「私たちが赦しましたように」 


 ルカ6章12節
 2006年5月28日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。最初に昨日また衝撃のニュースが私たちの耳に入ってきました。インドネシアのジャワ島で27日の朝、マグニチュード6.2の地震が起こり、第一報の段階で死者が2700人以上出ていると報じられています。最初にそのことのために祈りの時を持ちたく思います。

今日は今城由香理姉妹のピアノの奏楽に加え、中島竜佑兄弟のギターの伴奏で讃美できましたこと、とてもうれしく感謝です。運動会のため子供たちがいつもより少ないのが残念ですが。私は奏楽者泣かせの牧師だと言われています。出来る限り新しい讃美歌も礼拝に取り入れたいと思っているからです。今城由香理姉妹には無理を言いまして、先ほどの曲新生讃美歌の390番を練習していただきました。かなりの時間を練習に費やされたと聞いております。皆さんがお持ちの新生讃美歌集の楽譜には主旋律とコードしか記されていませんが、先月の教会音楽研修会の時に、伴奏譜を入手したと聞いた時から、この曲を礼拝の讃美に入れることを決めておりました。その楽譜に忠実に弾いて下さったこと、感謝です。

一昨日は南与力町教会でオルガンコンサートがあり、この中にも出席されていた方もいらっしゃいますが、礼拝の讃美歌の奏楽にはオルガンは捨てがたいと思わされました。しかし讃美するのに用いる楽器に、オルガンだけでなくそれ以外のものも用いることは素晴らしいことだと思います。ピアノ、ギターは言うに及ばず、その他にもベース、打楽器、金管・木管楽器、ハーモニカ、ウクレレ、どんなものでも良いのです。皆さんの中にも、讃美の奏楽をこの楽器でしたいというのがあれば、申し出ていただければ嬉しく思います。また、その曲のメロディーも伝統的な曲調だけが讃美歌として相応しいわけではありません。いろいろな旋律の讃美歌があって良いのです。讃美とは神さまをほめたたえるためのものですから、讃美する人が心から神さまをほめたたえることが出来れば、その讃美を神さまは喜んで下さいます。

先ほどの新生讃美歌390番「地球のどこかで」は第三回の全国小羊会キャンプのテーマソングであり、小羊会の定番の曲です。小羊会とは女性連合が中心となって行なわれている活動で、子どもたちをイエスさまを信じる信仰に導き、幼い時から世界伝道に参与する喜びを伝えていくことをその目的としています。伝統的な讃美歌のメロディーと違い、今の子どもたちの好むような曲です。おそらくこの教会では礼拝で讃美するのは初めてだったのではないでしょうか。初めてで十分に讃美出来なかった方もおられたのではないかと思います。もう一度讃美しませんか。よろしくお願いします。

私は決して、礼拝の讃美歌をこのような曲ばかりにしようとは思いません。伝統的な讃美歌もあり、また新しいメロディーの曲もある礼拝。教会とは子どもから大人まで全年齢層の者たちが集って礼拝する場であるのですから、それぞれの方たちが讃美出来るような讃美歌を用いていきたく思っております。

 さて、“主の祈り”も今日で6回目となりました。ここまで読んできて皆さんはどのような感想をお持ちでしょうか。今までただ何となく唱えていた、口にしていた“主の祈り”の言葉の一つひとつにどれほどの意味があったのか、その言葉の重さに新鮮な思いを抱いておられるのではないでしょうか。“主の祈り”、それは「イエスさまがこう祈りなさい」と言って、教えて下さった祈りなのですから。

 本日与えられましたのは、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」です。今回読んだ資料の中に、ドイツの家庭で一般的に祈られる“食卓の祈り”というのがありました。それは「主よ、私たちになくてならぬものが二つあります。それをあなたの憐れみによって与えて下さい。日ごとのパンと罪の赦しを」というものです。言うまでもなく、これは先週と今週の“主の祈り”の言葉によっています。“日ごとのパンと罪の赦し”一見すると全く違うことのように思えますが、どちらもなくてはならぬものです。生活必需品と言えます。私たちは人との関わりの中で生きている。人の悩みの原因の大半は人間関係にあると言われています。神さまの赦しなしには生きていけないのと同じように、家族や隣人などの周囲の人たちとの関わりなしには私たちは生きてはいけません。そこにおいて問題となるのが互いに赦し合うことです。

 このマタイの“主の祈り”の箇所では、「罪」ではなく「負い目」と訳されています。聖書において「罪」を示すのに最もよく用いられるのは「的からずれていること」を指す“ハマルティア”なのですが、ここではその言葉ではなく、「負い目」や「借財」のことを指す“オフェイレーマ”という言葉が用いられていることによります。神と人とに果たすべきことを果たしていないということで、この“オフェイレーマ”を罪の意味で、ユダヤ人はよく用いたのです。私たちは日々の生活の中で、意識するとしないとに関わらずに人を傷つけたり、人の物を不当に奪ったりしています。また多くの人のお世話になっておきながら、その事に対してお礼を言ったり、お返したりすることもなく生きています。そのことに対して赦しを神さまに祈るのが今日の祈りです。お互いに赦し合うことなしに、私たちは生きてはいけないのです。

 しかしそんなことは分かってはいても、いや少しは気づいてはいても、私たちは謝ることが中々出来ない。自分が被った被害にばかり、思いが行く。自分に責任があるとは思えない、何故こんな目にあわされるのか、と呟く。また、「他にどうしようもなかったのだ、自分がああしたことには正当な理由があるのだ」と思ったり、また「しかたがなかったのだ」と自分自身を納得させたりしています。そしてそのように呟いたり、言い訳したりしながら、「こう思うのは間違ってない」「あんな人のことをどうして赦さねばならないのか」と考えたりする。それが私たちの正直な、本能的な思いなのではないでしょうか。そんな中にイエスさまは、この祈りを投げ込まれるのです。

 「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」

「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」

 いつものことですが、今回も私たちが“主の祈り”として祈る文言と聖書に記されている言葉とでは異なっています。“主の祈り”の方では、「我らが赦すごとく」となっているのに対して、聖書のみ言葉では「赦しましたように」と、「赦し」という行為をより確定させるようにイエスさまが命じられたように記されています。人に対する赦しを完了させる、高知弁で言えば“赦しちゅう”になるのでしょうか。「我らが赦すごとく」でも十分厳しい、またわたしたちに戸惑いの気持ちを引き起こさせるのですが、「赦す」という行為を曖昧なものとしているようにも感じさせられます。

 この「私たちが赦すように私たちの罪もお赦し下さい」を文字通りに解釈すれば、「私たちが赦すのに比例して、私たちの罪を赦してください」となります。イエスさまは「私たちが他の人を赦せば神が私たちを赦し、他の人を赦さないならば神も私たちを赦されない」と教えられたことになります。とても厳しい言葉です。あまりに厳しいことからか、また、そうであるのなら、現実に赦される人などいるのであろうか。私たちは赦そうと努力しても人を裁いてしまう存在です。そんな者でも一方的に愛して、十字架のゆえに赦して下さったという事実はどうなるのかと思える。それゆえ、この「赦すごとく」「赦しましたように」は、程度や模範を示しているのでなく、むしろ自分自身の心の状態を告白したものと見るべきだ、と考える注解者もいるほどです。

 こうした二つの意見の中間をとるかのように、新改訳聖書は「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」としています。「私たちも」の「も」と「赦しました」の「た」とすることで、2つの文章を単に並列しているだけでないこと、「私たちが赦す」ことが赦しの条件や理由ではないのだという印象を極力少なくしようとしているようにも思えます。

 しかし14・15節では「もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」と、イエスさまははっきりおっしゃっています。やはり、ここではイエスさまは、私たち自身が先に人を赦すことを祈るように命じておられるのです。イエスさまは、私たちの罪が神によって赦されることと私たちが他者を赦すということを切り離してはおられない、隣人を赦すことと神さまに赦されることは不可分の関係にあることを教えておられます。明らかに、私たちが神に赦しを求めるのに先立って、私たちが赦すことが前提とされているのです。

 神の赦しを願いうるのは、私たちが赦しを表す時のみであるということは、イエスさまが特に強調されたことです。そのことがもっと明らかに述られているのは、そして今日のこの祈りのイエスさまの真意を探るのに最も適切な話は、マタイ18章21〜35節の王と家来の決算のたとえでしょう。

マタイ18章21〜35節(35頁)

 ここには王から多くの借金を赦され免除された家来が、それと比べればはるかに少ない金額を借りている仲間のことを責めて、赦さずに絞り上げている姿が出てきます。1デナリオンは1日の賃金ですから、仮に5000円とすれば、100デナリオンは50万円ほどになります。それに対して1タラントンは1デナリオンの6000倍だと言われていますから、30億、その1万倍ですから、30兆円でしょうか。とにかく莫大な金額であり、人が一生かけても到底返せる金額ではありません。33節にあるように、王はそして神さまは、私たちを憐れんで、その負債、負い目を帳消しにして下さっているのです。私たちの神さまに対する罪、負い目はそれほどのものであるのです。私たちは神の御独り子であられるイエスさまを十字架につけて殺してしまいました。それほどに神さまの愛を踏みにじったのです。そして今も神さまによって命が、そして日々の糧が神さまから与えられているにもかかわらず、神さまを裏切り、そして自分に負い目のある人のことを赦せずにいるのです。

 私の尊敬するある牧師は、一人の人から「この祈りがどうしても出来ない」と言われたことに対して次のように答えておられます。とても厳しいです。

「ここで問題なのは、いかにも人間らしい当惑の言葉を口にしているうちに、それがいい口実になって、真剣に赦しにいきることができなることです。祈り続けることが大切です。心を込めて!そこでなお途方にくれる。それならば、その途方にくれるということを大切にしたらいい。考えてみてほしい。自分は相手を赦すことができていない。それならば、こんな注文は無理ですと神に言うのか。そう言っておいて、神よ、私はひとの罪を赦してやることは出来ず、依然として憎み続けますけれども、私の罪は赦して下さいと祈れるでしょうか。それで神に対する私どもの真実というのは成り立ち、貫かれるのでしょうか。私どもが神に真実に罪の赦しを願うとき、しかも私どもはその罪の赦しというのを私どもが願う前に、神が主イエスを、み子を十字架につけて果たしてくださっていたことを知っているのではないでしょうか。そのことをよく知っていて、しかも、それだからこそ、敢えて言えば、図々しくも、もう神が私どものことを赦してくださっているのだから、その赦しを求めるのは当然だというような顔をして、神さま、また失敗してしまいました。赦してください!などというような、軽い祈り、主イエスの十字架そのものを軽んずるような祈りをしても構わないとでも思っているのでしょうか。そうしておいて、他人を赦せないなどと、何故言うのでしょうか。なるほどいかにも真実な悩みですが、それですむのでしょうか」

 この牧師は同時に次のようにもおっしゃっています。イエスさまは私たちが、この祈りを祈れない、戸惑い、心にひっかかり、途方に暮れるのを全部ご存知なのだ、その上で「この祈りを祈ってごらん。祈れるかい? いや、あなたは祈れるのだから祈ってごらん」と言っておられるのではないかとおっしゃるのです。

 昨日映画会で見た『マザーテレサ』でも、マザーは「愛するより愛されることを」「与えられるよりも与えることを」「赦されるよりも赦すことを」と言っていました。私たちは戸惑います、祈れないという気持ちになります。途方に暮れます。その自分自身の弱さを罪を悔い改めて、イエスさまの十字架を無駄にしないため自分のものとするためにも、いや自分が受けた「赦しを」を無駄にしないためにも、「私たちが赦しましたように」と宣言することから始めてみたいと思います。神さま、イエスさまは今も私たちに語りかけて下さっているのです。そのみ声に耳を傾けましょう。しばらく黙想の時を持ちましょう。


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