「祈る、祈る、祈る!!!!〜神さまの確かさの中で」U   


 詩編130編1〜8節
 2006年7月2日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。先月礼拝で少し紹介させていただいた中村哲さんのアフガニスタンでの活動が紹介されているテレビ番組をご覧になっているでしょうか。掲示板にも掲示させていただいておりますが、毎週月曜日の午後10時25分から25分間、NHK教育テレビの「知るを楽しむ この人この世界 アフガニスタン・命の水を求めて−ある日本人医師の苦闘」
です。中村哲さんは1984年からパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールを拠点に活動されている医師です。今までハンセン病のコントロールを中心にアフガニスタンから難民医療に携わってこられ、86年にアフガン難民のための医療チームを設立、長期的展望に立ち、医者のいない地域での診療活動をなさっています。実はこの中村哲さんは私たちバプテスト連盟の教会で洗礼を受けられた方です。先日もこの番組の中で、大学時代からの親友として、福岡の重症心身障害者施設である久山療育園の園長で福間教会の協力牧師でもあられる宮崎信義先生が学生時代の中村さんの思い出を語っておられました。中村さんは福岡にある香住ヶ丘バプテスト教会で青年時代に洗礼を受けられた私たちバプテストの主にある同労者で、今も連盟の教会と深い関わりのおありの方です。中村さんは現在もペシャワールやアフガンで活動されておられますが、今回のこの番組においても、神やキリストという言葉を語られることはありませんが、そのお話からも、中村さんの活動の源にイエス・キリストがいらっしゃることが感じ取れます。そして中村さんの活動に触れるにつけ、伝道とは一体何であるのかを教えられる気持ちになります。中村さんは常に目の前にいる助けを必要としている人の視点に立って支援の働きをなさいます。中村さんはその著書において、自らの活動の原点について次のようにおっしゃっています

 「相手の気持ち、つまり私たちから見れば患者の気持ちがわからないと、臨床医療というのは成り立ちません。患者が何を考えて、どういうことを訴えたいのか。どうして欲しいのか。こういうことがわからないと私たちの仕事は進まないわけです。」
更に、「私たちはえてして、自分にとって見慣れないもの、自分が一般的だと思わないものを目にすると、単に『違う』というだけであるものを、善悪だとか優劣だとかいう範疇で見てしまいがちです。理解できない風習や文化に接した時に外国人が犯しやすい過ちというのは、単に“違い”でしかないものを“善悪や優劣”にわけて現地の側を非難しがちである、ということです。私たちは、そこの文化が間違っているか、間違っていないかという議論はしません。その文化の中にあって、実際問題として患者がよりよくなるような状態、あるいは病気が治らないのであれば少しでも幸せになるような状態をつくっていくことが課題であり、方針です。」
 相手にとって最も大切な必要な助けを与える、これは至極当然で尤もなことなのですが、なかなか出来ない。そしてこちらの方が良いのではないかと、与える方で相手の気持ちや文化風習を考えずに、上から物を与えたり、押し付けたりしてしまう。中村さんたちは現在、貧困層への医療活動を行なうと同時に、2000年頃からアフガンを襲った大干ばつのための水源確保事業を展開され、井戸の掘削とカレーズと呼ばれる地下水路の復旧を続けておられます。その結果、中村哲医師は現在、アフガンの地において井戸を掘っておられる井戸掘り作業員だと言えます。

 相手の目線に立ってものを考える、相手の立場に立って物事を進めることは本当に難しいことです。しかしイエスさまのおっしゃる愛とは、正にそのことではないか、中村さんはそのことを実践されているのではないか、と思わされています。
本日は長く読んでまいりました“主の祈り”の最終回です。お気づきの方もあるかと思いますが、先週の週報での予告と異なっています。メッセージタイトルは同じなのですが、聖書箇所が変更となりました。事前に予告しているのですから、このように変更するのはあまりすべきことではありませんが、その都度自由な聖霊の導きに任せようと思っています。
“主の祈り”、これは主イエスが「こう祈りなさい」と言って教えて下さった祈りです。ですから私たちは自分自身の信仰の確かさの中で祈るのでではなく、神さまが私たちを支え、そして私たちの祈りを聞いて下さる神さまの確かさの中で祈るのです。
ここまでこの“主の祈り”の一つひとつの文言についてみてまいりました。「天にまします我らの父よ」の“呼びかけ”から最後の「アーメン」に至るまで、無駄な言葉は一つもない、私たちが父に祈るべき内容が盛り込まれています。決して疎かにして良い文言はなく、一言一句心込めて祈るべきであります。

 しかし、先週も申し上げたように、私たちは常に確信に満ちて祈れるものではない。「祈ってもピンとこない、こんな言葉を重ねていて神さまに届いているのだろうかと不安になったり、こんな頼りない祈りでよいのだろうか」と思いながら祈る時がないでしょうか。また一つひとつの言葉に思いを込めて大切にして祈ろうと考えたりすると、そのことに思いが捉われてどこを祈っているのかが分からなくなったり、「あ、今の処ちゃんと祈れなかったから、もう一度祈ろう」としたりなどしていると、前に進めなかったりと、そういう経験をなさったことがないでしょうか。

 イエスさまは私たちの弱さも愚かさも信仰の不確かさも全部ご存知です。それを全部ご存知の上で私たちに「こう祈りなさい」と言って、この祈りを教えて下さっているのです。ですから私たちの気持ちが十分に入っていなくとも、確信のないままただ唱えているような祈り方であることもご存知なのです。そしてその祈りを聞いて下さるのです。毎回のこの祈りに誠心誠意、全身全霊を傾けたような思いを込めて祈らなければ、父なる神さまは祈りを聞いて下さらないというわけではありません。私たちの愚かで頼りなくって確信のないままの祈りであっても、この祈りを献げることが期待されているのです。エッセンスのつまった必要最小限な祈り、それが“主の祈り”であるのですから、結論的に言えば、ごちゃごちゃと考えて祈らないよりも、たとえ思いが篭っていなくとも1日に何度でも私たちがこの“主の祈り”を口にすることを、イエスさまは待っておられるのです。
今祈祷会では、詩編を読んでいます。祈祷会ですから、心合わせて祈ることが目的の会ですが、ご一緒に詩編の非常に豊かな世界の中から学べることは感謝です。十分な準備が出来ているとは言えませんが、前日から時間を取り分けて新共同訳聖書で該当箇所を読み、それを口語訳始めいくつかの翻訳で読み、注解書に目を通す。私にとってはそれは、正に至福の時と言えます。祈祷会では何度もお話していることですが、今までこれほど深くまた丁寧に詩編を読んだことは私にはありませんでした。幸せでありながら、同時にとても後悔しているというか、もっと早くにこの世界を知っていたら良かった、そうしたら私の今までの歩みは違っていたのではないか、うつ病にもならなかったのでないかと思うほどであります。ですから、皆さん、是非詩編をお読み下さい。全ての詩編を読んでいるわけでなく、ピックアップしながら読んでおり、今週が82編ですから、少なくとも年内は、来年の今頃はまだ詩編を読んでいるでしょう。是非祈祷会にご出席下さり、ご一緒に詩編の豊かな世界の中で祈りを献げられればと思い、毎週お待ちしております。皆さんの祈りの生活が変えられると確信しています。

 詩編は神さまからの私たちへの語りかけではなく、私たち人間からの神さまへの語りかけ、祈りであります。“主の祈り”の最終回にあたって、本日の礼拝に与えられたのは、その詩編の130編であります。この130編はあの宗教改革者のルターが“最上の詩編”の一つとして挙げ、「聖書の正しい師であり先生」、また「非常にパウロ的な詩であり、この詩が福音の基本的な真理を教えるものである」と述べている代表的な詩であります。
今日はこの詩の一つひとつの言葉について述べる時間はありませんし、またそのことは祈祷会でこの130編を取り上げる時に、譲りたいと思います。

 この詩は、人間の置かれている状態を見抜いていると言われます。人生とは1節にある「深い淵の底から」主を呼び求めることであり、その危うさの中に、そしてまたその経験の中で生きることを余儀なくされたものであることを、この詩の作者は知っております。「深い淵」の中にいるということは、将来への展望と力に満ちたいのちではなく、死が力を振るっている処で生きているのが私たちの現状であるということです。「もう駄目だ、最後だ」と思うような処にいるということです。その中から必死になって、この詩人は神に呼びかけています。2節「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」
3節では、神が私たちの罪に心を留められるなら、誰もそれには耐え得ないと言います。私たち、イエスさまによって罪が贖われたものも同じです。先日もある方とお話していたら、「クリスチャンの人ってすごいですね。教会に毎週通われることには感心します。」と言われました。そのように言っていただくことはとても感謝なことですし、そのことが神さまの素晴らしさをお伝えすることにも繋がっていくこと、またクリスチャンが毎週教会に通っていることがそのまま証しになっているのだと思うと素晴らしい事だと思わされました。しかし私たち教会に来る者が立派なのでは決してありません。私たちは深い淵の中でのたうちまわっているのであり、神さまが私たちの罪に心を留められるなら、誰も耐え得ないような愚かで罪深い存在に過ぎないのです。私たちは弱く愚かで、神さまにすがらないと生きていけないどうしようもない存在なのです。

 しかし4節には信じがたいような言葉が出てまいります。「しかし、赦しはあなたのもとにある」と。誰も神さまの前には出れない、神さまの審きには耐え得ないと3節で言っているのに、この4節では急転直下「赦しはあなたにある」というのです。この詩人はどのような経験、体験を通して、このような思いという確信に至ったのかは何も述べていません。しかし彼は、「赦しが神のもとにある」と述べるに至ったのです。この時代は当たり前のことですが、イエス・キリストより前の時代のことです。この時代にも救い主、メシアを待ち望む信仰はありましたが、この地上にイ主エスがお生まれ下さったことも、また主イエスの十字架を経験することもありませんでした。しかし彼はどのようなことを通してかは分からないのですが、神に赦しがあることを知ったのです。体験したのです。だから彼は「深い淵の中から主を呼んだのです、そしてこの声を聞き取ってください」と言ったのです。これが祈りです。しかし彼は自分が赦されるに値しない人間であることを深く自覚していました。それは4節の後半の「人はあなたを畏れ敬うのです」という言葉から分かります。彼は主への畏れの念を抱いているのです。

 彼は神さまが罪に目を留めることのないお方であることを体験したのでしょう。神さまは私たちが罪を犯すことをとても悲しまれ、その罪をきちんとお審きになるお方です。しかしその罪に目を留められない、神さまは監視カメラではないのです。神さまは人間の罪を器械的に監視するカメラの様な存在ではない。もしそうだとしたら、誰にも救いの望みはありません。詩人はそうではないことを知った。そのため彼は「赦しはあなたのもとにある」と述べるのです。

 そしてこの詩は、深い淵にいて主を畏れる者の取るべき姿勢を教えてくれます。その姿勢とは、主を待ち望むことです。そのことを何度も繰り返して述べています。6節では、その主を魂から待ち望むことは「見張りの者が朝を待つように」待ち望むと言います。そして「朝を待つにもまして、待ち望む」と言います。朝の来ない夜はありません。朝は必ず来ます。どんなに真っ暗の夜であっても必ず朝はやって来ます。しかしここでは「朝を待つにもまして、主を待ち望む」と宣言しているのです。これが私たちの祈りの姿勢です。主が必ず、私たちの祈りを聞き届けて下さることを待ち望むのです。

 祈りとは、祈りに実感がなくとも、聞き届けられたのか確信が持てなくとも、神さまが共にいてその祈りを聞いて下さる確かさの中に身を委ねることです。そして委ねた後は、たとえすぐに祈りが聞かれたと実感できなくとも、必ず聞き届けて下さることを待ち望むことです。ご一緒に主の祈りを祈り続けて者となりましょう。お祈りします。黙想の時を持ちます。


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