「御名が崇められますように」 


 マタイ6章9節
 2006年5月7日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。“主の祈り”三回目です。祈る時、特に困難や苦しさを抱えて祈る時の私たちは、自分のことしか考えられなくなっているものです。それゆえ、そのような時こそ、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけることで、心が整えられ、一呼吸おいた祈りになることを先週学びました。何を祈るかが大切なのは当然ですが、自分の心を天の神さまに向けることが祈りに入っていく第一歩であり、そのように心の姿勢を正せば、祈りは聞かれたも同然なのです。自分自身に囚われている思いから解放されて、心の姿勢を神に向けて祈ることは、私たちの神さまとの関係はより確かなものとしてくれます。またそれが悩みの種である人間関係の問題の解決ともなるのです。

 今日はその「天におられるわたしたちの父よ」の呼びかけに続く、具体的な祈りの言葉の最初のところです。先ほどの“交読”ですが、これは“マリアの賛歌”と言われる詩です。アドベントやクリスマスの時に礼拝で読まれることが多い箇所です。「クリスマスでもないのに、何故」と思われた方もあるかと思いますが、今日の“主の祈り”の「御名が崇められますように」と祈る心は、この“マリアの賛歌”に繋がることを示されたことにより、今日は詩編の交読を変更しました。

 “主の祈り”は、先週見た“呼びかけ”を除くと6つの祈りから成っています。13節を2つに分けて7つの祈りとする分け方もあります。この6つのうち、前半の3つ「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行なわれますように、天におけるように地の上にも」は、神に関する祈り、それ以降の後半は人についての祈りです。昨年十戒をご一緒に見てまいりましたが、十戒も神との関係、人に関することの二つの部分に分けることができました。この二つの順序はとても大切です。この前にもある十字架の縦と横の線と同じです。縦の、神との関係が基調となった上に、横の、人との関係が築かれていくのです。縦の関係、先にありきです。“主の祈り”においても、先ず最初に神との関係の祈りがあって、それに続くものとして人についてのことを祈る。人に関して祈る時も、詳しくはその時にお話しますが、「わたし」ではなく、「わたしたち」と共同体の事柄として祈ります。

 さてここでの「御名」ですが、原文では「あなたの」という語がついています。これは神さまの名を崇めることの祈りであります。「名は体をあらわす」とわが国では言いますが、ユダヤの社会においても全く同じでした。ヘブライ語の名前は、その人物の性格・個性・性質を意味します。そしてそのことは、神さまの名前にも当てはまります。神の名は、神さまご自身の本質そのものを意味します。ある宗教では、名を知ることでその人を支配し、呪いをかけることが出来ると考えます。またその神の名を知ることは、神の力を所有することとなるゆえ、呪いをかける時に神の名を用いるそうです。一方、聖書の神さまは人間によってその名が盗み知られるような神ではなく、むしろ神さまの方が造られた一切のものに名を与え、これをご支配なさるお方です。そして神さまは知られざる神の状態にご自身を留められるのでなく、その絶対主権を失うことなく、むしろその主権のゆえに、ご自身の名を人間に知らしめ賜います。神の名を問うたモーセに、ご自身の名を「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14節)と教えてご自身を表されましたし、キリスト降誕の預言においては「『その名はインマヌエル(神は我らと共におられる)』と呼ばれる」(マタイ1章23節)と告知されました。

 ヨハネ17章は、イエスさまが十字架を直前に控えた時に祈られた祈りです。“大祭司の祈り”と呼ばれています。ここではイエスさまが、ご自身に与えられた御名にこそ力があり、その御名を現すことがどれほど大きな意味があるかを述べておられます。6節「わたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました」11節「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」12節「あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました」26節「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」

 名を知ること、名前を掴むことは、その人を支配することとなります。宮崎駿監督のアニメ『千と千尋の神隠し』は多くの示唆に富んだ物語でした。そして正に“名前探し”の映画だと言えます。主人公の小学生の千尋は、その迷い込んだ不思議の町で、油屋という風呂屋を経営している魔女の湯婆婆に、千尋という名前を奪われてしまいます。彼女を助けた謎の美少年ハクも、湯婆婆に支配されることで忘れてしまった自分の名前を思い出すことを願っています。千尋もハクも、名前を奪われることで、アイデンティティ(自分という存在の独自性についての自覚)を、自己自身を、失っていきました。そして物語りの最後で名前を思い出したことにより、二人とも自分自身を取り戻すことが出来ました。私たちにとって名前というのはそれほど大切なものであります。

 世の中は占いが全盛、というより、占いに支配され、占いに従わせられているかのような様相を呈しています。姓名判断もおお流行りです。名前はそれだけ私たちの存在に大きな意味を持っているのですから、人々がそのことに囚われ、奔走するのでしょう。しかし聖書ははっきりと占いを禁じています。レビ記19章26節で「占いや呪術を行なってはならない」と記しています。このような規定があるということ自体が、当時の社会においても占いがもてはやされていたことを示しています。占いのどこが悪いのか、それは私たちがどうすべきか迷った時、悩んだ時に、何に聞くべきかということです。私たち聞くべき対象が、占い師やその教えにあるのでなく、神に聞くべきことは明らかだからです。

 先々週も申し上げましたように、私たちが覚えている“主の祈り”の文言と今日の聖書の言葉は異なっています。これは、明治期に訳されたものを礼拝で用いているからです。今日のところも、微妙に違っています。「御名をあがめさせたまえ」と「御名があがめられるように」。この違いに気づかれるでしょうか。「崇めさせたまえ」は“私たちに御名を、(すなわち)あなたご自身を崇めさせてください”ということになりますが、「御名が崇められますように」だと、“神さまの名前そのものが崇められるようにしてください”。ということになります。

ところでこの「崇める」という訳ですが、これは原文では「聖とする」という言葉が訳されたものです。これは単に“聖い”という意味だけではなく、本来的には“異なった、区別された”という意味です。区別されたものが“聖い”のは当然です。すなわち“御名を他のすべての名と区別する、特別なものとする”というのが“聖”の示す内容です。ですから「崇めさせたまえ」とは“御名を聖とさせて下さい”ということであり、「御名が崇められるように」は“御名が聖とされるように”となります。実は原文の意味に近いのは「御名が崇められるように」“聖なるものとされますように”なのです。

 微妙な些細な違いのようにも思えますが、この違いは重要です。“聖とさせたまえ” だと、神さまの力、導きがあった上でのことですが、“聖”とすることにおいて私たちが介入することとなります。しかし、神さまご自身の聖さを保つことは、私たちがすることではなく、神さまご自身がなさることです。私たちがどうあろうが、どうなろうとも、神さまご自身がその名に相応しい聖さを保たれるものなのではないか。私たちは「御名を聖める」どころか、かえってその邪魔というか、“汚し”てしまいかねない。何よりも神ご自身が聖いのであり、神ご自身がその聖さを貫かれるのではないか。そのことを願う祈りです。“聖める”のは、“私たち”ではなく、“神さま”が“聖められる”のです。更に言うと、神さまご自身が聖さを貫かれる時には、私たちは審きを受けなければなりません。そして、たとえ私たちが審かれようとも、また滅ぼされるようなことになっても、「あなたさまの御名が聖く保たれますように」と祈ることを、神さまは私たちに求められるのです。とても、とても厳しい祈りです。この祈りをすることに恐れを感じさせられます。また私たちは、このような祈りをさせていただくだけるような者などでは決してない、そんな資格は無い者なのです。

 しかし“主の祈り”は、もう既に耳にタコが出来ているかもしれませんが、イエスさまが直接、「こう祈りなさい」と言って教えて下さった祈りです。イエスさまは、私たちの弱さも罪も全部ご存知の上で、「こう祈りなさい」と言って命じておられるのですから、無駄な言葉は一切ありません。また、「御名を崇めさせたまえ」という訳が誤訳だとするのは早計です。「聖められる」のは神さまですが、私たちの側にも何かすることはないか、神さまの御名を聖とするために何かさせていただけることがあるのではないか、と私は思ったのです。そこで示されたのが、“マリアの賛歌”でありました。ルカ1章47節からです。先ほども交読しましたが、もう一度見てまいりましょう。(101ページ)

「わたしの魂は主をあがめ、

わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、

力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。

その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。

主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、

飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。

その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、

わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

 

マリアはこの“マリアの賛歌”において、主をあがめ、その御名が尊ば

れることを願い、神さまをほめたたえています。この時のマリアは10代

の少女でしたが、まことに堂々とした素晴らしい祈りです。ここで注意し

て見てみますと、「あがめ」と“主の祈り”と違い、新共同訳は“ひらが

な”を用いて訳しています。これは、原文では別な言葉が用いられている

ことによります。この「あがめ」るは、“主の祈り”で用いられている“聖

める”という意味での「崇め」ではなく、“大きくする”という言葉が使

われているのです。マリアはここでは「わたしの魂は主を大きくする」と

祈っているのです。この“マリアの賛歌”を、後の教会は“マグニフィカ

ート”と呼んで、とても大切にしてきました。多くの作曲家が曲をつけ、

歌われてもきたほどです。地震の大きさを表す“マグニチュード”という

単位がありますが、この二つ“マグニフィカート”と“マグニチュード”

は同じ語源を持つ言葉です。主を、神を大きくする、とマリアは歌うので

す。私たちが神さまの大きさを自由に変えることなど出来ません。神は私

たちがどう捉えようとも偉大です。私たちがどのように神を信じようとも、

またどのように祈ろうとも、神さまの大きさが変わるはずがありません。

マリアは、神さまの大きさを認めているのです。私たちの言葉では言い表

しようのないほどの、神ご自身の大きさを認め、ほめたたえているのです。

神さまを大きなものとすると、必然的に私たちの存在は小さくされます。

しかし、私たちが大きなままでは、神さまは小さいままなのです。私たち

が小さくなってこそ、神さまの存在は、そのお姿は、私たちの心の中で大

きくされるのです。

マリアは続いて、自分のことを「身分の低い、この主のはしためにも」と述べます。彼女は決して「神さま、私があなたの名を聖くしてあげます」などとは思っていません。自分は“主のはしため”に過ぎないと自分自身の小ささを認めています。神の前で、自分自身を小さくしているのです。

マリアは、「わたしは主のはしためです、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(49節)と、自分自身を取るに足らない小さなちっぽけな存在に過ぎないという謙遜さを持って祈ります。このマリアの祈りこそが、罪深い、審かれるべき存在に過ぎない者に出来る、イエスさまが求めておられる「御名を崇めさせ」ていただく祈りです。

「御名が崇められるように」と祈ること、それは、神さまが他と区別された存在とされるように、と祈ることです。神さまを聖なるものとするのは、私たちの思いでなされるものではなく、神さまご自身がそのように取りはからわれることです。私たちの力はそこには及びません。しかしそんな私たちであっても、イエスさまは「御名を崇めさせたまえ」と祈ることを御ゆるし下さっているのです。神を大きなものに、自分自身を小さなものとすることによってです。神さま、「御名を崇めさせ」て下さい。

お祈りをいたします。黙想の時を持ちましょう。


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