「羊飼いの声だけ聴こう」   


 ヨハネによる福音書10章1〜6節
 2006年7月23日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。今日もこうしてご一緒に礼拝を献げられますことを心から感謝申し上げます。先週降り続いた雨ですが、各地に大きな被害をもたらしております。特に長野県では、集中豪雨というより、断続的に雨が降り続いたことが土石流災害を引き起こしたようであります。昨年は水不足が叫ばれていたのに、今年は雨災害、これから台風の季節に入っていきます。今後大きな被害が起こらないように願うばかりです。

 先週は皆さまのお祈りに支えられて八万伝道所で奉仕させていただきました。八万の方からも皆さんにくれぐれもよろしくお伝えするように言われました。礼拝出席者は私とこどもたちを入れまして、11名でした。本当に小さな群れで、自前の建物でなく集会所を借りての礼拝です。母教会からエイキンズ先生が月に一度、そして連合から無牧師支援で近隣教会の牧師が月に一度メッセージに行きますが、残りは信徒の方たちが宣教されています。そのような状況の中、心の病を患っておられる方が複数礼拝や祈祷会に出席されるようになられているとのことです。しかしこの事の中に、八万のこれからの歩みと主のみこころがあるのではないかとお話しされていました。是非これからも八万伝道所のことを覚えてお祈り下さいますようにお願い申し上げます。

 本日与えられましたみ言葉はヨハネによる福音書10章です。司式者に朗読していただく箇所としては、1〜6節といたしましたが、7〜21節まで、更に文脈としては9章から続く物語として、この箇所を見ていきたいと思います。

 今日の10章の中心は、11節と14節で繰り返されている「わたしは良い羊飼いである」という主イエスの言葉に表れています。ご自分がそのように良き羊飼いであることを述べるのに、先ず今日の1〜6節においてその羊を飼う囲いと羊が羊飼いの声を聞き分けることのたとえから主イエスは話し始められました。6節でヨハネはこの話しがファリサイ派の人々に向けて語られたものであることを書き留めております。そして彼らはこの話しが何のことか分からなかったのだと。19節以降を見ると、その後ユダヤ人たちの間で対立が起こり、主イエスのことを「悪霊に取りつかれて、気が変になっている」と言う人たちまでが現れたと記しております。

 私たち日本人は実際に羊の世話をしている羊飼いの様子を日常の生活の中で目にすることはありません。しかし当時のパレスチナ地方においては、羊飼いたちが羊を養っているさまは日常の光景でした。彼らにしてみれば、3節や4,5節に書かれているような羊飼いが羊の世話をする様子や羊が羊飼いの声をよく聞き分けることは、わざわざ言われなくともよく知っていたことでしょう。主イエスは、羊飼いと羊という当時の人たちにしてみたら、とても分かり易い題材を用いてたとえを話されたのです。何が分からなかったのでしょうか。それは、この話と自分たちとの関係です。主イエスが自分たちに向かって言わんとしている真意が分からなかった、いや彼らも分かってはいたのかもしれませんが、そのことを認めようとはしなかったということでしょう。何故でしょうか。

 ここで押さえておきたいことは、10章から新しい話が突然始まったわけではないということです。この前の9章でヨハネ福音書が語っている物語に今日の話しは続いているのです。エルサレムの都に生まれつきの盲人の男がおりました。物乞いをしている彼に主イエスが声をかけられた。唾で土をこねて目に塗り、シロアムの池で洗わせた。そのようにして彼の目が見えるようになったが、ファリサイ派の人々は、この男を裁判にかけた。そして「お前を癒したあのイエスを否定しろ、あのイエスが特別な存在だなどいうことを認めるな」と強要しましたが、この男は「あの方こそ神から来た方だ」と言い続けた。その結果、9章34節にあるように、男は追い払われることとなったのです。

 この男は「良き羊飼い、まことの牧者」である主イエスの声を聞き分けることが出来たのです。そして「私はこのお方について行きます」と言いました。しかしファリサイ派は彼のことを放り出した。10章4節の言葉で言えば「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし他の者には決してついて行かず、逃げ去る」あなたたちは彼を追い出した。しかし実際は、彼のほうがあなたたちの前から逃げ去ったのではないか。なぜか、あなたたちファリサイ派の言葉は真実の羊飼いの声ではなかったからではないか。これは主イエスの偽りの牧者に対する“神の戦いの宣言”であるのです。羊を飼い損なっている偽りの牧者に対する戦いであります。

 これは言い換えますと、羊の側の戦いでもあります。真実の牧者、羊飼いの声を聞き分けることができるかどうかの戦いです。3・4節で「羊はその声を聞き分ける、羊はその声を知っている」と繰り返されていることからも、主イエスがこのことを強調されていたことが分かります。そこに主イエスの思いが詰まっていたに違いありません。実際、歴史上、このヨハネ10章の言葉は、教会の戦い、信仰の戦いの場面において、何度も思い起こされた言葉でした。

 1517年にドイツのヴィッテンベルグという小さな町のルターという一人の修道士が、歴史的大事件になるとも思わず、ヴィッテンベルグ城教会の扉に「95か条の論題」を張り出したことから、彼と神学者たちの論争が始まりました。仲間もおりましたが、まだ若くて、孤立無援と言える状況の中でルターは、名だたるハイデルベルグ大学の神学者たちと討論することになったのです。これが世に言う宗教改革の始まりです。この時、ルターの心を支えたのは、今日のヨハネ福音書の10章の主のお言葉でした。9節の「わたしは門である」というみ言葉がこの討論の中で引用されております。ルターは、この言葉を拠り所として信仰の戦いを行ったのです。

 そのずっと後の時代、20世紀に入って1933年のことです。同じくドイツでヒトラーが政権を取った年、町にはハーケンンクロイツ、ナチスの党章である鉤十字が満ち溢れました。一挙にヒトラーの時代がやって来たのです。人々は反ヒトラーの声を挙げることが出来なくなり、多くのキリスト教会もヒトラー支持に傾いていきました。しかしそのことに疑問を持ったキリスト者たちがおりました。彼らはバルメンの町に集って、その翌年声明を出しました。世に言う「バルメン宣言(ドイツ福音主義教会の今日的状況に対する神学的宣言)」です。現状のドイツの教会がいかなる状態にあるかを神学的に、神の言葉に照らして見直し、明らかにしたのです。

 その第一の条項には次のように記されています。「聖書において我々に証しせられている主イエス・キリストは、我々が聞くべき、また我々が生と死において信頼し、服従すべき神の唯一の御言葉である」。そして続けて「教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉の他に、またそれと並んで、更に他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、我々は斥ける」単純明解で私たちの心をうつ言葉です。
ナチス政権が全ドイツを席捲し、ヒトラーに従って行けば、ドイツは栄光を受けるのだと人々が熱狂していた時代です。しかしそこには真理はない、われらが聞くべき言葉は主イエス・キリストのみであると言い切ったのです。彼らの多くは捕えられ処刑されていきました。
ここで注目したいのは、この宣言は今の言葉で始めていないのです。全部で6つあるその条項には、全て今の言葉ではなく、聖書の言葉を始まりに掲げているのです。その第一の条項に掲げられたみ言葉は、ヨハネ14章6節の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と、今日の10章1節「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」、そして9節の「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」でした。今日の宣教のタイトルのように「羊飼いの声だけ聴こう」とみ言葉を掲げ、自分たちの信仰を宣言したのです。

 彼らから学ぶべきこと、教えられることは多くあります。しかしこういう戦いは何もヒトラーや全体主義者が現れないと起こらないものではありません。いつの時代においても求められることです。教会会議を開かなくとも、私たちと神さまとの会議を、私たちは毎日開いているのです。日々の生活の中で、ああしようかこうしようかと悩むことがある、決めなければならない時が迫ってくる。毎日が決断の連続だと言えます。そのような決断の時に、何によって決断するのか、主イエス・キリストの声を聞き取って、主イエスのあとについて行くのか。

 私は何もここで、「現代もいつ信教・言論の自由が脅かされるか分からない、だからぬるま湯のような信仰生活から脱せよ、心せよ」と叱咤するために、このような話しをするのではありません。「この覚悟が出来る方だけが、この会堂にお残り下さい、後の方はみんな駄目ですから、ついて来れるようになったら出直して下さい」と言うのでもありません。
今日の10章の言葉において、羊の行動として主イエスがおっしゃっていることは多くありません。そしてそれは、ルターや「バルメン宣言」を行った人々の歩みに従える者にしか出来ないことではないように思えます。いや言葉を換えて言うならば、彼らが信仰の戦いを戦いぬけたその原点は単純なことだと思います。その点をきちんと押さえていたからこそ、全うしたのだと思います。
羊飼いは大変です。11節にあるように羊飼いは「羊のために命を捨て」なければなりません。狼がすぐにやって来ます。その狼から羊を守らねばなりません。しかし羊の側ですることは、「羊飼いの声を知ること、羊飼いの声を聞き分けること」です。真の羊飼いの声でないと判断すればどうするか、「逃げ去る」のです。襲って来る敵と直接戦うのではありません。それこそ、一目散に逃げ出せばよいのです。後は羊飼いに捜してもらうのを待つ、せいぜい泣く事でしょうか。

 今日はこの後“こどもさんびか”を歌います。私は子どもの時から教会学校に通っていたわけではないので、幼い年齢からこの讃美歌に慣れ親しんだわけではありませんが、私が青年だった頃にCSの奉仕をさせていただいた時、礼拝で歌う讃美歌としてよく選ばせていただいた讃美歌です。プリントをご覧下さい。小さい羊は遠くへ遊びに行って迷子になります。夜になって家が恋しくなって泣き出します。しかし情け深い羊飼いは遠くの山や谷にまで捜しに来てくれ、救い出して下さるという内容です。

 私たちは迷子になります。偽者の声に従わなくとも、ぐずぐずして取り残されてしまうことがあるかもしれません。自分の声や思いを優先させて、仲間たちからはぐれてしまうこともあるかもしれません。一生懸命聞き分けたつもりでも、誤って偽者の羊飼いの声に聞き従ってしまうこともあるでしょう。しかし良き羊飼い、真の牧者である主イエスは必ず捜しに来て下さいます。見つけ出すと約束して下さっています。ルカ福音書15章では「一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」と主イエスはおっしゃいます。私たちは主イエスの羊です。愚かで間違いを犯す罪人、罪羊です。そしてそんな羊のために真の羊飼いなる主イエスは命を投げ出して救い出して下さる、いや下さったのです。私たちの為すべきことは、羊飼いの声を知ることです。その羊飼いの声を聞き分けることです。そのように主の言葉に耳を傾け続けるものでありたく願います。お祈りをいたします。その主のみ声を聴く時としてしばらく、本日は少し長く静まって沈黙の時をもちましょう。
 


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