皆さんお帰りなさい。イースターが終わり本格的に2006年度のスタートとなりました。今日は午後から定期総会を行ないます。年に一度のことであり、昨年の歩みを振り返り、教会のこれからを話し合う大切な話し合いです。教会員の方は必ず出席下さい。
さて昨年度の後半は聖書教育から離れてメッセージすることが多かったのですが、今年度は聖書教育の聖書の箇所に従ってメッセージをしていこうと思っています。聖書教育では、昨年の2005年度より3年間のカリキュラムで「キリストと共に歩む教会」という総主題のもとに聖書から学んでおります。今年度の主題は「たてられる」です。キリストと共に歩むことで、私たちが教会としてたてられていくのです。
今日から3ヶ月間“主の祈り”について学んでいきます。“主の祈り”については、このマタイ版とルカ版がありますが、今回はマタイ版を読んでまいります。ルカ版の方には、弟子の一人が「わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったことに応えて、イエスさまが「祈るときには、こう言いなさい」と言って教えられた祈りであると記されています。イエスさまが直接祈り方を教えて下さった祈り、それが“主の祈り”です。そのため歴史上キリスト教会はこの“主の祈り”をとても大切にしてきました。世界中のほとんどの教会(全てと言ってよいと思いますが、確認したわけではありませんので)の礼拝において、この祈りが毎週献げられています。
“主の祈り”について、以前よりお伝えせねばと思っていたことがありますので、今日は最初に二つのことをお話させていただきます。一つ目は、“主の祈り”を祈る、というか口にするスピードです。以前より私は常々、どうして教会の礼拝においてはあのように早く唱えるのかと思っていました。何だか呪文のように早口で口にしているように私には思えたのです。何もゆっくりであればよいというのではないかもしれません。しかし一言ひとことを大切に思うなら、ゆっくり言葉を発することが必要だと私は確信しています。そのため私はゆっくり祈るように心がけています。子どもたちやまだ“主の祈り”を暗唱されていない方にとっても、その方が良いと思っています。
二つ目、これも皆さんの中には気づいておられる方もおありかもしれません。“主の祈り”はイエスさまが「こう祈りなさい」と言って教えて下さった祈りです。ですから無駄な言葉はありません。一言一句大切です。イエスさまは日本語を話されたわけではありませんから、私たちはイエスさまが教えられたそのままの言葉では祈りません。翻訳された言葉を用います。しかしたとえ翻訳された言葉であっても、その一つひとつを大切にすべきことは明らかです。ご存知のように、私たちが礼拝において祈る
“主の祈り”の言葉は聖書の言葉そのままではありません。プロテスタントの多くの教会では、この教会もそうですが、文語調の “主の祈り”が用いられています。これは明治の頃に翻訳されたものを今も使っているのです。10年ほど前に口語(現代の話し言葉)の“主の祈り”、「天におられるわたしたちの父よ」で始まるものが作られましたが、まだまだ文語調のものが主に用いられています。
では、“主の祈り”の文言を実際見てまいりましょう。新生讃美歌の裏表紙をご覧下さい。お気づきになったでしょうか。「悪よりすくいだしたまえ」ではなく「救いいだしたまえ」なのです。文語調ですから。“い”が二つ続くのです。新生讃美歌が最初に出された時は、間違って載せられていましたので、もし「救いだしたまえ」となっているものをお持ちの方がいらっしゃれば訂正下さい。繰り返しになりますが、イエスさまが「こう祈りなさい」と言って教えられた祈り、それが“主の祈り”です。一つひとつの言葉を大切に、心を込めてお祈りしたく思います。
さて“主の祈り”について学んでいくのですが、その一つひとつの文言については次週から見てまいります。今日はそれに先立ってイエスさまが述べられた祈りの心構えについてのところを取り上げます。ここでイエスさまは二つのことを教えておられます。一つは、祈りは見せるために偽善者のようにするものではないこと、もう一つはくどくどと祈るな、ということです。しかしこの二つは別なことをおっしゃっているのではありません。
くどくどと言葉数多く祈ることが神さまに喜ばれないことは当然のことでしょう。しかし祈りは短ければ良いというものでもありません。全くとまでは言わなくとも少ししか祈っていない者が、長く祈る人のことを批判出来るわけがありません。ここでイエスさまはそんなことを述べようとしておられるのではありません。要は心をどれだけ神さまへ集中させるかです。
そもそも祈りとは何でしょうか、どういったことなのでしょうか。様々な言葉で表現出来るでしょうが、もし一言で述べるなら、祈りとは信仰者にとっての生き方の中心であり、信仰の具体的な行動と言えるでしょう。聖書教育にも記されていることですが、祈る人は祈る時に、既に信じているのです。言い換えるならば、祈らずに信じることはないのです。すなわち、信じることは祈ることであり、祈ることは信じることなのです。
さて今日のタイトルは「一人で祈る」としました。今日の聖書の箇所においても6節で「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」て祈るようにイエスさまは説いておられます。しかしこれは5節のことを伝えようとして述べられたことです。祈りは人に聞かせることが目的ではないからです。祈りは神さまとの会話なのですから。ここで言っている一人とは、人に聞かせるためでなく、神さまの前に一人で出て、神さまと一対一になることを指しています。
言葉数多く祈ること、それは自分自身の口から出る言葉に重きをおいていることになります。ここでいう「くどくどと祈る」とは同じことを繰り返し言うことであり、8節で述べておられるように「父は願う前から、あなたがたに必要なものをご存知」であることを、かえりみない祈りをすることです。それは神を信頼するのでなく、自分を、また自分の言葉により頼んでいることとなります。祈りは神さまと一人で向きあうことです。ある特定の願いを神に押し付けるのでなく、私たち自身が父なる神と結ばれ、人格的な交わりをもつことです。
これも聖書教育で述べられていることですが、「祈るとは、最終的には私たちのすべての願いを神さまにお献げすること、そして私たち自身を神さまにお献げすること」です。心を傾けて神さまと対話し、私たちの願いが神さまの光によって清められて、ついには神さまご自身が私たちの願いとなるところまで、心を注ぎ出すことが祈りだと言えます。そのように祈ることで私たち自身が変えられ、弱く愚かな私たちの発する祈りが、深められ成長していくのです。
祈りは大きく二つに分けられます。それは一人の祈りと人と心を合わせて祈る共なる祈りです。共なる祈りとは、祈祷会や礼拝での公祷だけでなく、信頼している友や家族との祈りですが、祈りの基本はやはり「一人で祈る」ことです。
しかしここで問題となる一人とは数の問題ではありません。神さまの前に生身の状態、ありのままの状態で出ることです。その意味で神さまと一対一になること、それが一人の祈りです。祈りは神さまとの個人的な会話でありコミュニケーションです。祈りによって神さまとの個別的な交わりの内に歩むことが可能となります。ですから祈りは信仰生活の大切な営みであり、個人的なものです。しかし信頼する友や家族、また主にある教会の姉妹兄弟と心合わせて祈ることも、祈りの重要な一面です。
使徒言行録に記される初代教会は、集まってよく祈る教会でした。使徒言行録1章14節「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心合わせて熱心に祈っていた」、2章42節「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」、4章24節「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」、12章5節「こうしてペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」、13章2〜3節「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」
このように初代教会では何か事が起こると、いやとりたてて大きな事件がなくとも、普段から共に集って心を一つにして祈っていました。彼らにとっても、神との関係において祈りは一人の祈りでした。しかし一人で祈る信仰者であるならば、主にある仲間である者たちと共に祈ることを求め始めるものであります。そこにはイエスさまの教えが彼らの心に在ったことだと思います。こちらは開いて下さい。ご一緒に見ましょう。マタイ福音書18章18〜20節、35ページです。
「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
ここで述べられている二人または三人というのも数の問題ではありません。主にある姉妹兄弟が心合わせて祈るということです。
バプテスト連盟が出版した書物の一つに『教会生活入門 新・これだけは知っておこう』というのがあります。こちらです。これは教会生活の基本について記されているものです。その中の「祈祷会」という項目に次の文章が記されています。71ページからです。そのまま読ませていただきます。
「教会を船でたとえれば、礼拝は最上部の見晴らしの良いホール、教会学校や各会は様々に機能する小部屋、役員会は操縦室、そして祈祷会は機関室というところでしょうか。外からは全く見えませんし、目立たないところですが、祈祷会は、教会が教会として動く上で最も重要な役割を果たしているところです。ですから、教会の底力は祈祷会で判断できると言われます。クリスチャンになったら、礼拝と同様に、祈祷会を大切にしましょう。クリスチャンが一つ所に集まって祈ることは教会の力の源です。教会の祈りは神に届きます。時々、『礼拝には出席するが祈祷会までは……』と言われる人がいます。しかし、礼拝を大切にする人は祈祷会も大切にします。教会員は毎週の祈祷会に参加することが望まれますが、忙しい社会生活の中でそれが無理であっても、一ヶ月に一度は参加できるように予定を調整することはできるでしょう。どうしても参加できないときには、その時間に合わせて自分の居場所で祈りを合わせましょう。教会で祈祷会が行なわれていることさえ忘れて、その時間を無為に過ごすことのないように心がけたいものです。」
来週から具体的に“主の祈り”の文言について共に見てまいります。この“主の祈り”を口にするのは私たち一人ひとりです。そしてくどくどと祈らないために、イエスさまが教えて下さった祈りです。しかしこの“主の祈り”は共同体の祈りです。それはすべて、「わたしたち、われら」という言葉で祈るようにイエスさまが教えておられることからも分かります。祈りは個人のものです。一人の祈りです。神さまと私一人との会話です。しかし一人で神さまと向き合って祈る時に、そこには愛する家族や友、そして主にある兄弟姉妹のことが意識せられ、神との個別的な関係は、その隣人たちと結び合わされていくのです。その個別的な関係は、共同体へと発展させられていくのです。教会という名の共同体へとです。
お祈りをいたします。いつものように黙想の時をもちましょう。
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