「祈る、祈る、祈る!!!! 〜神の確かさの中で」 


 歴代誌上29章10〜13節
 2006年6月25日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。先週は神さまの導きのもとに特別伝道集会を持つことが出来ましたことを心から感謝申し上げます。土曜日はもう少し多くの方が集って下さるかなと期待していましたから、ちょっぴり残念でした。しかし教会が初めてという方や高知新聞をご覧になっていらして下さった方もおられました。さあ、皆さん、特伝はこれからです。確かに私も集会が終わってホッとし、日曜の夜は眠ってしまい、楽しみにしていたクロアチア戦の前半を見ることが出来なかったほどですが、今日は○○さんもいらして下さいましたし、あの集会をきっかけに教会と来会者の方たちとの接点が出来たのですから、私たちがこれからその方たちとどのように係わりを持っていくのかを神さまは見ておられます。神さまがお一人おひとりをこの教会に遣わして下さったのですから。“よろしくね”と言って。教会員の方の週報ボックスに先週の祈祷会で用いた祈りの課題をお入れしてあります。全てがこの教会に与えられている祈りの課題ですから、お祈りいただきたいのですが、特に特伝に来られた方たちの事をお祈り下さい。「私は特伝に出席出来なかったし、よくわからないので祈れない」という人があるなら、そういった方こそ、まだ間に合います。祈ることで参加出来ますから、ぜひ祈りの輪に加わって下さい。祈れないのでなく、祈らないのです。

集会後にいろいろな方に報告や御礼の手紙を書いたり、お話したので、どこでどこまで話したのか分からなくなっていますので、繰り返しになることがあるかもしれませんが、私が原田博行兄弟と出会って、約30年になります。彼が小学校の3年生、私は19歳の大学2年生でした。平林が牧師をしている教会に、原田博行を特伝講師として呼ぶなんてことを当時は全く予想もしないことでした。博行君は高校の頃までは教会に来ていましたが、浪人した頃から、毎週は礼拝に来なくなり、それほど個人的な係わりが深かったわけではありませんでしたから、彼の心の中の思いを詳しく聞いたことはありませんでした。ある程度は予測はしていましたが、牧師の家庭に育つことは悩み多きことなのですね。ねえ、まきさん。それだけでも葛藤多きことだと思いますが、彼の父親は今時珍しいという言い方だけでは表現出来ないほどの厳格な牧師でした。博行君の言葉を借りるならば「親父もだいぶ丸くなった」そうですが。

原田博行にまつわる伝説というか逸話もいくつもあるのですが、彼の父親、私の牧師の原田牧師の逸話もいっぱいあります。化石のような人です。ご自身に対しては言うまでもなく、家族や教会員や周囲の人の誰に対してもとても厳しい、ストイックな人でした。佐賀出身ですから、葉隠れ、明治を通り越して江戸時代の武士のような人ですね。私は未だにあの先生の前に出る時や話をする時は緊張します。私は京都を離れて、東京で妻と出会い結婚しましたが、私たちの結婚はちょっと特別というか、型破りでしたから、原田牧師からどのように言われるかはとても気になっていました。結婚するという報告を電話でした時は、怒鳴ることはなさいませんでしたが、原田牧師の心配と苦悩と憤りが電話から伝わってきました。原田家では子どもたちは(他に姉と妹がおりますが)普通にテレビを見ることは禁じられていました。お笑い番組は言うに及ばず、歌番組もアニメも自由には見れなかったようです。あの博行君の人となりからは全く想像できないような父親です。

私にとっても大きな影響が与えられた牧師でした。青年時代にあのような牧師、指導者に出会えたことを本当に感謝しています。「頭の固い人だなあ」と思うことはしょっちゅうありましたが、間違ったことを間違っているとキチンと叱ってもらえることは有り難かったです。安心出来ましたから。厳しく正して下さっただけではなく、心から私のことを心配して祈って下さった、文字通り牧師でした。

博行君にもお父さんにはいろいろと思うところもあるでしょうが、「親父に心から感謝していることがある」と言っていました。それは、原田牧師は自分のことを人に紹介するのに、“ミュージシャン、音楽家”と言ってくれるというのです。考え方の違いは厳然とあるでしょうが、息子の生き方を尊重されているということでしょう。と言いますのは、原田牧師は佐賀の(佐賀ですよ)地方銀行の頭取の長男としてお生まれになられました。お父さん、原田牧師の父親、博行君からするとお祖父さんですが、は当然、長男を跡取りとして考えておられた、それが大学浪人で京都に出た時にバプテストの京都教会で洗礼を受けられた。そして大学院生の時に献身の思いが与えられ、牧師となることを決断された。教派・教団に属するような群れではないですよ、バプテスト教会から飛び出して単立、独立教会の牧師になられたのです。私もその単立教会で育ち、このように全国組織のグループの教会で教会生活をするようになると、恵まれていることをいろんな意味で実感させられます。しがらみのない自由さ、気兼ねのなさはありますが、やはり過酷です、甘くないです。そのみぎわ教会は今年で40周年を迎えたのですが、原田牧師ほどの厳格さというか、ストイックさ禁欲さがないと教会は存続しなかったとつくづく思わされます。

その頭取のお父さんは、原田牧師の献身に対して猛反対されました。勘当同然の形で、遺産分け(生前にです)をされたのです。原田牧師は、父親からご自分のことを、最後まで(数年前に亡くなられました)「牧師をしている」と紹介してもらえなかったそうです。そのことを悲しく思われたのでしょうか、ご自分は息子のことを、自分とどんなに考え方が違おうとも、認めてやろう、尊重しようと思われたのでしょう。

博行君を駅で見送った時に、最後に彼が「2日間本当に楽しかったです」と言ってくれました。彼に成り代わりまして、感謝を申し上げます。ありがとうございました。

さて、4月23日から扱ってきました“主の祈り”も最後のところにきました。今日で最後のつもりだったのですが、週報にも記しましたように、来週も同じ箇所を取り上げさせていただきます。

「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり アーメン」私たちが実際に祈っている“主の祈り”は、マタイによる福音書をベースにしておりますが、今日の聖書の箇所からも分かりますように、主イエスが「こう祈りなさい」と言って教えられた中には、この部分の文言はありません。しかし紀元前2世紀初めのものと思われる『12使徒の教訓』という文書には、“主の祈り”の最後に今日の部分が加えられています。そのことからも、教会では非常に古い時代、キリスト教会の初期の頃からこれらの言葉を添えて祈っていたことだと思われます。

この部分に関しては、歴史的にはいろいろと問題点が指摘されるところです。新共同訳聖書には載ってはいませんが、朋子さん、新改訳聖書には「国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです」と書いてあるでしょう。〔 〕付きですが。これは最古の写本には記されてないからです。と言うことは、この言葉が記されている写本もあるということです。

写本について少し語ることをお許しいただければ、聖書の時代には勿論印刷機はありませんから、全て手で書き写されました。それが写本です。当然のことですが、古い物の方がオリジナルに近いと考えられますから、有力な重要な写本ということになります。ただ、この部分が後の時代の教会によって“主の祈り”に付け加えられたと考えるのが今では通説です。

ここは“主の祈り”の「頌栄」にあたります。この頌栄は、先ほどお読みしました歴代誌上29章11節を要約したものだろうと言われています。これはダビデのイスラエルの全会衆への決別の祈りの最初の部分です。この“国と力と栄え”栄えは“栄光”のことですが、この3つは旧約聖書を貫いたイスラエルの信仰の核心の要素であるのです。

イスラエルの国にとっては、ダビデ・ソロモンの時代を除いて、実際の、また、世的な繁栄の意味では、力も栄えも失われたものでありました。エジプトの奴隷状態から脱出してからも荒れ野を40年に亘り放浪し、約束の地に帰ってから後も常に周囲の大国の力に脅かされ、ダビデ・ソロモンの時代の繁栄の後も国は南北に分裂し、北王国イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南王国ユダはバビロニアによってバビロンに捕囚され、主イエスの時代にもローマの属州でありました。歴史における民族の悲惨な体験を噛みしめてきたユダヤ人にとって、この頌栄はどんなに深い思いをもって唱えられたことでしょう。周囲の民族との様々な戦いの中で、彼らは「国も力も栄えも」自分たちのものとはしなかったのです。これらは全て自分たちのものでなく、“汝のものなればなり”、神のものであると、神に帰してきたのです。“限りなく”と訳されている語は「代々にわたって」という意味を持っています。過去と現在においてだけでなく、将来においても永遠に神のものだと言うのです。ここにイスラエル民族の、そしてそれを引き継いだ主イエスの弟子たちの信仰が見てとれます。

私たちの信仰生活にとっても、この頌栄は慰めと確信に満ちた祈りです。

「国は汝のものなればなり」

アーメン、そうです。神さまはこの世の支配者であり、その御心をなさんとする主イエスの弟子である私たちを守って下さいます。神はこの世の王として私たちに国を与え、私たちを救って下さいます。

「力は汝のものなればなり」

アーメン、そうです。その力はこの世界を保ち、支え、私たちへの約束を果たす力をあなたは持っておられます。

「栄えは汝のものなればなり」

アーメン、そうです。全ての栄光はあなたのものです。この世界の栄光は全てあなたに帰せられます。

この頌栄は、“主の祈り”を教えて下さった主イエスのお心に沿ったものです。この祈りを祈った最後に自然に湧き出てくる讃美の言葉です。たとえ主イエスが「こう祈りなさい」と強いられたわけでなくとも、“主の祈り”を繰り返して祈るうちに、当時伝統的に口にしていたこの頌栄の言葉が、自然に弟子たちの口をついて出てきたのではないでしょうか。そしていつしか、この讃美の言葉である頌栄を“主の祈り”の結びとして付け加えるようになったのではないでしょうか。それほどこの讃美の言葉は、“主の祈り”を祈る私たちの口に上るのに自然であり、ぴったりの言葉です。

更に言うと、“国と力と栄えとは汝のものなればなり”は祈りではありません。今祈りだったと言ったのに何を言うのかと思われるかもしれません。これは願いではないということです。“国と力と栄えとが汝のものでありますように”とは言っていません。「汝のものなればなり」と事実を認めるのです。事実を自分に言い聞かせるのです。「国と力と栄え」と言う言葉に溢れているのは、神が神であられることの強さ、力の確かさです。そのことについての私たちの確信を宣言するのです。

また、“主の祈り”は“国と力と栄えとは汝のものなればなり”が最後ではありません。よく勘違いされることがあります。“国と力と栄えとは汝のものなればなり”で“主の祈り”は終わってはいません。そう思っている方は、週報や新生讃美歌の裏表紙の“主の祈り”の文章をご覧になって下さい。そうです。“主の祈り”の最後の言葉は、“アーメン”です。

教会の礼拝に何度か出席された方なら、この “アーメン”が「然り、その通りです」という意味であることくらいはご存知のはずです。しかしそこで止まってしまってないでしょうか。この“アーメン”をどれほどの思いを込めて口にしているでしょうか。祈りを終わらせる言葉として、ただ付け足しのようにしていないでしょうか。

優れた信仰問答集であり、改革派教会の規範ともなっている『ハイデルベルク信仰問答集』には“アーメン”について次のように記されています。

「アーメンというのは、これは真実であり、確かであるにちがいない、ということであります。なぜならわたしの祈りは、自分の心の中に自分が、このようなことを神に求めていると感ずるよりも、はるかに確かに神によって聞かれているからであります。」

これは元々祈り固有の言葉であったのではなく、真実の言葉を語るときに繰り返して用いられた言葉でありました。普通に日常に用いる言葉だったのです。「今から言うことは本当のことだよ、確かななんだよ」と保証する時に用いる言葉であったのです。だから“アーメン”と言った後に、いい加減なことを言ったり、嘘を言ったりは出来ません。あるいは、“アーメン”を添えて語り終えるのは、自分で自分の言葉に判を捺すようなものです。しかしこれは、自分の祈りを自分の信仰によって確かなものとするといったような意味で“アーメン”と言うのではありません。『ハイデルベルク信仰問答』でも、そんなことは一言も言っていません。「わたしの祈りは自分の心の中に自分がこのようなことを神に求めていると感ずるよりも、はるかに確かに神によって聞かれている」。はるかに確かに、すでに神によって聞かれている、だから “アーメン”というのです。自分の求めは、願いは神によって聞かれている、いや既に聞かれたのだと信ずることなのです。しかしこのように言うと、「自分の信仰なんか大したことない、私はそんなに強い確信が持てないから」、と言う人が出てきます。だから祈れないと。

そんな分かりきったことを言わないで下さい。あなたの信仰が不確かなことくらい、神さまならとっくの昔から重々ご承知です。本人が自覚しているよりも何倍も神さまはご存知です。

今日のタイトルは「祈る、祈る、祈る !!!!(ビックリマーク4つ)」サブタイトルが「神の確かさの中で」です。とにかく祈るのです、“主の祈り”を。最初に私は特伝の新来者の方のことをお祈り下さいと言った時に、「祈れないではなく、祈らないのだ」と言いました。確固とした揺ぎ無い確かな信仰を持っている人が、またそのような確かな信仰をもてた、そういう気分になれた時にだけ祈るのではありません。そうだとしたら、誰もがいつでも祈れるものではありません。そうではなく、信仰の確信がなく、また祈ってもピンとこない、こんな言葉を重ねていて神さまに届いているのだろうかと不安になる、こんな頼りない祈りでよいのだろうかと思う人。おめでとうございます。当選です。あなたは祈るために神さまによって導かれて選ばれたのです。自分が今本当に祈れた、そういうような祈りの充実感を味わったかどうかが問題なのではありません。それは自己満足、自己陶酔です。そのように自分の心の中に神さまに求めている、祈っているという実感があるかどうかではない。そんなことよりもっと確かなことがあるのです。それは、既に神さまが私たちの祈りを聞いて下さるという確かさです。それもただ耳にして下さるというのではありません。その祈りを実現して下さるという確かさです。

私たちの心の中に起こる確かさ、確信の中で祈るではありません。もしそんな確かさを持っているとしたら、それは問題です。何度も言いますが、私たちが不確かなことくらい、神さまは私たちが自覚している以上にご存知なのです。私たちが思っているよりもはるかに確かに神さまによって祈りは聞かれています。その神の確かさの中で祈ること、その神の確かさを信じることです。信じると言うと、今度はそれが信じられないから苦しいんだ、祈れないのだと言われそうですから、その神の確かさに任せるのです、委ねるのです。そして、最後に“アーメン”と言ってみるのです。小さく“アーメン”でも構いません。そう言って、神の確かさに身を任せる、自分の願いを、人生を賭けてみるのです。言葉は悪いですが、騙されたつもりになって、神の確かさに勝負を賭けてみるのです。

それが“アーメン”です。皆さん、貪欲に“主の祈り”を祈りましょう。その神の確かさの中で、祈って、祈って、祈りましょう。その神の確かさにすがって生きる者となりましょう。

お祈りをします。黙想の時をもちますが、この時は何も言葉を発せず、神さまの語りかけを、神さまの導きを求めて静まって黙想しましょう。


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