「我らの日用の糧を今日も」 


 ルカ6章11節
 2006年5月21日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。週報でもお知らせしておりますように、昨日今日とご奉仕いただくことになっていました友野富美子姉妹がご自身の懐妊により、今回奉仕いただくことが出来なくなりました。とても残念なことですが、姉妹から「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、皆さまにくれぐれもよろしく伝えて下さい」とのメッセージをいただいております。

私は彼女とは10数年来の友人でありまして、それだけに様々なことを思わされ、同時にこの一連の出来事を通して、神さまの導きを強く感じさせられて今では感謝しております。彼女は膵炎という膵臓の持病があることから、先週月曜日に「体調が良くない」とのメールを受け取った時は、私は当然その持病の膵炎のことを思い浮かべ心配しました。本人にとっても今回のことは全く予測していなかったことのようです。突然のことで皆さまにもご迷惑をおかけしたことを本人に成り代わりお詫び申し上げます。

今 “主の祈り”を取り上げており、先週は「御国が来ますように、御心が行なわれますように」の箇所をご一緒に読んだばかりでした。また、先々週は「御名が崇められますように」とは、自分を小さくして神さまの御名を大きくすることだと教えられたばかりでした。今回の友野さんの一件は、彼女がパーソナリティーを担当しているラジオ放送『キリストへの時間』の録音のために来高することに合わせて、この教会でも何かしらしてもらえないだろうかと考えてのことでした。その計画自体が御心にかなっていなかったとは思いませんが、神さまの御心がなるということ、御国が来る、これは先週も話しましたが神さまのご支配のもとにあることですが、それはこういったことを経験させられることなのだなと、教えられた思いでいます。私たちは様々な計画を立て、教会の活動を行なっていきます。伝道をします。しかしその時に常に考えておかないといけないことがある、忘れてはならないことがある、それは、そういった活動の全ては神さまの働きを進めるためであるということです。しかしそれが、えてして自分たちの勢力拡張のためであったり、自分たちのシンパを増やすためであったり、自己実現のためのわざになってしまいます。私たちが意識するとしないとに関わらず、そのわざや活動は全て神さまの御心に従って進められていきます。ですから、私たちがどんなに綿密に計画を立て、長い時間をかけて準備していっても、突然そのことを中断しないといけない事態になることがあります。今回のように、その計画を手放さないといけなくなります。それは残念なことですし、神さまに対して疑問を感じたり不満の一つでも言いたくなります。しかしこれこそが、御心がなることであり、御国が来ることなのです。

友野さんからそのラジオ番組『キリストへの時間』の宣伝をして欲しいと頼まれましたので、少しそのことを話させていただきます。壁にも掲示していますが、日曜の朝7時30分から45分までの15分間、高知放送900KHzでオンエアされています。改革派という教派のラジオ伝道部によって制作されている番組ですが、開始されてから50年以上になるそうです。是非一度聞いてみて下さい。友野さんも言っていましたが、日曜の朝というのは、教会に行く時であり、とても忙しい時でしょう。だから礼拝に出席出来ない時にこそ聞いて頂きたいと。週報の巻頭言にも記しましたが、日曜日は安息日です。この日に私たちは礼拝をしますが、それだけが安息日の過ごし方ではありません。イエスさまのご復活と神さまの天地創造のみわざを覚え感謝することが安息であり、この日の過ごし方です。どうぞそのためにもこの番組をお用い下さい。インターネットホームページ、伊勢崎教会のホームページのリンク集からも『ふくいんのなみ』というホームページがあります。そのホームページで、つい最近まで、放送の内容が録音されたものが聞けたのですが、現在は音楽の著作権の問題から、ホームページ上では録音は聞くことが出来ません。しかしそこで話されたメッセージは文章で読むことが出来ます。是非一度ラジオをお聞きくだされば、またホームページをご覧下されば感謝です。

さて“主の祈り”5回目、本日与えられましたみ言葉は、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るところ、聖書の言葉では「私たちに必要な糧を今日与えてください」です。先週までが神さまとの関係に関する祈りであったですが、この祈りからは私たち人間の生活の生活に関する祈りに入っていきます。

その私たちの生活に関する祈りの最初に“日用の糧”を求める祈りをするように、イエスさまは教えておられます。この後の“罪の赦し”や、“試みにあわないように悪から救い出されること”の祈りと比較するならば、あまりに日常的でこの世的な祈りに思えないでしょうか。イエスさまは荒れ野で悪魔から誘惑をお受けになった時「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」とおっしゃいました。しかしこれも精神主義を貫いて生きるのでなく、一切を神に求めて生きることを言っておられるのだとすれば、日々の糧であるパンを求める祈りをすることとは矛盾することではありません。むしろ単純に子どものように生活の全てを神からえようとすることこそが「神の口から出る言葉に生きる」ことだと言えます。箴言28章21節には「だれでも一片のパンのために罪を犯しうる」とあります。神さまは私たちに生きるように命じておられます。そして生きるためには、肉体を維持していくためには、パンが必要であり、そのパンの奪い合いで争いをし、場合によっては殺し合い、戦争までしてしまう弱い存在である。そのことへのイエスさまの深い洞察であり、配慮であり慰めです。

また、今日からの人間に関する祈りは全て「我らの、私たちの」と複数形で祈るように教えられています。これは共同体の祈りであります。これは何も、“主の祈り”は個人が一人でする祈りであり、教会の礼拝の中でだけ献げるものだということではありません。家で一人で祈る時であっても、常に共同体を意識して祈るということです。この共同体がキリストのからだとしての“教会”であることを指しています。“主の祈り”は教会の祈りであります。そのキリストのからだなる教会に連なる者として祈ることを、イエスさまは教えておられるのです。ある人は先週までの前半の祈りにおいても、「我らにおいて」を加えて祈るべきだと言っています。「御名が崇められる」「御国が来る」「御心が行なわれる」のも全て、「我らにおいて」だというのです。そして今日のこの「糧」を求める祈りも、自分一人だけのまた自分の属する教会にだけ食べ物が与えられるように祈ることを教えられたのでもありません。イエスさまの時代にも一日の食べ物に事欠くほどの貧しさ中におかれた人々が多くいました。イエスさまはそういった人々との連帯感の中で祈りつつ生きるように教えられたのです。人類の食糧事情という点に関して言うと、現代社会における貧富の格差は当時とは比べものにならないほどに広がっており、そして聖書教育にも記されてある通り、日本を含めた富める国々に直接的な責任があることは明らかであることから、そのことを考えて祈ることが求められています。教会は世の糧の貧しさと分配のために配慮しなければなりません。主が歴史をご支配されるゆえに、教会はこの世に対して責任を負い、この世のただ中で尽力すべきであります。しかし今日はそのことを踏まえ念頭に置いた上で、与えられたみ言葉に焦点を絞って話しをさせていただきたいと思います。

今回準備の中で読んだある牧師の説教に、その先生が私と同じ思いを持たれたことが書かれていました。とても些細なことですが、何だか嬉しい気分になりました。その先生は子どもの頃から教会学校に通っておられたそうですが、聖書「日用の糧」という言葉の意味が分からず、どうしても“日曜日の糧”と思い、それはなんだろうと思われたそうです。私が教会に通い出したのは、大学2年生の19歳の時でしたが、同じ事を考えたのです。これは文語約聖書の訳に従ったのだろうと思いますが、口語訳聖書では「日ごとの糧」新共同訳では「必要な糧」とされています。

“日用”という言葉は一般には単独で用いられたり、“日用の”という言い方でもあまり用いられないと思います。一般には“日用品”あるいは“日用雑貨”くらいではないでしょうか。辞書で調べますと「毎日使用すること、またそのもの」とあります。皆さんは“日用”と聞いて、何を連想されるでしょうか。私は何故だか“トイレットぺーパー”を思い浮かべました。無くてはならぬものですが、値のはるものではなく、毎日使っているもの、それが“日用品”であり、“日用雑貨”です。

新共同訳聖書では「私たちに必要な糧を今日与えてください」となっています。言うまでもなく、これは「ご馳走を与えて下さい」と祈っているのではありません。毎日の食糧・食事、これがなければ生きていけません。レストランに行って食べるご馳走がなくとも生きていけます。しかし毎日の食卓に上る食事がなくなったら生きていけません。“主の祈り”の人間の生活に関する祈りは、そこから始まっているのです。イエスさまはそのことを教えられたのです。高度な祈りとは思えません。ありふれた、もっと言うと俗っぽいとも思える願いです。しかし誰もが祈らなければならない、だれもが直面させられる問題に関する祈りです。更に言うと、それだけに誰もが祈ることの出来る祈りだと言えます。

しかしどうでしょうか、私たちはこのことを真剣に祈り求めているでしょうか。この次の「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という祈りは、よく考える。考えるというより、胸にぐさっとくる祈りに思えます。だから口にする時にも、複雑な思いを持ちながらであっても、自分の思いを集中させる。しかしこの「日用の糧」のところは、悪い意味でさっと口にしていないか、あまり深く考えずに祈ってはいないでしょうか。軽く考えて祈ってはいないでしょうか。また、私たちの思いの中に「毎日、自分がまた連れ合いが働いて稼いでいるから、食べていけるのだ」とそういうものとしてどこか思っていないか。特に日本ように毎日の食事について切実に考えなくとも、食べていける国においては、真剣なまた切実な思いで祈る心が欠けているのではないでしょうか。

実はこの「日用の」「必要な」と訳されている言葉、“エピウーシオス”というギリシャ語ですが、この言葉は新約聖書の他の場所には出て来ない、ルカ福音書の “主の祈り”のところにはこの言葉が使われていますが、それ以外には全く一度も出て来ない言葉なのです。聖書だけでなく、他の書物にもほとんど出て来ないのです。そのため「日ごとの」「毎日の」と言った訳から、「将来の」「明日の」「終わりの日の」「天上の」まで様々な解釈がなされているのです。正直言ってどのように訳したらよいのか分からない、お手上げの言葉なのです。

ただ他の文書で使用が認められるのは、一つだけです。それはエジプトで見つかった商業文書、支出明細書に、エンドウ、藁などを買った支出項目の中に、この言葉に類する言葉が用いられていることが分かりました。そこから「毎日の」「日用の」と訳しているのですか、「この次の」「明日のための」という意味かもししれないと言われています。そういったことを踏まえて新共同訳は、「必要な」と訳し直したのではないかと思われます。聖書教育も「明日のための」という訳に従っています。

そう思うと、思い起こされるみ言葉があります。この“主の祈り”の後の6章34節の「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の労苦は、その日だけで十分である」です。この言葉も矛盾するものとは思えません。自分がひと時ひと時を生かされる時、それを支える不可欠なものが与えられることを信じて祈る。天の父は空の鳥を、野の花を養っていて下さる、だからそのことを思い煩うな、とイエスさまは教えて下さっているのです。それはまた、この次の時も、私に命を与えて下さい、あなたがさまが養って下さい、と祈ることであります。

言うまでもなく、私たちは次の瞬間にどうなっているか、生きていられるか、明日どのような状態にあるのかを知ることは出来ません。次の瞬間の自分自身の状態を保証することとは出来ません。どんなに注意していても、心臓発作を起こすか、事故に遭うか、地震が起こるかも分かりませんし、そのような意味では命の保証はないのです。だからこそ、御心ならば必要な糧を与えて下さい、命を支えて下さいと祈るのです。

 「日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りは、「神さま、どうぞ御心なば、今日一日生かして下さい、次の瞬間も生かして下さい」という祈りです。次の瞬間に死んでしまっていたら、神を恨むのではありません。また人間いつ死ぬか分からないのだから明日のことなんか考えたってしかたがないと、世の中自分の命をはかなんだり、厭世的になり人生を意味のないものと考えるのでもありません。この私を生かし、私の肉体や命を神さまが支配し支えていて下さることを信じる祈りです。神さま、全てをあなたにお委ねします、という祈りです。これは次の瞬間をも神の御手に委ねる、神の御手の中にあることを信じて望みをもって生きる、そのような信仰告白の言葉であります。その告白の中で、神さまによって生かされていることを感謝して生きるのです。

 最後に、一人のカトリックの神父に教えられたことをお話して終わりたいと思います。その神父はペトロ・ネメシェギというハンガリーの方で、日本で40年以上奉仕された後、現在は祖国に帰られて過ごされている神父です。私がよくお話しする、ひまわりは太陽の方にいつも顔を向けているからその姿が太陽のようになったという話もこの神父から教えていただいたものです。

 ネメシェギ神父は毎晩次のように祈るそうです、「神さま、今日一日生かして下さって感謝します」。そして眠りにつく。その時に「この命が今日で終わったとしても構わない、この命は私のものではない、神さまのものだ。だからこのまま眠ってたとえ翌朝目が覚めないとしても構わない」と思われるそうです。一日いちにちをそのような思いで、神さまに感謝しお仕えしながら生きています、とネメシェギ神父はおっしゃいます。そうすると、朝目が覚めた時、本当に感謝な思いに満たされるそうです。「神さま今日も生かして下さって感謝します。今日一日の命を与えて下さって感謝します」と。お祈りをいたしましょう。いつものように黙想の時を持ちます。


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