムの北側の障壁の外に位置する場所でした。そこは古くから人間の死体が多く埋められたことから処刑された人間の頭蓋骨が多く転がっていたとか、その場所が人間の頭蓋骨のように表面が丸いことからこの名が付けられたのではないかと言われています。これは余談ですが、讃美歌では“カルバリ”とよく歌いますが、この“カルバリ”はラテン語です。
イエスさまはここで十字架につけられました。人々は、くじをひいてイエスさまの服を分け合いました。死刑執行人は処刑された人間が残したものを処分する権利を持っていたからです。このことで旧約聖書詩編22編19節の言葉が成就されました。イエスさまの十字架の受難は旧約以来の神の計画の中に行なわれたことがこのことからも分かります。
35節以降からもこの場にいた人たちの様子がみてとれます。民衆は立ってこの光景を見つめていました。エルサレムに入城されたときには「主の名によって来られる方、王に祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と熱狂して迎え入れた人たちであったかもしれません。しかしその民衆たちが手の裏を返したように「十字架につけろ」と叫びイエスのことを罵ったのです。
他に議員たち、これはサンへドリンと言う最高法院の議員たちのことです。彼らはイエスさまのことを嘲笑って「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とうそぶきました。また兵士たちも近寄り、酸いぶどう酒をつきつけて侮辱し「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」とあたかもイエスさまのことを詐欺かペテン師でもあるかのように侮辱しました。こんな状況の中でイエスさまは十字架に付けられました。しかも驚くべき言葉を発されています。それが34節です。
「父よ、彼らをお赦しください。自分たちが何をしているのか知ら
ないのです。」
イエスさまが十字架で語られた言葉が福音書には七つ出てきますが、その中では最も有名な言葉であり、衝撃を与えられる言葉です。このみ言葉でイエスさまを救い主と信じる信仰に導かれたという方も多くおられます。これは神へのとりなしの祈りです。自分の目の前には、今も見たように、罵る兵士たち、嘲笑う議員たち、手の裏を返したようにして見ている民衆たち、それらの人たちの救いを、彼らの赦しを、イエスさまは父なる神に求めているのです。この祈りこそがイエスさまのイエスさまたる所以であると思わせられる言葉であります。
何故このようなことになったのか、ご自身は寝る間も休む時間もなく人々に仕え、人々を愛されたお方が何故このような目に遭わねばならなかったのか。それはこれこそが神の御心であり、それほど人間の罪は大きかったからにほかなりません。今週は受難週です。そしてその罪は何も2000年前の地球の裏側のような場所の出来事だったのではなく、私たち一人ひとりが自分自身の事柄として、罪であることを思い起こす時として過ごしたく思います。
さて、今日は、この時共に処刑された二人の犯罪人のことを見てまいりたいと思います。名前も分からないこの人たちのことは、人々の心にとても印象深く残る話になっています。先にも見ましたように、他の福音書においても少しは触れていますが、最も詳しく記しているのはルカです。
この二人は全く異なる反応をしています。39節にあるように一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言います。彼も噂の主であったであろうこのイエスという人物に期待をもっていたのではないでしょうか。救い主だとは信じてはいなかったでしょうが、もしかしたら、超人的な力を発揮して十字架から降りてくるかもしれない、そうしたら自分も助けてもらえるかもしれない。またその混乱に乗じて十字架から逃げ出せるのではないかと思っていたかもしれません。しかし何も起こらない、失望した彼がこのようにイエスのことを罵ったとしても不思議ではありません。またこの人がどんな犯罪を犯したのか詳しくは分かりませんが、その罪のために処刑されようとしている場面ですから、正に究極の場面です。そう思ってみると、この人の反応も肯ける気持ちになります。
しかしもう一人の人は全く違う言葉を発しています。40節「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」この人物が以前からイエスさまのことを知っていたのか、また信じていたのかも分かりません。しかし彼ももう一人のように、イエスさまが何かを起こしてくれるのではないかと期待していたとは考えうることです。それがここに至るまでに目にしたイエスさまの姿、また34節の言葉がこの男の心を打ったのかもしれません。どうであれ、この自分の目の前にいる人物が、人々が言うような奇跡的なわざは何も行なわない無力にさえ思える人物ではあるけれども、この人は何も悪いことをしていない人だと思ったのです。そして42節にあるように「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。この男にも時間はありません。処刑され死んでいこうとしている時でありました。しかしこの男は正にそのような究極の場面において、イエスに賭けたのであります。賭けたと言っても、占いのように、当たるも八卦、当たらぬも八卦と言うような思いで賭けたのではありません。この地上での生涯を終えようとする究極の瞬間に、もう一人の犯罪人のようにではなく、「わたしを思い出してください」と言って、イエスに身を委ねたのです。
これを聞いたイエスさまは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。楽園、以前の訳では「パラダイス」となっていましたが、これは神の庭、神の支配の場、もっと言うと“神の国”にいるとおっしゃったのです。聖書で言う“神の国”とは神さまが支配なさる場、神の御手ということであります。
ここでイエスさまは「今日」とおっしゃっています。この言葉は、ルカによる福音書では注目すべき言葉であります。クリスマスの時、天使たちは羊飼いたちに、2章11節ですが「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げました。また、あの取税人のザアカイが悔い改めた時(19章9節)に、イエスさまは彼に、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」とおっしゃいました。ここで言う「今日」とは、昨日の次の日、明日の前の日の意味での今日ではありません。これは、神の時、正に今この瞬間という意味での「今日」であります。新しくされたこの瞬間です。
この犯罪人は何らかの犯罪を犯した人物でした。その彼が「わたしを思い出してください」と言った時に、イエスさまは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃったのです。この男はイエスさまの生涯の歩みを全て知っていたわけではない、またその全てを通してイエスをキリストと信じたのではないでしょう。しかしこの目の前の人物が、自分のことを覚えていてくれる、御国で自分のことを思い出してくれるだけで、自分は救われる、解放されるという思いを持ったのです。彼はイエスさまから直接、一緒に楽園にいる、神の御手のうちにあることが出来る、という言葉を受けたのであります。聖書の中で、十字架後に最初に天国に行ったのはこの男だろうと言われております。
イエスさまは、神さまは、過去を問われません。その人が過去にどんな歩みをしたかは問題にはされないのです。過去がどうであったかで救いが決まるのではないのです。最初に天国に行った人間は、この十字架で処刑された犯罪人であったのです。彼の犯した罪は大きなものであったことでしょう。人に誇れるほどの歩みではなかったかもしれない。この人の生涯は死刑囚として処刑されるものであった。しかしその人が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うだけで、イエスさまから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。過去の罪が問題なのではなく、罪があったからこそ、イエスさまは十字架にかかって下さったのです。イエスさまはその罪のために、このような理不尽とも言える、痛みと苦しみを伴う十字架にかかって死んで下さったのです。死なねばならなかったのです。
その十字架が今週の金曜日に迫ってきました。日本では、この日を「受難日」とか「聖金曜日」と呼んでおりますが、英語では“グッドフライデイ”と言います。イエスさまが苦しみを受けて死なれた日を何故“グッドフライデイ”、「良い金曜日」などと言うのか。それはこの日に、私たち罪びとがイエスさまと一緒に楽園にいることが出来るからです。
十字架の場面には様々な人がいます。「十字架に付けろ」と叫んだ民衆たち、「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と嘲笑った議員や兵士たち、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵った犯罪人、そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った犯罪人。全てが私の心にある思いを為す人たちです。私たちもこの犯罪人の「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」の言葉に倣って、今週一週間を、グッドフライデイを、そしてイースターを迎えたく思います。
お祈りをいたします。黙想の時を持ちます。
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