皆さんお帰りなさい。高知は台風の直撃は免れたのですが、馬路村や本川はかなり激し
く降ったようです。昨年はやって来ることはなかったのですが、これから9月10月と台風シーズンです。被害が及ぶことの無いように願うばかりです。
昨年より、私の個人のわざでありますが、15日 の終戦、敗戦記念日に平和についてわが国が行った戦争とは何であったのか、60年が経った今を生き
る私たちは何をすべきかを考える時となればと思い、映画を見ております。今年は1983年に制作さ れた『東京裁判』という映画を見ました。博田章雄さんと中村秀子さんと3人だけであったのがちょっ
ぴり残念でしたが、4時間半という長時間にわたる映画でしたが、様々なことを考えさせられました。 だいたいが戦勝国が敗戦国を裁くということ自体に無理がありますし、アメリカの原爆投下を始めとする戦勝国側である連合国の行ったことに関しては一切問わ
れなかったことも問題です。当時の日本の指導者たちに何の問題もなかったとは全く思いませんが、では連合国側には罪が無いと言い切れるのか、それは否で
す。戦争に正義を持ち込むこと自体がそもそも無理があるというよりも間違いなのです。日本だけでなく世界中が全人類があのような過ちを犯すことがないよう
に願うばかりです。
私たちは毎週このようにして礼拝するために日曜日を主の日として集ってまいります。 それは神さまを見上げるため、そして神さまが私たちの救い主として送って下さった主イエス・キリストの御名を呼ぶためだと言えます。そこにおいて求められ
るのは、当然のことながら信仰です。私の休暇の時にマイケル兄がこの信仰についてメッセージ下さいました。この信仰ということは様々な言い方、説明がなさ
れます。“信仰とは聴くことである”アーメンです。“信仰とは待つことである”アーメンです。“信仰とは行うことである”アーメンです。“信仰とは主イエ
スをキリストと信じることである”これまたアーメンです。このうちどれが正しくてどれが間違っているということはありません。これらは信仰の持つ側面をそ
れぞれの言い方で言い表したものであるからです。
その主イエスを信じる者のことを信仰者、クリスチャン、キリスト者と呼びます。そし てそれと対応するような言い方で、求道者と呼ばれる方がおられます。今日この中にもその求道者と呼ばれる方がおられます。それは一般には信仰を持っていな
いで、信仰を求めている方のことを教会では求道者と呼びます。しかしそれらの方と信仰者、教会員と自他共に認めそのように呼んでいる者のとの間に違いがあ
るのでしょうか。
今礼拝前のみ言葉に聴こう科では創世記を読んでおり、今日は17章を読みましたが、その次は18章を読む予定です が、その創世記18章には罪と悪徳の代表のように言われるソドムの町の物語が記されております。こ
の罪の町ソドムは神さまによって滅ぼされていきますが、その神さまが決意をなさる時に、アブラハムがまるでソドムの町の弁護士ででもあるように、50人正しい人がいたならば助けて下さるか、45人な
らばどうか、40人ならばどうか、30人な ら20人なら、10人ならばと、執り成しを していきました。しかしそれでもついに10人の正しい人を見出すことも出来ず、ソドムの町は神さま
によって滅ぼされてしまいます。この話しを読む度に私は考えさせられます。ここで神さまが求めておられる正しさとは一体どんなことなのであろうか。道徳的
に正しい生活をしているかということなのか、それとも正しい信仰、神さまとの正しい関係を保っているかということか。自分はその50人いや10人の正しい人の中に入るのであろうか
と。私たちはソドムの町の人と縁遠い存在だとは言えないのではないか。いつでも心を開いて、神さまどうぞ私の心の隅々まで点検して下さい、私は信仰に生き
ていますから、私の生活も全部ご覧下さい、そこに私の信仰を見出して下さるはずですから、と言えるものではないでしょう。最初にも述べたように、信仰とは
様々な言い方ができるでしょうが、礼拝が神さまの前に出ることであるならば、私たちは礼拝するにあたって、改めて一体信じるとはどういうことなのかを問わ
ずにはおれないのではないでしょうか。
本日与えられましたこの百人隊長の物語は、正に信仰の物語だと言えます。信仰を持つ ということの本質の一つの側面を語ってくれています。この百人隊長の話を聞いた主イエスは、9節で
「感心し」と記されています。ここは口語訳ではほとんど同じなのですが、「非常に感心され」とそのことを強調する訳がなされていました。というのは、ここ
に用いられている言葉は“驚く”と訳されることの多い言葉なのです。人の成長というか、向上するのは驚くことに始まります。人が変えられていくのに“驚
く”ということはとても重要な契機(きっかけ)となります。主イエスは、百人隊長の受け答えをとても驚かれたのです。これも直訳調で言えば、“彼のことを
驚かれた”のです。そして群衆に向かって「言っておくが。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とおっしゃいました。ここでの
イスラエルとは信仰の民の意味でありましょう。神を信じ、神に選ばれているという自負を持って歩んでいる民のことであります。主イエスはここでそのような
呼び名をお選びになったのです。イスラエル、すなわち信仰の民の中にも、これほどの信仰を私は見出さなかったとおっしゃったのです。
主イエスをこれほど驚かせた信仰の持ち主は、イスラエルの民ではなく、そのイスラエ ルの民の中に生きていた異邦人でありました。今日の物語の舞台は1節にあるように、カファルナウム
という町でした。ここには領主のヘロデ・アンティパスという人物が住んでいました。この百人隊長は、この領主に雇われていた隊長であったと思われます。ど
この出身であるかは分かりませんが、おそらくローマ人ではないだろうと言われています。ローマ人が、ユダヤ人の王の傭兵、雇われた兵になることは少なかっ
たからです。とにかくユダヤ人ではなく異邦人でありましたが、彼はユダヤ人を愛して、ユダヤ人のために会堂を建ててくれた人物だと記されています。会堂建
築のためにお金を出したのでしょうか。いずれにせよ財産持ちであったようですが、4節の長老たちの 言葉にもあるように優れた人柄の人物でもあったようです。
主の言葉を聞いて百人隊長自身も驚いたことだと思います。彼は必死で助けを求めてい たことでしょう。しかし自分がイスラエルの友人たちにもないほどの信仰を持っているなどとは夢にも思っていなかったに違いありません。もし初めからそのよ
うに確信していたならば、長老たちに執り成しなど頼まず、直接主イエスに掛け合ったことであろう。頼まれた長老たちの中にも、彼は立派な人物だし、愛すべ
き人だけれども、私たちと同じ信仰を持っているとは言えない、だからイスラエルに属する者としての特権を用いて主イエスに話してあげよう。先ず私たちがこ
の人のために取り次いであげなければいけない。しかしここにこそ大きな思い違いがあったのです。宝の持ち主が自分で気づいていなかったのです。ここに信仰
の不思議さ、尊さがあると言えます。自分自身が気づかないところで、この信仰に生かされていたのです。
この百人隊長には部下がおりました。7節 では“僕”とありますから、奴隷であったかもしれません。この当時の観念からすると、所有物のごとく扱われていた存在です。その男が死にかかった。おそら
くとても重病であったがために主イエスの所に連れて来ることが出来なかったと思われます。しかし百人隊長はこの男を「重んじていた」、大切に思っていた。
そして主イエスにその男の助けを求めた時、それは自分の救いのためではなかった、愛する僕、奴隷の救いのためでした。彼は自ら主イエスの所に出向ける資格
はないと思っていた。だからこそ、主イエスに来て頂きたいと願った。外国人の王に仕えて隊長の仕事をしなければならないのですから、自分の悩みも多くあっ
たことだと思われます。しかし自分の救いのことはここでは捨てている。自分の僕のために集中しているのです。
この彼の願いをユダヤ人の友人たちが取り次いでくれました。4節で彼らは「イエスのもとに来て、熱心に願った」。一所懸命に頼んだのです。この主イエスと言う方は、何よ
りもユダヤ人の救いのために来たといつも言われる。だから、もしかすると、ユダヤ人以外のことなど知らないと言われるかもしれない。そんなことになった
ら、百人隊長に気の毒だ。「あの方はそうしていただくにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」ふさわしい、資格
があると訳してよい言葉です。百人隊長本人は6節以降で「主よ、御足労に及びません。わたしはあな たを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。」語っています。しか
し長老たちはそうは思っていない。この人は、主イエスに助けていただくのにふさわしい、資格があると強調しています。
ある人が、このところについて次のように言いました。
“ユダヤ人の長老たちは百人隊長のよい行ないを見る。しかし主イエスは百人隊長の信 仰を見ておられる”
もちろん主イエスは会堂を建てることに意味が無いなどとはおっしゃってないし、思っ てもおられません。そのことも喜んで受け入れたことだと思います。しかし会堂を建てたり、愛したりすることから生まれる四角が神の前に最終的に値打ちをも
つものではない。主イエスが驚かれたのは、百人隊長の行為ではなく、その信仰です。
一体主イエスが驚かれた百人隊長の信仰とは何なのでしょうか。百人隊長は3節でユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくれるように頼んでいます。ところが6節では「主よ、御足労には及びません」と言っている。おかしいではないか、来て下さいと頼んでおきながら、
主がちかづくと、私はあなたを迎えれるようなものでない、矛盾していると思われるかもしれません。しかしこれは矛盾ではないのです。彼はただ主イエスに来
て頂きたいのです。それ以外に救いはないからです。しかし同時に認めざるを得ないのは、自分で主をお迎えする、あるいは、主イエスに家に入っていただくこ
とも出来ないほどに、自分にはその資格がない。重要なのは、このへりくだり、ほとんど卑下にも近いような百人隊長の心がここで主によってほめられたのでも
ないということです。
7節の後半からです。彼は「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやし てください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ま
す。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」と言います。この言葉こそが、この百人隊長の信仰の核心にあるものを継げています。「権威の
下に置かれている」というのは、“王に仕えている”ということです。自分自身は王に仕えている者であり、同時に兵隊や奴隷たちを王に仕えさせる立場に立っ
ている。自分が命令すると、彼らは言うことをきき、その命令がどれほど大きな重みを持っているかを重々承知している。軍隊は命をかけて戦争をします。だか
ら隊長が「行け」「止まれ」「進め」と号令をかければ、部下の命に関わります。自分の言葉に、他者の命が懸かっていることの厳しさを骨身に帯びて知ってい
る人なのです。しかし彼はそのことに酔っていない。むしろそのことの厳しさで自分自身を律しているのです。自分に権威があるからそのような命令が発せれる
のでない、自分にそれほどの大きな権限が与えられているのも、結局は自分が王に仕えているからだ。
この百人隊長は、主イエスという方が、自分がその権威のもとに立っているよりも遥か に大きな神の権威の下に生きておられることを知っており、その権限をお持ちのお方であることを認めたのです。主イエスの語られるところ、主イエスのわざが
なされるところには、まことの神が生きておられ、神の支配が始まっていることを。主イエスが語られる言葉は、その命令の力は、自分が部下の命を左右する言
葉より遥かに勝る力がある。自分に出来るのは、その主イエスの言葉を信ずることでしかない。みこころならばどうぞひと言おっしゃってくださいという以外に
何もない。死にかかっている自分の愛する僕も自分の手元にではなく、この主の言葉のもとに置く以外にない。このことを認めているというところから、彼の全
ての行為は始まる。彼のこのように主イエスを見ていることから、彼のしていること、語っていることの全てが始まっているのです。
タイトルの“ただみ言葉を賜へ”は、文語訳聖書から採りました。そのように主のみ言 葉に全てを委ねる信仰、それ以外には何もないのです。それ以外に発つところはどこにもない。しかも、その信仰が見出されるところに主が来て下さる。主の力
が自分を生かし、病気の僕をも生かす。救いはここに現実となります。主イエスがこの百人隊長に驚き、「これほどの信仰を見たことがない」と言われた、その
時に、この言葉が死に瀕していた僕を生かしたのでしょうか。使いの人が家に帰ってみると、その僕は元気になっていたと書かれています。主イエスのみ言葉
が、百人隊長の家を先に訪れていたのです。
タイトルの“マラナ・タ”とはアラム語で「主よ、来たりませ」という意味です。百人 隊長は、自分の愛する僕のために我を忘れたのです。その死を恐れ、ひもべを掴まえる死の力に、自分が打ち勝つことの出来ない歯痒い無力な思いを抱きなが
ら、主イエス以外に頼るものがことを深く知ったのです。“マラナ・タ 主よ来て下さい、資格も何もないこの私のところに”資格を問えば、誰も主イエスを呼
びよせる資格など持ち合わせていません。胸を張って神さま助けて下さいなどとは言えません。しかし、それでも、主よ、あなた以外に、あなたが示してくださ
る神の力以外に私たち人間の立つべき場所はないのです。だから、「主よ、来て下さい、そして、ただみ言葉を賜へ 主イエスよ」
お祈りをしましょう。その前に今日私たち一人ひとりに示された主の導きとみ言葉に思 いを馳せて暫く過ごしましょう。
「『ひと言おっしゃってください。そしてわたしの僕をいやしてください』主を呼ぶ声 を与えて下さったのは、父なる神あなたさまです。主イエスをこの世に送って下さったのはあなたさまです。どんな資格をも求めず、ただ主の名を呼ぶことを求
められたのはあなたさまです。み言葉を求めることに、またあなたさまとそのみ言葉に委ねきることが出来ずにいる、信じきれずにいる者をどうぞ解放してくだ
さい、救い出してください。マラナ・タ、主よ来て下さい。アーメン」
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