「主はわが光、わが救いなり」 


 詩編27編1〜14節
 2006年8月6日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 お早うございます。先月末よりいただいた休暇で福岡に帰り、昨日何とか無事に帰っ て来ることが出来ました。お祈りを感謝いたします。妻が現在通っている福岡国際教会のアメリカ人の友人が三日にアメリカに帰国し、その彼女から直前に所有 の車をもらいまして、その車を運転して大分県の別府から愛媛県の三崎港に渡りまして、197号線を須崎を通って帰っていました。この車の件もも らえることが判明したのは先月31日のことでした。このことに象徴されるかのように、私たち二人の休暇は連日スリルと サスペンスに満ちた旅でした。妻がこの間乗って来た車は、かなりエンジンに負担が行っており、上り坂になるとスピードが上がりません。40キロまで加速するのにも時間がかなりかかります。ですから却って一般道の山道の方が 道は嶮しいものですから、高速で八幡浜まで行ったのですが、高知道にはまだ対面交通の場所もあり、かなり緊張しました。ま、今回貰った車はそこまでではあ りませんが、かなり古い車ではありますし、まだその車の運転にはなれておりませんから、大分周りで三崎から高知までの帰りの道もスリリングでした。

 福岡ではいつものように、何人かの親しくさせてもらっている友人宅を訪れ、突然泊 めてもらったり、ひょんなことから以前お世話になった教会の夏期学校に飛び入りで参加させてもらったりいたしました。ある方からそのような過ごし方では ゆっくり出来ないだろうから休みにならないのではと聞かれましたが、休暇でないと会えない友人たちと共に過ごすことが私の寛ぎ方であります。一々話して いったらキリがありませんが、このドサまわりのような旅が私たち夫婦を象徴しているように思えます。妻から今回は1週間しか高知におれず、教会の皆さまと1度しかご一緒に礼拝出来ずに申し訳ありませんでしたと言づけられております。お陰さ まで多くの方のお祈りに支えられた憲法9条Tシャツの方も反響を呼び、彼女の願いである世界にこの憲法の存在を知らせたるためにTシャツを配りに、今週火曜日からフィリピンに月末まで行きます。相変わらず、フィリ ピンでの宿泊先等は一切決まっていないとのことです。9月頭頃には高知に寄ると言っております。是非お祈り下さい。またその時には報告をさせようかと考え ております。

 今日は私の証しをかねてお話させていただければと思います。私は前任地において抑 うつ状態が激しくなり、精神科の病院に入院することとなり、仕事が続けることが困難となったため牧師を辞めました。その時のことはお見合い説教の時にも話 させていただきましたが、私にとってはとてもきつい時でした。しかし私にとってはとても必要な時でありました。私は20歳で教会に行き始め主イエスを信じるようになりましたが、その頃は自分が牧師になる なんてことは夢にも思っておりませんでした。

 以前の教会の証し集にも書かせていただきましたが、私は一般によく言われるうつ病 になりやすいタイプの人間ではないと思います。しかしひとそれぞれで、私なりのこだわりや他人から見ると気にしなくてもよいようなことに拘ったり、くよく よ思い悩むところはあるのでしょうが、一般的な真面目で几帳面で人に配慮することに気配りが出来る人間ではありません。悪気はないだろうけど、無神経にず けずけと物を言ったり、失礼なことを平気でしてしまうタイプ。気を配ったり心を注がないといけない類いのことには全くずぼらでいい加減なのが私でしょう。 所謂天然の困ったチャン、子ども時代から仲の良かった友達が突然理由もよく分からないまま離れていく奴。

 そんな奴が何故うつになったのか、それは一も二もなくストレスでしょう。ストレス は性格や気質を超えて、その本人の精神を蝕み疲れさせるのだと思います。前任地の教会は私にはとてもきつかったです。牧師に限らず、どんな仕事でも最初コ ツというかなれるまでは、苦労するものですが、それが限度を超えたのでしょう。私がうつになった原因が全て前任地の教会の諸々の要因によるのではありませ ん。私自身の未熟さや夫婦関係が落ち着いていなかったことも大きいと思います。そして今の私に言えることは、神さまが私にうつを経験させたのだと思いま す。

 今の私が成熟した牧師に相応しい人間になれたなどとは全く思っていません。今でも 基本的にはその点は変わらないと思います。失礼な言動をしてしまっていると思います。今から思うと全く分かってなかったというか、情けなくなるほど恥ずか しい身のほど知らずなのですが、以前は自分の性格というか物の言いよう行動に問題があるという自覚はありませんでした。ただ、今ではどうも自分に原因があ るのだ、相手を怒らせてしまった、不快な思いをさせていることには気づくようになったのです。自分が普通に振舞えば、失礼な言動をする自分に落ち度という か原因があることにやっと気づいた。これが私にとっての罪なのだということが分かったのです。そのことに気づかせるために、神さまは私をうつにしたのだと 思います。

 本日の詩編は多くの人に愛唱されている有名な詩編です。「主はわたしの光、わたし の救い、わたしは誰を恐れよう」に始まる主への信頼を歌った歌です。さいなむ者、敵が襲ってきても私の心は恐れないと詩人は言います。しかしこの詩人も敵 や逆境に対して何の不安も恐れの心を持たなくなったのではないと思います。彼の心にも不安や心配、悩みの思いは起こってきたのだと思います。

 4節で彼は言います。「一つのことだけを主に願い求め よう」と。それは「命のある限り、主の家に宿り主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」

 前回の時にも少しお話させていただきましたが、私はうつ病を患ったことで本当に多 くのものを失いました。仕事を失くし、住む所さえ失くしました。神さまがこの病を通して、私から奪ったのだと思います。あの頃の私にはそれらは必要ない と、神さまが判断されたのでしょう。あの義人ヨブと比べられるようなものではありませんが、私は丸裸になりました。入院中には最愛の母も失くしました。詳 しくは又の機会に譲りたいと思いますが、入院中の4月18日イースターの前々日の受難日に母は召天しました。 私は自分自身が入院中のことでしたから、実はその事態の全貌がよく分からないまま、長野県の母の病院に行きましたが、その時母は既に危篤状態で、行った翌 々日に息を引き取りました。結局母は洗礼を受けることはありませんでしたが、その3日間のかかわりの中で、母が信仰を持って召天したこ とを、神さまは私に確信させて下さいました。

 そのように丸裸になったこと、神さまがそれらを奪ったことを、私は全く恨みに思っ てはおりません。それどころか一切を失くしたことを、強がりではなく感謝しています。私はそうならなければ、立ち帰ることが出来なかったからです。ルカ福 音書に記されている放蕩息子が放蕩の末に本心に立ち帰って、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と言って、父の元 に帰って行ったように、私は丸裸にされることで、父なる神さまのもとに帰ることが出来ました。神さまによって救い出され、神さまによって召し出された献身 者、信仰者としての原点へと立ち帰ることが出来たのですから。

 全てを失ったことは私の病気の回復にとっても良かったようです。そもそもこの病気 は、どこまでが健康でどこからが病んでいると線引き出来るものではありませんし、直ったとか直ってないとかと単純に判断出来るものでもありません。今の私 の状態も、日常の生活をするのに支障がない状態にあるに過ぎません。いつぶり返すかもしれません。そのため、一度退院した後再び入院する方が多くおられま す。その大きな理由は、元の生活の場に帰らなければならないからです。この病気は様々な要因が絡まりあって症状を発するものですから、原因を一つに特定す ることは出来ませんが、ほとんど人間関係からくるストレスがその原因だと言えます。夫婦関係や家族関係、また職場の人間関係やご近所さんとの付き合いに原 因がある等様々ですが、普通はそれらの人間関係、環境の中に帰って行かなければなりません。それはとても過酷なことであり、また病気を悪化させる原因とも なります。しかし私はそれらを失うこと、丸裸になったことで、元の職場から離れることが出来、住む場所も変えることが出来ました。私は妻が仕事をしていた 福岡市に転居しました。そしてそれは、神さまが奪わずに唯一残して下さった、愛する妻のもとに帰ることとなったのです。

 実は私の妻もこの病気の経験者であります。彼女は今も精神科に通院し、薬も服用して おります。彼女が先にこの病を患いました。その時、私は妻の気持ちを全く分かってやれなかった。彼女が出したSOSの信号を受け止めてやれなかったのです。私も本当にしんどかったです。しかしそれ以 上に妻はきつかったと思います。毎日朝から喧嘩というか口論が絶えませんでした。その頃から私の精神状態も悪化していきました。そういった夫婦関係がスト レスとなり、私の心を疲弊させ、病ませていったのだと思います。しかし私は本当に感謝でした。他の入院仲間たちは、家族が自分のことを分かってくれない、 病気であることを理解してもらえない苦しみを吐露しておりました。しかし私は、そうではなかった。妻にとっての私は無理解な家族でしたが、私にとっては、 妻はそうではなかったのです。妻と私とでは、病気になった経緯も異なりますし、その症状も同じだとは言えません。しかし病んだ私の気持や心情を彼女は分 かってくれました。そしてそれは、私が丸裸になったことで、原点に立ち帰ることで、夫婦関係の大切さと夫婦が真剣に向き合うことの必要性に気づかされたこ とによると思います。

 私にとって丸裸になることはとてもきついことでした。しかし5節にあるように「主はわたしを仮庵にひそませ、幕屋の奥深くに隠してくだ」さいまし た。待機中の1年半の間、私たち夫婦は妻が今も生活しておりますが、福岡の学生下宿のようなアパー トにひそませて下さいました。生活の糧を得るためのアルバイトもなかなかなく、高知の家から食糧は送られてきましたので、食べ物に事欠くはあまりありませ んでしたが、偉そうには言えませんが、経済的にはとても逼迫していましたが、それでもあの時神さまは私を幕屋の奥に隠して守って下さいました。福岡には何 人かの友人がおり、今回もその友人たちに会ってきたのですが、彼らには本当にお世話になり、感謝しています。しかし最後のところ、夫婦が一致しなければ、 何も始まりません。たとえ同居はしていなくとも、またもうこれから何があろうとも私たちは大丈夫だとは言えませんが、苦しかったあの時を共に支え合い、幕 屋の奥にひそんで肌を寄せ合ったことで、私たちは一致できました。その私たちがしたのが、夫婦二人だけの礼拝でした。その場を教会にしていくつもりは毛頭 ありませんでしたので、誰にも知らせませんでした。私たち夫婦と神さまだけがご存知の礼拝。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう」(4節)

 その後のことは皆さんもご存知の通りです。伊勢崎教会の話が起こり、私は高知に やってくることとなりました。「わたしは信じます、命あるものの地で主の恵みを見ることを 主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」 アーメン 



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