「死んで生きる」 


 ガラテヤ書2章15〜21節
 2006年7月9日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。先週で“主の祈り”はひと先ず終わったのですが、主イエスが“主の祈り”を弟子たちに教えられた目的は、彼らが学ぶことではありませんでした。主イエスは「こう祈りなさい」とおっしゃったのですから、主イエスの意図されたのは弟子たちが祈るようになること、祈りを実践するものとなるためでした。ですから、“主の祈り”の学びが終わったら、それで「はい、さようなら」と言って、“主の祈り”とのつき合いが終わるものではありません。

復活された主イエスはヨハネによる福音書21章で「あなたを愛しています」というペトロに対して「わたしを愛しているか」と三度尋ねられました。そこでお伺いします。「皆さん、祈っていますか」。もう一度お伺いします。「皆さん、祈っていますか」 最後にもう一度「祈ってますか」。牧師にこのように聞かれて「はい、祈っています」と答えられるものではないかもしれませんが、主イエスは「こう祈りなさい」と言って“主の祈り”を教えられたのですから、私たちはそのご命令に従えるように努めたく思います。

私は牧師になって、まだ8年ほどの者です。牧師の仕事は、メッセージをすることだけではありません。教会に住み込みで働いているのですから、それなりに毎日何だかんだとすることがあります。牧師のことを説教師とは言わず、牧師と言います。これは牧会をすることが主イエスより仰せつかっている役割であるからです。しかしそれでも毎週、説教を作成することは大変です。私は前任地で抑うつ状態が激しくなり、仕事が続けられなくなり、3ヵ月半精神科の病院に入院しました。その時にまず思ったのは、教会から離れられたことの気楽さと解放感でした。次に思ったのは「土曜日にメッセージを作らなくてもよいのだ」ということでした。入院後最初の土曜日などは、朝からそのことばかり考えて嬉しいというか、何だか居心地が悪いというか、何とも言えない気持ちになったほどでした。そしてその準備にあたっているであろう牧師たちのことを思い、祈りました。それほど牧師はメッセージのことにとらわれています。それは、この教会で月2回英語礼拝の奉仕をして下さっているマイケル兄弟も同じだと思います。毎週説教を作成する事は大きなことであります。そのため説教に関しての本を多く読むことを欲するものであります。牧師になって最初の頃は、“説教の作り方”の本を読み漁ったものでした。また今でもいろんな牧師の説教集に目を通したりします。

それと同じように、私たちはつい“聖書に関して”の本や“祈りに関して”の本を読もうとするものであります。しかし“関して”の本を読んでも前には進みません。進むための準備にはなるでしょうが、絶対に前には進みません。どれほど“説教に関して”の本を読んでも、“説教”は出来ない、“聖書に関して”の本を読んでも、“聖書”を読んだことにはならない、それと同様に、どれほど“祈り”に関しての本を読んだり、祈りについての知識を増やしても、祈ったことにはなりません。私はそのような知識が何の意味もないと言いたいのではありません。皆さんは、この3ヶ月間、“主の祈り”に関して聖書から学んでこられました。主イエスが教えて下さった聖書の言葉から、直接神さまからの“学び”をされました。後は、それを実行するだけです。“主の祈り”を祈ることだけです。とにかく祈りましょう。

さて年度当初、私は聖書教育の聖書の箇所にあわせて今年度のメッセージをすると言いましたが、7月からの3ヶ月間は、私が無牧師支援や夏季休暇のために出来ないこともありますが、聖書教育から離れて、自由に、その都度導かれるままに聖書箇所を選んでいこうかと考えています。“主の祈り”を終えて、最初の箇所として、本日与えられましたのは、先ほど拝読いただいたガラテヤ書であります。

以前にローマの信徒への手紙から語らせていただいた時にも述べましたが、新約聖書に記されている“手紙”、ローマや今日のガラテヤなどは、一般に“●●書”と呼ばれます(エフェソ書、コリント書など)。これは文語訳聖書がそのようにしたからです。ですから私たちが今手にしている聖書には“ガラテヤ書”という名前の書簡は存在しませんが、“ガラテヤの信徒への手紙”のことを“ガラテヤ書”と、私も言わせていただきます。

 この“ガラテヤ書”はロマ書と並んで、“信仰義認”、人は行ないによるのでなく、イエス・キリストを信ずる信仰によって、義とされることが記されています。

 15節で彼は「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」と述べます。聖書にはこのように「異邦人のような罪人」という言い方が度々出てまいります。私たちも異邦人でありますから、少しひっかかりを覚える方もあるかもしれません。これはユダヤ人の視点から述べた表現です。ユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた神の民だという自負を持ち、神さまの導きを受けた民だと思っていました。これが所謂悪名高き“選民思想”であります。これが誇りを越えて、異邦人を馬鹿にするというか、差別する意識へと繋がっていったことは確かであります。異邦人は真の神を知らない罪人だという考えになっていったのです。

 ここでパウロはこういった表現を用いることで何を述べようとしたのでしょうか。この文脈において彼が言わんとしているのは、決して自分たちは特別で、あなたたち異邦人であるガラテヤ人だけが罪人だと告げるためにこう言ったのではありません。聖書が与えられ、神さまに特別に愛されていると自負している私たちユダヤ人でも、聖書の戒めである律法を実行することが出来ない弱い存在なのだ、罪人なのだ、自分の行ないによっては、神さまの前で自分を正しいと証明することは出来ないのだ、とパウロは語ろうとしたのです。それが16節であります。だから「律法を実行することでは誰一人義とされることはなく、イエス・キリストを信じることで義とされるのだ、だから私たちユダヤ人もキリスト・イエスを信じたのだ」と述べているのです。

 ここで一つ整理しておきましょう。それは “義”という言葉です。この言葉には二つの意味があります。先ず最初にこれは「神さまは全く正しいお方である」という神さまのご性質を指す言葉であります。神さまは存在そのものが義である、何一つ間違っていない、偽りのないお方、神さまには真実しかないということです。

 もう一つ、その神さまと私たちの関係を指してこの“義”という言葉が使われます。私たちが主イエスを信じたら、神さまのように正しい、何ら偽りのない存在になれるのだということではありません。このことを履き違えないようにしなければなりません。キリストの弟子となった“クリスチャン”は良い人、主イエスを信じない世の人々は悪い人、まして仏教やイスラム教などの他の宗教を信じている人が悪い人、間違った人、罪人なのではないということです。主イエスを信じた私たちであっても、私たちは骨の髄まで罪人なのです。教会にやって来た、主イエスを信じた、そして教会に通い続けている、だから私たちは、主イエスを信じようともしない、また教会に来ようともしない世の罪人たちとは違うのだということではないのです。私たちは罪を犯さなくなったのではなく、どこまでも罪人なのであり、ただ主イエスの十字架によって罪が赦された存在に過ぎないのであります。もし私たちがそのように“自分たちは世の人々のような存在ではない”と思っているなら、それは主イエスの時代のユダヤ人たち、特に律法学者やパリサイ人たちが陥ってしまった罪と同じ罪を犯してしまうこととなります。彼らは神さまではなく、律法により頼む、更に言うならば、律法を実行する自分自身により頼んでいました。しかし私たちも、自分は主イエスを信じているから義とされたのだと、自らの信仰という行為をより所とするならば、これは大きな間違い、罪を犯すことになります。

 ここでパウロが述べようとしているのはそういったことではありません。信仰によって義とされるとは、どこまで言ってもどうしようもない罪人である私たちのことを、神さまのみわざ、主イエスの十字架のみわざによって、義なる神さまとの関係を正してくださったという、その私たちと神さまとの関係のことを“義”と呼んでいるのです。かなりまわりくどい言い方になってしまいました。言い換えますと、何一つ罪を犯されない正しく義なるお方であった主イエスが十字架で死んで下さった、私たちの裁かれるべき罪を全部しょい込んで下さった、私たちの身代わりとなって十字架で命を献げて下さった、そのことを信じることで、私たちと神さまとの関係を不純物の入り込む余地のない完全な義なる関係にして下さったということです。

 神さまは私たちにご自身の命の息吹を吹き込み、ご自身にかたどった似姿としてお造り下さいました。それには何一つ不完全なことも間違いもなかった。問題は私たちにあります。私たちはその神さまの御心に適わず、神さまが悲しまれる罪を犯してしまったのです。それは自分の知らない間に、どうしようもない罪を犯してくれたアダムととんでもない罪人のエバに全ての原因があるからではありません。彼らを唆した蛇に責任があるのでもあります。また禁断の木を造って「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」などというもったいぶった言い方をした神さまに問題があったのでもありません。問題は私たちにあるのです。あなたが罪を犯したからだ、と聖書は私たちの罪を指摘します。

 その私たちのために自らの御心に適った愛する御独り子であられた主イエスを十字架に架けて裁かれた、私たちの罪を裁くために十字架で主イエスに命を献げさせた。そして罪人のままである私たちに向かって「あなたの罪は全部あの主イエスの十字架に釘付けにされている。だからわたしはもはやあなたの罪を問わない。あなたとの関係を義なるものとする」と言って下さっているのです。2000年前だけでなく、今この瞬間にも。

パウロは19節では「わたしは神に対して生きるために律法によって死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられている」と述べます。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」

今日の宣教のタイトルは「死んで生きる」です。死んだら生きておれないだろう、ある意味その通りかもしれません。しかしそうではない、と聖書は語るのです。パウロは「生きているのは、もはたわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言います。自分はもう死んだも同然だと言うのではありません。自分はもう死んだのだ、しかし私はその十字架の愛によって、十字架のイエス・キリストの身代わりの、贖いのみ業によって生きているのだ、だから自分の内側に主イエスが生きていて下さるのだ、と言うのです。死なないと生きられないのです。誤解しないで下さい。死んだ気にならないとやり直せないという意味でもありません。文字通り、罪の自分に死なないと神さまと共には歩めないのです。神さまと共に生きられないということです。それは、義なる神さまは罪があるままの私たちとは関係はもたれないからです。死んだも同然の状態であったり、死んだ気になってやり直すことで済むのなら、主イエスは死なくてもよかったのですから。

明治の時代の日本のキリスト者たちは、洗礼を受ける時に、誓約書に血判を捺したと言います。自分たちは一度死んだのだ、そのため主イエスのためなら、喜んで自らの命を献げます、と誓うために血判を捺したのです。今のような所謂“自由”な時代ではありません。それこそ、“耶蘇”と揶揄された時代です。それでも自分は一族とそして地域社会と縁を切ってでも主イエスに従っていきます、と血判を捺して誓ったのです。私は決して皆さんにもそのようにしなさい、そうでないと救われませんと言おうとしているのではありません。しかし私たちの信仰の中に甘えがあるなら、それは21節でパウロが述べる「神の恵みを無にし、キリストの死を無意味なものにする」ことになるからです。

今日はこの後、新生讃美歌の401番を讃美します。バプテスマ式の時に歌う讃美歌です。しかし私は常々思っていることがあります。この讃美歌が作られた時には、作者は、バプテスマ式で歌うための讃美歌として書いたのではないだろうということです。

「わが君イエスよ 罪の身は  暗き旅路に 迷いしを

 くまなく照らす み恵みの  光を受くる うれしさを

 君の血しおに  救われし  われは今より ひとすじに

 み足の跡を   慕いつつ  み国の道を  進みゆかん

 罪のこの身は  いま死にて  君のいさおに  よみがえり

 神のしもべの  数に入る   清きしるしの  バプテスマ

 

 生まれ変わりし 喜びは    何になぞらえ  たぐうべき

 わが身も魂も  みなささげ  み名をたたえて 日を過ごさん」

ある牧師は、その教会でバプテスマ式を行う時に、「今日は●●さんのお葬式だ」と言いました。私たちクリスチャンには誕生日が二つあるとよく言います。肉体の誕生日とバプテスマを受けた日、また受ける日です。しかしそのように言うのであれば、それと同様に私たちにはお葬式も二つあると言えるのではないでしょうか。実際の葬式がいつであるか、それは私たちには分かりません。しかし私たちがバプテスマを受けた日、また受ける日、それは私たちの罪の身体が死んだ日、死ぬ日なのです。晴れの日であるバプテスマを受けた日を葬式だなんて、「そんな縁起でもない」のではありません。私たちが日々犯している罪は万死に値するのです。私たちはそれほどの罪人なのです。しかしその私たちの命を奪わずに、罪を裁かずに、主イエスを十字架に掛けて主イエスが私たちの身代わりとして死んで下さったことで、私たちを生かして下さったのです。愛して下さったのです。

最後に主イエスのみ言葉を見て終わりたいと思います。ヨハネによる福音書12章24節、新約聖書192ページです。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 これは、直接的には主イエスが十字架に架かって死ぬことを予告されたみ言葉です。しかしそれだけではない。私たち罪人も主イエスの十字架で共に死ぬのです。罪の自分に「死んでこそキリスト共に生きる」ことが出来るのです。アーメン

 今日は自らの罪を悔い改める時をもちたく思います。今からの黙想の時に、先週一週間の間に私たちが、人に対して、また神さまに対して犯した罪を思い起こす時としましょう。ただ急にこのように言われてもその思いや言葉が出て来ないという方は、主の祈りをお祈り下さい。




2006年説教ページに戻るトップページに戻る