「キリストの愛に富む」  


 ルカ7章36〜50節
 2006年9月3日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。先週は修養会のためにこの場所を離れましたので、教会堂での礼 拝は2週間ぶりとなりました。教会堂でなくとも礼拝であることは確かなのですが、いつもと様子が違ったものですから、久しぶりの礼拝であるかのような感覚 に捉われます。7月に入りまして、聖書教育を離れてその都度の神さまの導きに従って聖書箇所を選ばせていただいております。私は以前は福音書の中では、マ ルコ福音書に導かれることが多かったのですが、今年に入ってからはルカ福音書を示されております。本日共に見てまいりたいのは、先ほどお読みいただいた7章36〜50節の物語であります。

 ここに登場する一人の女性、その名前さえ記されてはいませんが、とても印象深いとい うか、人々の記憶に残ったことでしょう。他人の家にずかずかと入り込んで来て、その家の客であった主イエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙で濡らし て髪の毛で足を拭い、その足に接吻をしたというのですから、異常で非常識な行為と言えます。この家の主はファリサイ派の人で、主イエスは「シモン」と呼ん でおられますが、彼にしてみれば「いったい何なんだ」と言いたくなったことでしょう。彼は何故主イエスを食事に招待したのかは記されてはいませんので、最 後のところは分かりませんが、39節の言葉からすると、主イエスのことを陥れてやろうといった悪意を抱いていたのではないのではと想像出来ます。もしかし たら、あのニコデモのように「何か教えて貰えるのではないか」と思ったのかもしれません。他のファリサイ派の人々とは異なって、主イエスに好意さえ抱いて いたのかもしれません。しかし主イエスは、そんな非常識とも思えるこの女性の行為を注意するどころか、彼女のやりたいままにさせ、40節以下の記述からす るとこの女がした行為を喜び、それどころか「お前は何もしてくれなかった」とかえってシモンに叱責の言葉を向けておられます。

 44節では主イエスはこのシモンに対して「この人を見ないか」と、女の方を振り向い ておっしゃいました。これはシモンが彼女の方を見ていなかったからでしょう。彼女の非常識な行為は目には入っていたでしょうが、彼女が何故ここまでの行為 に及んだのか、その理由にまでは全く思いが至ってはおりません。だから主イエスは「この人を見ないか」とおっしゃったのです。

 シモンはこの女の行為に躓いています。更にその行為を受け入れられている主イエスに さえ躓いたのです。ファリサイ派というのは、自分たちがそう呼んでいたのでなく、ニックネーム、あだ名です。これは“分け隔てをする者”という意味であり ます。自分たちは一般の人間ではない、特別だと自分たちのことを思っていた。彼らは所謂真面目な人たちでした。神を信じ、律法の掟もきちんと守っていた。 世間的な評価では罪人ではありませんでした。ですからこの時シモンは主イエスに対して、「この人がもし預言者であるなら、この女がどんな人物か分かるはず だ」とこの女を裁き、「自分はこの女のような罪人ではない」と心の中で思ったのです。

 彼が心の中に抱いた問いを主イエスは見逃されることはありませんでした。そしてシモ ンに向かって「あなたに言いたいことがある」とおっしゃったのです。「あなたは私が言うことを聞く気があるか」とでもいう意味でしょう。シモンは自分の心 を見透かされたかのように思ったかもしれませんが、彼も「先生、おっしゃってください」と答えました。そこで話されたのが、41節からのとても短く分かり 易い話でした。主イエスのたとえ話の中で最も短いものの一つであります。50デナリオンと500デナリオンという額の違いがありましたけれども、同じ金貸 しに金を借りた二人の人がいた。二人とも返すことが出来ませんでしたが、その金貸しは借金をいずれも帳消しにしてくれた。この二人のうち、どちらが多く金 貸しを愛するだろうか。シモンが「額の多い方だと思います」と答えると、主イエスは「そのとおりだ」とおっしゃいました。

 一般にこのたとえ話は、主イエスが500デナリオンの金を借りた人をこの罪の女であ るとし、50デナリオンしか借りなかった人をこのファリサイ派のシモンであるとして語られたと理解いたします。しかし、(間)

 主イエスはその点に関しては何も言ってはおられない。全体の関連からそのように考え るだけであります。

 そしてシモンはそのように理解したのでしょうか。500デナリオンと50デナリオ ン、それは確かに罪の問題を表しているのには違いないでしょう。しかしそれは自分にはあてはまらない。自分のいる世界とは違う罪びとたちの世界の話だと 思っていたのではないでしょうか。この女はその罪びとたちの中でも最も罪の重い女だ。それは認める。だから女の罪の酷さを強調するためだけに、主イエスは このような話をされたのではないか。自分は、この話の中に出て来る罪びとの一人だ、神に負い目のある人間だとは露ほども思っていなかったのではないでしょ うか。シモンは他人事のように「額の多い方だと思います」と答えたのではないでしょうか。

 ここで主イエスは「どちらが多く罪があるか」とは問うてはおられません。「どちら が多く愛するか」と問うておられるのです。ここで私たちがおさえておかないといけないのは、この金貸しが42節にあるように、「二人には返す金がなかった ので両方の借金を帳消しにしてやった」ことです。ここでは500デナリオンであれ50デナリオンであれ、二人ともその金額を返せなかったのです。金貸しの 立場から見れば、どちらも借金が返せなかった、つまりどちらも負い目を負っているわけです。しかし驚くことにこの金貸しは、二人ともの借金を帳消しにして いるのです。

 この話を聞いた私たちは借金の金額の多い少ないに注意がいってしまいます。そのた め500デナリオンの借金の方が、50デナリオンよりは深刻でよほど貧しい人間だと考えます。しかし見方を変えて、金貸しの立場から考えるなら、50デナ リオンの借金の方が額が少ない分だけ返し易いはずだのに、その50デナリオンさえ返せないということは、50デナリオンの借金の人の方が500デナリオン の人よりもっと貧しいとも言えるわけです。そのように考えるなら、果たしてどっちの方が経済的に逼迫して深刻であったかは言えないのではないか。要は金額 の問題ではないのかもしれません。

 しかし主イエスはそんなことは一切問うてはおられません。どちらも返せなかったの です。返せなかったにも関わらず、この金貸しは条件をつけずに借金を帳消しにしてくれたのです。

 この女は「罪深い女」だと記されています。しかしどんな罪を犯したのかは書かれて はいません。昔からその罪は性的な犯罪、あるいは性的な過ちを犯したのではないかと推測されてきました。娼婦であったのではないかともよく言われます。ま たそこまではいかなくとも、次々と男を変える、所謂淫らな女だったと考える人もいます。それほどひどくなくとも、信仰を持っていない男、もしかすると異邦 人と結婚していた女ではなかったかとも言われるようです。しかし、私はこの女の罪の詮索は無意味だと考えます。主イエスはここで改めて女の罪を問い質すよ うなことはしておられないし、また今見たたとえ話でも金貸しは、借金を帳消しにするにあたって金額の大小は全く問題にしていないからです。

 この女に罪があったことは事実でありましょう。シモンが見ている通りその罪は大き なものなのでしょう。しかし、見逃してはならぬのは、その罪ではなく、その罪に見合う大きな愛があることです。ここで大切なのは、この女の罪を、その大き な罪に見合うような仕方で審き、罰することではないのです。主イエスがここでシモンに言いたいことがあるとおっしゃったのは、その罪に見合う大きな愛を もって赦すことであり、この女を生かすことなのです。シモンよ、それが見えるか、主はそう問われているのです。そしてその愛が見えた時に、自分がそこにど のように関わってくるかも見えてくるはずであります。

 この時この女は泣いています。主イエスの足をぬらすほどの涙を流したというのです から、少しの量ではなかったと思えます。しかし大量の涙を流したかどうかが問題なのでもない、この女は主イエスの姿に接して泣かざるを得ぬ理由があったの です。この涙は悔い改めの涙だとよく言われます。しかしそれは同時に感謝の涙でもあったと思います。シモンにはその涙の意味が分からなかった。女の行動に しか目がいっていなかったのです。そこにこのファリサイ派シモンの罪がありました。何故分からなかったのだろうか。シモンの犯した罪が軽かったからだろう か。だからそれに見合うキリストの愛が見えなかったのだろうか。私たちはうっかりすると、主イエスのこのたとえを聞いた時、自分も罪びとだということは分 かっているつもりだけれども、この女ほどひどい罪びとではない、とどこかで思っているのではないでしょうか。だからこの女はいささかヒステリックではない かと思うことがあるのではないでしょうか。私たちは主イエスの愛を本当に知りたいと思っている。しかしその愛を知るにしては、罪が小さい。この女のように もっと大きな罪を犯せば、大きな主の愛を知ることが出来るのではないかと思っていないでしょうか。私たちはこれほど感傷的ではないと言って、この女が流さ ざるを得なかった涙を流すことなく、それだけ主イエス・キリストから遠く、ついにはここを通り過ぎてしまっているのではないでしょうか。

 ここで主イエスは、シモンを招こうとされておられます。自分は罪があってもせいぜ い50デナリオンだからましだと思ったり、罪のゆえに涙を流すことはないと思っている者に、あなたの罪はもっと深いのだと語りかけて下さっている。罪のた めに人の悲しみが見えなくなっている。主イエスの愛が分からなくなっています。今日の最後のところで「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃっていま す。ここまで信仰ということについては何も言っておられませんでした。そうではなくて、この女の愛について語っておられました。信じることは、主イエスを 愛することであります。シモンの罪がどこにあるかをはっきりと指摘なさった言葉は、あなたはわたしをこの女ほどに愛してはいないという言葉です。「だから 言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」

 今日のタイトルは「主イエスの愛に富む」としました。彼女は主イエスの愛に触れま した。それはどのようにしてかは聖書は記していません。突然他人の家に入って来ているのですから、事前に主イエスのことを知っていたことは間違いないと思 います。主イエスの話を直接聞いたのか、人づてに聞いたのか、その姿を見かけただけなのか、それは分かりません。しかし彼女は主イエスの愛に触れ、その愛 に撃たれたのです。そして彼女なりの愛を主イエスに応えたのです。

 44節からの主イエスのシモンへの答えは、シモンが何もしていないかのようにおっ しゃっています。でもどうでしょうか。シモンも客として主イエスを招いたのですから、通常のもてなしはしたことだと思います。食事も飲み物も、ふるまった ことでしょう。彼には主イエスへの興味はあっても、主イエスのことを罪赦す者としての思いはなかったのでしょう。それどころか、自分自身を罪びとであると の意識は皆目なかった。主イエスに赦されないと生きていけないなどという思いはかけらもなかった。それどころか、この女と自分は違う、自分はこの女のよう な罪びとではないと思っていた。そこを主イエスは見逃されなかった。この女は主イエスの赦しなしには生きていけない、この主イエスに赦されないことには立 ち行けないことの切羽詰った思いがあった。それを彼女なりの仕方で主イエスにあらわしたのです。彼女は主イエスの愛に触れ、その主イエスの愛に満ち溢れた のです。私たちも主の愛に富んだ歩みがなせればと思います。お祈りをします。


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