「人間関係に行き詰まっているなら」 


 マタイ6章9節
 2006年4月30日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



  皆さんお帰りなさい。昨日中国・四国バプテスト教会連合の総会が今治教会で行なわれ、前田兄弟、松浦兄弟と北岡姉妹の4名で出席してまいりました。巻頭言にも記しましたが、バプテスト教会は各個教会主義に基づき、自主独立の教会運営がなされているがゆえに、教会がカルト化したり、孤立し独善的な歩みをすることになりかねません。そのため教会諸教会との協力と交わりを進め、それぞれの教会がそしてそこに連なる教会員一人ひとりがそのわざを担うことに積極的である必要があります。しかしそれは意識し、そして日頃から祈っていかなければ出来ないことだと思われます。

皆さんお一人おひとりそれぞれの生活をお持ちです。そしてそれぞれの仕事や働きをなさっている。その中でこの高知伊勢崎教会に連なってらっしゃる。自分の生活を維持するだけでも大変、また家族家庭のことも考えないといけない、それだけでも精一杯であることに加えて、教会の働きにも関心をもち、そのわざを担うことが求められている。そんな中で、連合や連盟のことに意識を持つことはとてもとても困難なことであるでしょう。

しかし私たちの教会の今の歩みがあるのは、連盟の連合の、そして南部バプテストの教会の支えと具体的な助け、そしてそこには無数の祈りがあったからです。今回の総会のことも追々報告してまいりますが、連盟や連合の動き、また働きに関心を目にするようにしましょう。バプテスト誌はそのための機関紙です。また教会の掲示板にも、教会に送られてくるそれらの一つひとつの活動や報告、お知らせが掲示されています。そられに目を通されることをお勧めします。そしてお一人おひとりの祈りの項目の中に加えて祈っていきたく願います。

 さて、先週は祈りは個別的なものであるが、その個人の一人の祈りは主にある姉妹兄弟や愛する家族、知人へと結び合わされ、主との個別的な関係は、教会という共同体へと発展させられていくことを学びました。信じることは祈ることであり、祈ることは信じることです。イエス・キリストを父なる神を、御霊なる聖霊を信じることは、その三位一体の神さまに祈ることです。一人ひとりの祈りの生活だけでなく、主にある兄弟姉妹と心を合わせ、祈りの課題を共有して祈ること、具体的には祈祷会に出席し、またたとえ出席出来なくとも、教会の祈りの課題を共有して祈りましょう。

 本日与えられました聖書のみ言葉は、6章9節です。1節だけです。先週も申し上げましたが、3ヶ月かけて主の祈りを、具体的には6章の9節から12節と、最後に、この6章には記されていませんが、実際私たちが祈っている「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」のところを見てまいります。

 “主の祈り”は多くの方がよく覚えておられることと思います。一つひとつの言葉の意味についてそれほど考えなくともすらすらと出てくるものでしょう。そのように暗唱出来るということはそれだけ身についているということですから、素晴らしいことだと思います。しかしその上で、もう一度確認する意味で申し上げるのですが、暗唱出来るほど覚えている、意識しなくとも口から出てはくるけれども、どこまで私たちの生活に根付いていると言えるでしょうか。繰り返しになりますが、イエスさまが「こう祈りなさい」とおっしゃった祈りです。ですから私たちの祈りの生活は“主の祈り”によって形作られると言えますが、実際“主の祈り”は私たちの生活の中に深く食い込んでいるでしょうか。そのことをこれから3ヶ月間共に考えていければと思います。

今日は取り上げるのは9節の真ん中の「天におられるわたしたちの父よ」のところです。これは神さまへの呼びかけの言葉です。今回準備の過程で読んだ資料の中で、ある方は次のようにおっしゃっています。「私は今まで決して軽視していたわけではありませんが、この呼びかけを郵便番号の宛名のようなものだと思って、これが祈りの内容に匹敵する、いや、すべてを決定する重要さをもっていることを十分認識していなかったと告白しなければならない」と。

 この世の祈願というのは、何を願うかということが中心となります。もちろん“主の祈り”においても、この呼びかけに続く、具体的な祈りの内容こそ重要だとも言えます。しかし先週のところでイエスさまは、8節ですが「あなたがたの天の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」とおっしゃっています。ですから少し極端なことを言えば、願い事を言わなくとも、父なる神さまは分かっておられるのだから、祈りにどう取り組むか、その態度が問われているとも言えます。今日の「天におられるわたしたちの父よ」との呼びかけは、その祈りに対する態度を示すところであるのです。

 私たちの祈りはどうしても自己中心的です。特に苦しい時、しんどい時は、そうだからこそ祈るのでしょうが、神さまの前にひざまずいていても、自分のことしか考えていない、また当面しているその状況や課題のことが頭を支配してしまっている。だから自分のことを訴えることから始めてしまいます。

 しかし今日のところで主イエスが教えられたのは、願いを言う前に一息いれよ、ということです。先ず神さまの方に心を向けよ、祈りの態度を整えよ、とおっしゃっているのです。変な言い方になりますが、何も願わないことで、もう既に祈り始めているのです。

 神さまは私たちの願いを叶える道具のようなものでは決してありません。祈らぬ先から私たちに必要なものを知っておられるお方を、「わたしたちの父よ」と感じ、「わたしたちの父よ」と呼びかけることが出来れば、ある意味祈りはもう聞かれたも同じであるのかもしれません。この信頼関係がないところで、どんなに立派な祈りをしたところで、この後のイエスさまが教えて下さった“主の祈り”をきちんとしたところで、何も実らせることはないでしょう。自分のことを考えて祈るのでなく、わたしたちの父に思いを馳せて祈り始めるとき、自己中心から解放され、神さまに喜ばれる、み旨にかなった祈りに出発することが出来るのです。

 イエスさまはここで、神を「父」と呼ぶように教えておられます。そのように神を「父」と呼ぶことは旧約聖書においても用いられています。今日は一つひとつ詳しく見ていくことはできませんが、申命記32章6節、サムエル記下7章14節、イザヤ書63章16節、マラキ書2章10節などがあります。ユダヤ教の文学や祈祷文の中にも「我らの父」「わが父」という句はよく出てくるものだそうです。

しかしイエスさまは、マルコ14章36節にあるように、「アッバ、父よ」とよびかけられました。当時そのような呼びかけるは祈りは。この「アッバ」という父への呼びかけは、ユダヤ人の家庭においていまだ口のきけないほどの幼児が、父親のひざの上で呼びかける親しみにみちた家族用語だと言われています。荘重で厳かであるべき祈りの言葉の中に用いるには、あまりに世俗的、日常的な言葉であったのです。

 パウロはローマの信徒への手紙8章15節からで次のように述べています。284ページです。

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」

 イエスさまは神さまの独り子としてこの地上での生涯を全うして下さいました。それは十字架の道、復活への道でありました。そしてそのイエスさまのみ業、十字架の贖いを通して、父なる神さまは私たちに神の子となる霊を与えて下さったのです。ただ一方的に与えたというのでなく、このロマ書の言葉にあるように、意識しているかどうか関わりなく、私たちは既に受けているのです。神さまは私たちを神の子として下さったのです。そして神を「アッバ、父よ」と呼ぶように、その霊を“受けた”のです。

 ローマ帝国の皇帝が凱旋する時の一つの話があります。

「ローマでは戦勝者の栄誉をたたえるために、その軍隊が戦利品や捕虜を従えて、ローマの市中を行進することになっていました。そこで皇帝は、戦勝軍の先頭に立って行進していました。道の両側には人々が並んで歓声を上げ、長身の兵士たちは街角に立って観衆の整理にあたっており、凱旋通りの一角には壇が設けられ、そこには皇后とその家族が座って、勝利に輝く皇帝を見ようとしていました。この壇上には皇帝の末の小さな男の子が、母親といっしょに座っていました。皇帝が近づくとその子どもは壇から飛び降り、群衆を掻き分け、兵士たちの足の間をぬって通りに出て、父親の馬車に近づこうとしました。兵士はかがんで少年を引き止めて抱き上げました。『坊や、よしなさい。だれがあの馬車に乗っているのか知っているの?皇帝だよ、皇帝。皇帝の馬車の近くに行っては行けない。』すると小さなこの子どもは笑って言いました。『あの人は皇帝だけども、僕にはお父さんなんだ』と。」

 父なる神さまは素晴らしい権威と権能、み力をお持ちのお方であります。この世の王、皇帝以上の存在であられます。しかしイエスさまは私たちにその王に対して「“アッバ、父よ”と呼びかけよ」とおっしゃっているのです。

 本日のメッセージのタイトルは「人間関係に行き詰まっているなら」としました。お聞きの皆さんの中には、タイトルの話の内容のどこが関連しているのかと思われている方もあるかもしれません。

 人間の悩み、苦しみの大半は人間関係にあるそうです。新しい職場に行く時に最も気になるのは何でしょうか。自分に仕事がうまくできるだろうか、ということよりも、最も心配なのは、その職場の人間関係、どんな人がいるのだろう、ということです。人とどのようにうまくやっていくか、親子関係や兄弟関係や夫婦関係、友人関係、隣人関係にみんな悩んでいる、苦しんでいる。うつになり、そのことが原因で自らの命をたってしまうことさえある。

 その解決策は何であるのか。それが今日の“主の祈り”の呼びかけにあります。神を神として歩んでいくこと。その神は天におられる、何者にも比べがたいほどに尊厳に満ちた偉大なお方です。その神さまを神さまとして第一としていくこと。そしてそのお方と親しく交わっていくこと。愚弟的にはその人間関係の苦しみ、悩みは多岐にわたっているでしょうし、それぞれに具体的個別的な解決の方策必要となってくるでしょう。しかしその根本にあるべきは、私たちと神さまとの関係です。その神さまとの関係を今日の祈りにあるように築いていくことが、その行き詰まりを打開する第一歩です。

 この“主の祈り”を祈ることで、またこの“主の祈り”に表れている神さまとの関係を築いていくことから、隣人と共に歩んでいければと願います。


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