「神さま、ヘルプ !!!!」 


 マタイ6章13節
 2006年6月11日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。ワールドカップ一色の様相を呈してきました。国家の威信をかけた争い、“日の丸”のための戦いと言われると、怯む気持ちも起こるのですが、スポーツ好きとしては傍観していることが出来ずにいる私です。4年前の日韓大会の時に、テレビでロシア戦を夫婦で観戦した時、「ロシア!ロシア!」と連呼していた妻の姿にハッとさせられたのですが、日本の勝利に歓喜したことが思い出されます。明日ですね、日本の初戦は。

 開幕初戦でドイツが勝ち、ドイツ国歌を耳にされた方もおられるでしょう。「アッ」と思われた方もあるのではないでしょうか。あのドイツ国歌は私たちにも馴染み深い讃美歌です。教団讃美歌194番の『栄えに満ちたる』です。新生讃美歌では344番と345番ですが、歌詞は変えられています。

 多くの讃美歌がそうであるように、この歌も讃美歌として作られたものではありません。この歌の原曲は、“交響楽の父、弦楽四重奏曲の父”とも呼ばれるあのフランツ・ヨーゼフ・ハイドンが、1797年に時の神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世に献げた「神よ、皇帝フランツを守り給え」という曲です。後にハイドンが編曲し弦楽四重奏曲『皇帝』の第2楽章の主題になりましたが、1841年にそのメロディーに歌詞が付けられたのがあの歌です。当時はドイツには国歌どころか統一国家も無かったことを憂えた一人のドイツ人が、ドイツ民族の統一を悲願する思いを込めて作ったもので、あくまでドイツの統一に主眼が置かれたものでした。しばしば言われるように、そこには覇権主義的な意味合いはなかったのです。それが“世界に冠たる我がドイツよ” という1節の歌詞から、1節のみをナチスドイツが国歌として採用したことから、戦後東ドイツは新しい国歌を制定し、西ドイツは3節の“祖国ドイツの為の団結と権利と自由よ”とあることから、この3節のみを国歌として採用しました。東西統一後は、この歌が正式に国歌として採用されていますが、それも3節だけで、今でも人前で1節を歌ったり、テープで流したりするとネオナチの疑いがかけられるそうです。国歌にはそれぞれにいろんな事情がありますね。それはわが国の国歌においても同じです。

 本日は“花の日・子どもの日”礼拝です。巻頭言にも記しましたように、本来の目的を明確にするならば、“子どもの日”とするのがよいと私は思いますが、“花の日”として守られてきた経緯もありますから、この名称も残して“子どもの日・花の日”とするのが良いかとも思います。

 この日はただ花を持ち寄る日なのではありません。教会に与えられた子どもたちに信仰を伝えていくためにも、神さまに献身することの喜びと素晴らしさを示し、その思いをもって、教育的な意味合いで、子どもたちを様々な場所に遣わす、派遣する日です。その主体は、教会学校や子どもたちの親御さんではありません、大きな意味では当然神さまですが、私たち教会が、具体的には先にその喜びと恵みに与っている大人たちが子どもたちを派遣するのです。その意味からも、今日は報告に先立って、派遣の祈りの時を持ちたく思います。子どもたちを献身に導くと言っても、牧師にさせるというのではありません。神さまの働きにつくために自らを献げることに導くのがその目的です。いろいろな所で人々のために働いて下さっている方たちに感謝の思いを伝えるために、その働きの場に出向き、花を届けます。多くの場合、派出所や消防署や病院、各種の施設に行きます。しかし、そういった場所に行くことだけが、子どもたちの献身ではありません。要は神さまの働きにつかせることです。今年は病床の方の所をお訪ねします。後のお祈りの時もですが、これからも続けて子どもたちのために祈って下さい。そして子どもたちを教育しましょう。これが教会の子どもの日です。そして更に言うと、献身すべきは子どもたちだけではありません。因みに私の前任地であった大牟田教会では、CS成人科の大人たちも花を持って出掛けました。

 さて、4月23日から取り上げてきた“主の祈り”も大詰めに近づきました。来週は特伝ですので、一週おいて25日が最後の箇所になります。今日は聖書のみ言葉においては「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」ですが、私たちは「我らをこころみにあわせず、悪より救い出だしたまえ」と祈っています。この後の「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」は詳しくは再来週述べますが、聖書には書かれてはおらず、後の教会が付け加えたものだと言われています。

 今日のタイトルはまた、宣教のタイトルには相応しくないかのような変なタイトルだと思われた方もおられることでしょう。正解です。が、私自身は大真面目に、目立とう、人目を引こうとして考え抜いて付けました。また歌のタイトルを思い起こされた方もおられるのではないでしょうか。ビートルズの“Help”、チェッカーズの“神様ヘルプ”、そちらは、様が漢字で、句読点がなく、びっくりマークは一つでした。そのことなどを意識して、「神さま、ヘルプ!!」に決めました。

 ある本の中で次のように書かれていました。 “主の祈り”の文言に関していろいろな質問が起こる。特にこの前の「罪の赦し」をめぐる祈りには集中して質問が集まる。しかし今日の「悪からの救いだし」についての質問は聞いたことがない、と。その本の著者は「この『こころみにあわせず悪より救い出したまえ』という祈りは、ひっそり陰に隠れてしまっているのではないか」と。質問がないということは、思いを集中させて祈られてないのでしょうか。質問するのは疑問を持つからです。イエスさまの教えに疑問を持つというのは悪いことなのでしょうか。私はそうは思わない、何の疑念も抱かずに右から左に抜けていく方がよっぽど問題だと思う。神さま何故ですか、と神さまのなさりようにひっかかりを持つことで、その意味を深く考えるようになることがあると思う。深く意味を考えることなく、おざなりに口にするだけよりは何十倍も良いのではないでしょうか。私は何も偉そうなことは言えません。そのようにおざなりに唱えていたのは、何を隠そうこの私だからです。しかしそれではメッセージは出来ませんので、今回も何度も読み、祈りの中で示されたのが、今日のタイトルです。これは“神さま、ヘルプ”、“神さま、助けて下さい”という必死な叫び、悲鳴のような叫びなのではないか。イエスさまが“主の祈り”の最後の言葉として教えられたのは、「必死になって悪から助け出して下さいと祈れ」と言われているのではないかと思わされたのです。

 宗教は弱い者のためにある、信仰を持つというのは弱い者、軟弱な者のする事との認識からでしょうか、宗教を逃げ道にするようなことでは駄目だ、逃げ場所を断ち切って世の厳しさに負けない強い人間、逞しい人間になって生きられるようにならなければならないと言われることがあります。しかしこれは自分以外の他人の考えでしょうか。「助けて下さい」ということは、自分の弱さを認めることです。イエスさまを信じる、従っていくと決断したわたしたちの中にも、何でも神さまに頼るのではく、自分で困難を乗り切れるようにならねばとの思いがないと言い切れるでしょうか。もしこの祈りが切実な祈りになっていないとすれば、そこには、自分の弱さを本気で認めようとしない思いがあるのではないでしょうか。悪の恐ろしさを知らず、なりふり構わずに神さまに、イエスさまに、聖霊さまに、助けて下さい!!と言えない思いの表れなのではないでしょうか。

 現在祈祷会で詩編を読んでいます。全てを読んでいるわけではありませんが、1編から読んできて先週やっと75編を読み終わりました。丁度中間の折り返し点です。詩編に繰り返し語られている表現に「神は我らの避けどころ」というのがあります。私たち神を信じる民はその神の懐に逃げ込むことが出来る、言い換えればそういう弱さを持っている者を神は受け入れて下さるのだと詠っているのです。そして一緒に読んでいる方からはいろいろな声を聞かせていただきましたが、その弱さを抱えた詩人が、自分の敵への呪いともとれる言葉を綺麗ごとでなく、赤裸々に神に訴えている、ぶつけている祈りに、私は、慰めと詩人の信仰を見ます。その代表とも言える58編を読んでみましょう。

58編1〜12節(891ページ)

とは言っても私にも、これは驚きでした。特に8、9節にはショックを受けました。こんな言葉が聖書にあって良いのか、こんなことを祈って良いのか、いや良いのです。いい子ちゃんぶって、「あんにゃろう、あんな奴死んでしまえ」と心の中で思いながら、祈りの言葉としては「主よ、感謝します、あなたの御名を崇めます、讃美します」と口にするのだけが、神に受け入れられる祈りだとは思えません。私は決してこの詩編のように敵のことを「なめくじのように溶け、太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい」と祈ることが神に喜ばれる祈りで「主よ、感謝します、御名を崇めます」と祈るのが間違っていると言いたいのではありません。神さまは、心にある正直な思い、敵の滅びを願う弱さを持っている者を罰されるような心の狭いお方ではないということです。誤解しないで下さい。そのような言葉を生身の人間であるその相手にぶつけたり、具体的な行動として敵に暴力で対抗するのではありません。敵にぶつけるその怒りと憤懣を神にぶつけてよいということです。私たちの罪を、そして弱さを全て受け止めて下さるお方、その思いを、行動を、聖めて下さるお方こそが神さまだということです。

マタイに戻りましょう。「悪より救い出だしたまえ」はみ言葉では「悪い者から救ってください」となっています。悪というのは生きています。抽象的な存在では決してありません。悪い者なのです。先ほどの詩編の激しい言葉も、この悪者に捉えられている祈りなのかもしれません。悲しいかな、私たちは試みに負けてしまいます。悪いことをしている人間が強いのではありません。悪しき者の力に完全に負けてしまった人たちです。他人のことではなく、私自身がそのように弱い者です。こんなことをしてはいけない、駄目だという自覚はある。でもやってしまう。自覚的な悪人は、自分は悪人だということをわきまえている。ただそこで開き直ってしまっているだけです。

神さまがこの天地を造られたとき、それは「はなはだ良かった」のです。悪があってはならないのです。しかし、しばしば悪者の力の虜になってしまいます。そこに、その悪しき者との戦いにイエスさまは介入して下さった。敢然と割って入って下さったのです。そして私たちの味方になり、十字架で勝利して下さった。そこで大転換が起こる、その主イエスの赦しと恵みの中で私たちは立ち上がることが出来るのです。その力に頼らないと生きていけないのです。それほど私たちは悪に対しては弱い者なのです。

パウロはそのことを、自分の弱さをきちんと認めた人でした。この弱さを信仰の大切な問いとして受け止めました。コリント信徒への手紙二12章7〜9節、339ページです。

ここでの弱さというのは何らかの病や肉体的な弱さだとよく言われます。実際そうであったかもしれません。しかしここでの弱さとは単なる肉体の弱さや病だけを、パウロは意識していたのではなかったと思います。悪しき者、誘惑する者、試みる者との戦いに負けてしまう弱さを念頭においていたと思います。肉体の弱さも大変です。年齢と共に起こる体の衰え、これも大きな戦いですが、その肉体の弱さによるサタンとの戦いがあります。そのように悪い者、誘惑する者、試みる者が私たちの信仰の足を引っ張ります。

「お前はそれでも神を信じているつもりなのか。神なんか本当にいるのかい。お前の生活の中のどこに神がいた?仕事はうまくいかないし、人間関係だって大変だろう。神は愛なりだって、神が愛なら、お前にそんな経験をさせないだろう。神を知らない人間、知ろうとも知ない奴が幸せに生きているぞ。そいつの方が強い、神に頼ろうとするお前はそんな弱いままでよいのか。わしの言う通りにすれば強くなれるぞ」

悪者は男とは限りません。女性の声を取って囁いてくるかもしれません。そんな声が聞こえてくる。そこで途方に暮れて、私たちは足元をすくわれてしまいます。

私たちは自分の力だけでは、それらの誘惑に勝てないのです。そんな勝てない弱い自分のことを認めて「神さま、ヘルプ」と叫ぶ、祈る。その祈りに応えて下さるよ、と言ってイエスさまは今日の祈りを教えて下さったのです。

 ある町に一人の婦人がおられました。ご主人が思いがけない病気で若くして亡くなられた。悲しみの中にあるその人のところに牧師が尋ねて来た。その若い牧師は彼女に大変同情した。婦人は信仰深い人であったけれども、あまりの悲しさのために祈ることが出来なくなっていた。「私は祈れないわ」と言う当の婦人に、若い牧師は「祈れないそのお気持ちよく分かります」と言って、本人が祈れないと言うのだからと、祈りもしないで帰ってしまった。次にカトリックの神学者でもある司祭が訪ねて行った。婦人は「若くして夫の命を奪うような神には祈ることが出来ない」と司祭に言った。するとこの司祭は先ほどの牧師とは違って、その婦人の言葉に激しく反論し、「神があなたを捜しておられる、そのように神が求めておれるのに、あなたは祈らないと言うのですか」と言い、「主の祈りなら祈れるでしょう」と言って二人で一緒に祈ったそうです。こうしてこの婦人は信仰を回復することが出来た。

 私たちが不信仰であることくらい、イエスさまは全てご存知です。そして弱いことをも。それを全部ご存知の上で、“主の祈り”を祈るように教えられたのです。不信仰や弱さの中に留まることには何の値打ちもないのです。悪しき者を喜ばすだけです。祈れない弱さを抱えていることが問題ではないのです。問題なのは祈れないこと、いやその祈れない中に止まってしまって祈“ら”ないことです。そんな弱さよりも、イエスさまの真実、神さまの強さの方がよっぽと確かです。その確かさ、強さの中に自分の身を置くのです。「神さま、ヘルプ!!」「主よ、助けて下さい」と言って、“主の祈り”を、思いがこもっていようがいまいが口にするのです。それがイエスさまの教えられたことです。この時初めて私たちは強くなれるのです。神が与えて下さる信仰の確かさとはそのようなものです。その主のみこころから生まれたのが主の祈りです。私たちもその確かさの中に身を置けるように、主にある強さを持てるように祈りましょう。本日与えられたみ言葉と導きに思いを馳せつつ、黙想の時を持ちましょう。

「『我らをこころみにあわせず、悪より救い出だしたまえ』

神さま、先週はペンテコスの礼拝で聖霊さまを豊かに注いで下さったことを感謝します。聖霊さまは助け主でもあると聖書に示されています。悪から、悪い者から助け出して下さるように、私たち一人ひとりに聖霊さまを豊かに注いで下さい。そして苦しい時にどうぞ、「神さま、ヘルプ」と叫べる信仰をお与え下さい。主の名で祈ります。アーメン」


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