「復活を生きる」 


 ルカ24章1〜12節
 2006年4月16日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。イースターおめでとうございます。長かったレントが明け、イエスさまのご復活された週の初めの日曜日にこうして復活の主をおぼえて礼拝できますことを心から感謝申し上げます。先週は月曜から土曜日まで早天をすることで、み言葉と共に歩めた一週間でした。

一年は52週あります。ということは主日礼拝は52回あることになります。しかし今日の礼拝は52分の1ではありません。イエス・キリストを信じることの中核にあるのは、イエス・キリストが死を超えて、その死に勝利して甦られたことにあるからです。イエスさまの復活がなければ、私たちの信仰は、何の意味もないものとなってしまいます。罪の赦しも永遠の命も何もあったものではありません。その意味でイースターこそが、キリスト信仰の神髄だと言えます。

このように言うと、次のように思われる方がおられるのではないでしょうか。私にはイエスさまが甦られた、死を乗り越えて復活されたことが信じられない、また信じていないわけではないが、復活を信じる強い確信を持つことが出来ない、だから自分のような者はイースターを祝う資格がない、イースターの恵みに与れないのではないかと。

そんな方にこそお伝えしたく思います。イースターとは、またイエスさまの復活とは、信じる対象ではないのです。死んだ人間が生き返ったことが信じられないのは、人間の理性としては自然なことであります。現に聖書の中の誰が復活を信じられたでしょうか。今日の登場人物のうち誰がイエスさまの復活を信じていたでしょうか。彼らは生前のイエスさまから復活することを聞いていたのです。しかし信じてはいなかった。彼らにとっても信じがたいことであったのです。

イエスさまが復活されたということを信じられるかどうかが私たちに問われているのではありません。神さまが問うておられるのは、私たちに求めておられるのは、イエスさまを救い主、キリストと信じるかどうかです。私の罪のためにイエスさまが死んで下さったと信じるかどうかです。イースターとは、復活とは、信じる対象なのではなく、その事実を知った者が、その後の人生をどのように生きるかなのです。今日はその辺りのことをルカの24章から見てまいりましょう。

今日の最初の登場人物は婦人たちです。少し前の23章55節には「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」とあります。イエスさまはエルサレムにやって来られる以前には、ガリラヤからその宣教のはたらきを始められましたから、その時から従って来た女たちでありました。ルカ8章1〜3節(117頁)にはマグダラのマリアを始め多くの婦人たちが、イエスさまと12弟子の一行に奉仕していたことが記されています。

彼女たちは週の初めの日の明け方早く、夜が明けるかどうかの頃に墓に出向きました。週の初めの日、すなわち日曜日であります。彼女たちはイエスさまが亡くなられた日に香料と香油を用意していましたが(23:55)翌日は安息日であったことから、律法に従って安息せねばなりませんでした。ユダヤでは一日の始まりは夕方の6時ですから、土曜の夜に安息日は終わるのですが、夜では墓に行っても何もできないと思ったからでしょうか、日曜の朝まで待ったのです。彼女たちは夜が明けるのを待ちわびていたことだと思われます。イエスさまの死体に香料塗って葬りの備えをしてさし上げたいとの切なる思いをもって、墓に行きました。するとどうでしょうか。墓の前に置いてあった大きな重い石が転がっており、中にはイエスさまの遺体がどこにも見当たらなかったのです。その代わりに女たちが見出したのは、輝く衣を着た二人の人でした。「あなたたちが探しているイエスは復活なさったのだ、主からガリラヤで聞いたことを思い出す」ように告げられたのです。

8節「そこで婦人たちはイエスの言葉を思い出した」

イエスさまのことを三度知らないと否認したペトロは鶏の鳴き声を聞いて「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出しました。今日の婦人たちは輝く衣を着た二人の天使の言葉を聞いて、主の言葉を思い出しました。主の言葉を思い出す、これは主の言葉に立ちかえることです。

18章31節からを見てみましょう。145頁です。

「イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエ

ルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな

実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打

ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。

そして、人の子は三日目に復活する。』十二人はこれらのことが何も

分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエス

の言われたことが理解できなかったのである。」

ここではこのことを主から告げられたのは十二人、十二弟子であったと書かれていますが、この時に今日登場する婦人たちも同行し聞いていたことを前提にしています。彼女たちは忘れてしまっていたのか、それとも信じられずにいたのでしょうか。いずれにしても、彼女たちは墓にイエスさまの遺体を捜しに行きました。

主の言葉を思い出し、想起した婦人たちは、主の言葉に立ちかえりました。そして墓から帰って弟子たちにそしてみんなに一部始終を知らせました。彼女たちが復活の第一の証人、証し人となったのです。この彼女たちの喜びの声からキリスト教会の歴史は始まったと言えます。

私は高知の女性と結婚して12年になります。土佐の“はちきん”女と何事も物を断定的に言わない京男ですから、すんなりうまくいくはずがありませんでした。しかし今ではどのご夫婦にも負けないほどの関係となりました。それは言いのですが、実際こちらに来てみても、女性が奥に引っ込んでいるというのが全くなく、女だからこれをしてはいけない的なところがほとんど無い社会というのは、とてもユニークな土地柄、非常に珍しい気風で、素晴らしいと思います。

聖書の時代の女性が置かれている状況はどうであったかと言うと、全くそのようでは無かったようです。聖書の記述においても、女性と子どもは人数には入っておりません。イエスさまが二匹の魚と五つのパンで群衆をお腹いっぱい食べさせた “5000人の給食”と言われる奇跡の箇所でも、実際は女性や子どもの数の方が多かったと思われますが、その数の中には彼らは入っていませんでした。

今日の話の婦人たちは、その日見聞きした出来事の一部始終をイスカリオテのユダを除く11人の弟子たちと他の人皆、すなわち男たちに伝えましたが、使徒たちはこれをたわ言のように思い信じませんでした。これは先ほども見ましたように、使徒たちが生前のイエスさまの話しを忘れてしまっていたこともあったでしょうが、女性差別の考え方が男たちを支配していたことが根底にあったと思われます。女性の証言は当てにならないものと考えていたのです。しかしこの婦人たちの証言から復活の事実は広まっていったのです。

今期の『聖書教育』で西南神学部の片山寛先生は次のように書かれています。4〜6月号の49ページです。

●教会を形作るために

 この女たちの中の一人に“マグダラのマリア”がいました。彼女は8章2節では「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と記されています。悪霊とは人間を人間でなくする、非人間化をもたらす勢力、力のことです。人間を抑圧し分裂させ孤立と絶望の中に投げ込む、人間破壊の力のことです。その悪霊が七つも取り付いていたというのですから、凄まじい状態にあったことと思われます。彼女はイエスさまによって、この悪霊たちの支配から解放されたのです。キリストの愛によって癒され、生かされた女、キリストへの愛に裏打ちされた女がイエスの言葉を思い出し、そのことを証言、これこそ宣教ですが、復活のイエスを証ししていったのです。

 主の死という悲しむべき、絶望に支配され希望さえ見えない中にあって、主の言葉を思い起こし、その希望に生きて、イエス・キリストを証ししていくこと、そのことこそが“復活を生きる”ことなのです。

 今日の箇所では影の薄い、また物分りの悪い男たちの中にあって、一人名誉を挽回している男がいます。その男のことが記されています。12節のペトロです。彼は立ち上がって墓へ走って行きました。おそらく彼は半信半疑、いやほとんどマリアたちの話しを信じていなかったかもしれません。しかしそれでも墓に走り、身をかがめて中をのぞきこんでいます。彼はそこに亜麻布しかなかったことを驚きながら、信じられないまま家に帰ったことでしょう。しかしそれでも彼はマリアの証言に促されて立ち上がったのです。

 今日、私たちはイエス・キリストの復活の喜びを、福音を聖書を通して知らされました。これをどのように生きるかが私たちに問われています。復活の知らせをたわ言とするか、そのことを証言するものとなるか、信じ切れない思いにとらわれながらも立ち上がるか、がです。

お祈りします。いつものように黙想の時を持ちましょう。


2006年説教ページに戻るトップページに戻る