「もっと大きな賜物」   


 Tコリント12章1〜11、31節
 2006年6月4日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。先ほどの子どもメッセージでもお話しましたように、本日はペンテコステの礼拝です。聖霊降臨日です。ペンテコステは50を意味するギリシャ語です。イースターから数えて50日目のこの日に、弟子たちが集まっている所に聖霊が降ったことをお祝いする祝日です。
クリスマスは教会に来なくても、いろんな所でお祝いされています。イースターは一般では知られてはいないでしょうが、教会でイースターの出来事に触れずに礼拝することはないでしょう。しかしその2つに比べると、ペンテコステはちょっと影が薄いような気がします。今日は讃美歌も、“聖霊”“み霊”を歌う讃美歌を選びました。
 今月の聖句は「その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。」旧約聖書のヨエル書のみ言葉です。このみ言葉がペンテコステの日に成就しました。聖霊がその場に集まっている全ての弟子たちに注がれました。弟子というのはあの12弟子のことだけではありません。イエスさまの話しを聞こうとする者はすべて弟子です。今日お集まりの人はみんな弟子です。子どもたちも、今日初めて礼拝に来られた方もみんなです。そういったすべての人たちに聖霊が降った。この時「炎のような舌が分かれ分かれになって現れた」とされています。とてもとても不思議な出来事でした。
このあたりのことは使徒言行録の2章に記されています。その場には当時の世界中の人たちが集まっていました。さっきの紙芝居のプリスカは、そこで話されている言葉が分からず、同じような年齢のアキラとも十分にコミュニケーションがとれなかった。しかしペンテコステの出来事、聖霊が降って来てからは、話されている言葉が理解できるようになりました。確かに不思議な出来事です。それまですべての人の間に立ち塞がっていた壁が取り払われた、これが聖霊の働きです。聖霊の働きはいろんな言葉で表現できますが、人を分断していた壁が取り除かれて、交わりを生み出すことです。ただ単に会話が成立して仲良くなったというのではありません。その場にいた者が皆、イエスのことを語り出した、神さまのみ業を語ったのです。そうしてその場に教会が生まれた、聖霊による一致が与えられて、言葉の違いによって一つになれなかった弟子集団が聖霊を受けることで一つにされて、教会が生まれたのです。ですからペンテコステは教会の、キリスト教会の誕生日だと言われています。
 実は子どもたちにペンテコステのことを伝えるのは難しいものですから、クリスマスやイースターのようにこの出来事とその意味を伝えることを避けているところが自分の中に多分にありました。子どもたちにだけでなく、大人に対してもそうなのかもしれませんが、何とか出来ないかと思っていた時に、昨年この紙芝居が発売されたのを知り、入手しました。そして今日このように紙芝居を用いて話させていただきました。聖霊を受けて、イエスさまのことを語ることによって、全ての人たちが一つとされてその場が教会になっていったのがペンテコステです。さてこれで、本日神さまから与えられたみ言葉の取次ぎは十分なのですが、もう一つ本日与えられたのが、コリント信徒への手紙一の12章のみ言葉です。
 この手紙を書いたのは、パウロという人物です。彼はキリスト教史における最大の宣教者、伝道者と言われています。彼は分かっている範囲内でも、三回の伝道旅行、当時の世界中の地域に赴いて、み言葉を宣べ伝えて各地に教会を建てていきました。彼は教会を建てることにその使命を感じていましたが、決して教会を建てっぱなしにはしませんでした。自分が建てた教会を再び訪れ、そのことがかなわない時には、そこに宛てて手紙を書き、おぼえて日々祈りを続けた人物でした。そのような意味では、パウロは宣教者、伝道者であっただけでなく、牧会者でもありました。そのように彼は、自分が建てた教会のことを心にかけて祈って行ったのですが、その彼の心を最も悩ませた教会の一つがコリントの教会でした。
コリントは古代ギリシャの都市で商業・貿易・政治の中心地として隆盛を誇っておりました。最盛期にはその人口は60万人だったとも言われています。そのため、様々な文化に触れることが出来たのですが、同時にいろんなものが入り込んでいたことから多くの問題を抱えた町でした。快楽・享楽の街でありました。このような町の空気の中にあって、コリント教会も多くの問題を持っておりました。1章10節には、教会内部で仲たがいが絶えなかったことが記されています。また5章には、「みだらな行い」をする者、これは不品行ですが、具体的に「ある人が父の妻をわがものとしている」とパウロは書いております。「父の妻」とは自分の母親のことですね。そこまで「みだらな行い」が横行していたようであります。そのような教会のありさまに、パウロは心を痛めて手紙を書いたのです。私たちの聖書では、第二の手紙は一通の手紙のようにまとめられていますが、実際は二通以上の手紙だったのではないかと言われております。その中には「涙ながらに手紙を書きました」(2章4節)という件もあり、これは「涙の手紙」と言われており、そのように何通もの手紙をコリント教会に宛てて書いたようであります。
 今日の第一の手紙では、11章で“主の晩餐”のことを述べたことに続けて、12章から教会の秩序について記しています。この教会はそのように非常な混乱の中でバラバラな状態でした。そんな教会の秩序を乱すことになっていた問題の一つに、“霊的なこと”にまつわるものがありました。
先ほどもペンテコステのことをお話した中で、弟子たちが集まっている所に聖霊が降って、その場にいた者たちがいろんな国の言葉で語り出したことを述べましたが、これが“異言”であります。“異言”を言葉で説明するのは困難なのですが、大きく分けて2種類ありまして、1つは今述べたような習得していない外国語を話すことと、もう1つは意味の定かでない通常会話で用いる言葉でないうめきのような言葉、霊的恍惚状態に陥った時に発する言葉です。
コリント教会には、この異言を語る人たちが相当数いたようであり、その人たちが「異言を語ることが聖霊を受けている証拠だ」と言い、教会を混乱させていました。パウロ自身も異言を語る賜物を与えられていると自分で述べております。人間の側で勝手に決めるものではないのですが、私にはこの賜物が与えられているという自覚は少なくとも今の段階ではありません。ですから私には、この賜物に関して、もう一つよく分からないというのが正直な思いです。しかし聖書には、聖霊を受けることで霊的恍惚状態におちいって、いろんな言葉や言語を発することがあったことが記されております。
 そのような混乱した状況にあったコリント教会に対して書かれたのが、今日の12章であります。1〜3節には、真の霊を見分ける基準について記されています。霊的エクスタシーにあることが、真の霊、聖霊を受けていることの証明にはならない、霊のもたらす言葉が聖霊の基準を示すのだというのです。それは3節に「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とあります。聖霊は「イエスは見捨てられよ」などとは語らせず、「イエスは主である」との告白に導く。「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えない」ということは、言い換えれば「イエスをキリスト、主である」と告白した人は、みんな聖霊を受けていることになります。ここに聖霊の基準があります。
 4〜6節をご覧下さい。ここでは「同じ」ということが繰り返されています。同じ霊、同じ主、同じ神。いろいろな賜物や務めや働きがあるが、与えるのは同じ神だというのです。教会の中にどんなに異なる賜物や務めがあろうとも、それは同じ神が同じ目的のために与えているのだ、その点では違わないのだ、一つなのだ、とパウロは力説します。
 7節にはその目的が書かれています。「霊の働きが現れるのは全体の益となるため」だと。全体の益にならない働きであるのなら、賜物なら、それは聖霊の働きではないのです。教会という言葉はここでは全く登場しないですが、この全体というのは教会のことであります。全体の益となるとは、教会の益となることなのです。
 8節から11節「ある人には“霊”によって知恵の言葉が与えられ、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人には同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。」
これらは全部賜物なのです。パウロはここでは力という言葉を用いていますが、教会の中には色んな賜物を与えられた人が集まっています。病気をいやす人もいれば、奇跡を、また預言する、また霊を見分ける、異言を語る、異言を解釈する、様々な力、賜物がありますが、これらは全部、神が一人ひとりに与えておられる、そしてそれは、全て全体の益のためだとパウロは言うのです。この後もずっと彼は興奮状態で語っているように思えるほどですが、14章12節では「あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。」と述べます。口語訳聖書では「教会の徳を高めるため」としていましたが、新共同訳の方がより具体的です。「教会の徳を高める」とは「教会を造り上げる、教会を建て上げる」ことです。そのためにあなたたちは霊的な賜物を熱心に、ますます豊かに受けるように求めなさい、と言います。
これらに優劣は全くないことを、12章の12節からの体のたとえで述べています。ここにも“教会”という単語はどこにも出てきていません。しかしここの「体」とは教会のことです。12節には「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」とあります。体には色んな「部分」がある、手があり、口があり、目があって、それらが集まって一つの体が出来上がる。15節「足が『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」。平林訳をします。「わたしは何の賜物も与えられていないし大した力もないので教会員ではないでしょうか。」そうはならないということです。どんな人でも賜物を与えられていないという人はいないのです。
 みんな賜物が与えられている。牧師には、語る賜物、み言葉を取り次ぐ賜物が与えられている。それと同じように、奏楽をする賜物、受付をする賜物、掃除をする賜物、みんな賜物が与えられているのです。もし「私には何の賜物も与えられていないから教会の一員でない」と言うなら、それはイエスさまを悲しませることとなるのです。ここにおいてもパウロは、「お前は要らない」とは言えないし、体の中で他よりも弱く見える部分がかえって必要なのだと言っています。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられるのです。教会においても、「私は掃除をさせていただくことくらいしか出来ませんから、駄目です」と言って、自分は駄目だとか教会のお役には立てない、と自分を規定してしまい、自らを教会の中に位置づけないならば、そのことをイエスさまは悲しまれるのです。みんな必要とされている、いろんな賜物が与えられているからこそ、一つの体となるのです。弱い部分があるからこそ、イエスさまの体なる教会とされていく。だから、教会は弱い人をこそ必要とするのです。
 そう言った上で、27節以降で、パウロは本論に戻っていきます。
「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行なう者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか、皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。」
 みんなが牧師だったら怖いでしょうね。教会はそうではないのです。様々な種類の賜物を持った人がいてこそ、教会となっていくのです。
 今日の宣教のタイトルは、実は「更に大いなる賜物」とするつもりでいました。それは口語訳聖書がそのように訳していることに従おうとしたのですが、新共同訳の通りに「もっと大きな賜物」となってしまいました。
 人にはいろいろな賜物があるけれども、もっと大きな賜物を受けなさい、求めなさいと、パウロは言うのです。12章の最後の言葉として「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と述べます。“最高の道”とは何でしょうか。それは“愛”であります。最も大いなる賜物は愛だと彼は言います。それを受けて、13章であの有名な“愛の賛歌”を記したのです。
 先ほど私は、異言を語る賜物を持つ人は、教会にとって厄介で、教会の秩序を乱すから大変だ、と受け取れるような言い方をしてしまったかもしれません。もしそのように聞こえた方がおられたら、それは私の言葉足らずです。私は全くそう思っておりません。教会にとって最も大切な賜物は、愛なのです。異言を語る方たちが教会の中に入って来られたとします。そして人前で異言で祈られたとします。そうすると、それはとても目立ちます。しかしそのこと自体が問題なのではありません。もしその方たちが「自分たちだけが聖霊を受けているのだ、異言で祈る、語ることが聖霊を受けている証拠だ」と言い出したとしたら、そのことが問題なのであり、教会は混乱します。しかしそれ以上に恐ろしいのは、問題なのは、あってはならないのは、異言自体を敵視してしまうこと、排除してしまうことです。そのことを神さまは非常に悲しまれます。そこには愛は無いからです。要は愛に基づいているかどうかです。そのようにしてパウロは、この13章で“愛の賛歌”について語り、その後14章で“異言と預言”について語ったのです。
 ペンテコステは教会が一つとされた日です。これは口で言うほど簡単なことではありません。実際教会には、口が5つあったり、手ばかりがあったりすることがある。教会は何もかも違う、年齢も違えば、考え方も、育って来た土地も国までが違う、その上賜物まで違う。そこで最も大切なものは、教会を教会とする霊の賜物こそは愛だ、とパウロは力説します。愛は排除しません。愛をもって受け入れることと放任することとは違います。愛に基づいた厳しさで正すことはありますが、違うことを理由に頭から排除することは愛ではありません。パウロが勧めているように、私たちはもっと大きな賜物、更に大いなる賜物を、最高の道である愛を求めていきたく思います。教会の中に愛が無くなれば、それは教会でなくなります。互いに愛し合う、労わり合う、受け入れあう群れとなっていくことを願いましょう。今日はそのための日であります。ペンテコステ。お祈りをいたしましょう。いつものように黙想の時を暫く持ちましょう。


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