「弟子づくり大命令」   


 マタイ28章16〜20節
 2006年9月10日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。本日は70歳以上の方を覚え、それらの方たちに教会から記念品と子どもたちからの手紙をお送りし、お一人おひとりのことを覚え、感謝する礼拝です。以前は敬老の日は15日でしたが、ハッピーマンデー法により、9月の第三月曜日となった関係で、今年は18日がこの祝日になります。

 敬老の日は1947年に兵庫県の間谷村の村長が「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて、村作りをしよう」と、農閑期の気候の良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いたことに始まります。これが1950年からは兵庫県全体で行われるようになり、全国に広まっていきました。その後「としより」という表現は良くないという声が起こり、1964年に「老人の日」と改称され、1966年に「敬老の日」となり国民の祝日となりました。

 神さまの目からご覧になって私たち一人ひとりは掛け替えのない存在です。どんな失敗をしようとも、またどれほど大きな罪を犯そうとも、私たちは神の子であり、神さまは私たちを高価で尊いと言って下さるのです。それと同じように、どんなに年をとって昔のように動けなくなったとしても、私たちの神の子としての価値は決して下がらないのです。一人ひとりは御子イエス・キリストの十字架の贖いによって神の子とされたのですから、最も尊い存在として神さまは見て下さるのです。私たちの人生の先輩、信仰の先輩がこれからも元気で、神の子としてそれぞれに与えられた信仰の旅路を全うされることが出来るように願います。

 クリスチャンはいくつになっても若々しいとよく言われます。それはそれぞれに人生に希望を持つことが出来るからではないでしょうか。クリスチャンの人生にはある意味終わりがないからです。イエスさまは私たちに最も相応しい道を常に用意して下さるのです。20歳の者には、20歳に相応しい人生を、30歳の人間には、30歳なりの歩むべき道を、そのように神さまは私たち一人ひとりにそれぞれに進むべき道と人生を備えて下さいます。70歳になれば70歳の道を、80歳になれば80歳として進むべき人生がクリスチャンには与えられるのです。人生のそれぞれの時に応じて、神さまは私たちに歩むべき人生を備えて下さるのです。そしてその道を神さま私たちに期待をもって与えて下さるのです。人は期待されることで、自らの存在と生き方に誇りを持つことが出来ます。これがあなたたちが歩むべき道だよ、そしてその私が示すこの道をお前はしっかりと歩むことが出来るのだよ、と期待していて下さるのです。ですからクリスチャンの人生はいくつになっても可能性に満ちているのです。100歳になっても歩むべき道が備えられているのです。そのクリスチャンとしての人生は弟子の道です。私たち主イエスを救い主と信じる信仰に立つ者は、主イエス・キリストの弟子となる人生なのです。私たちの歩みは主の弟子としての歩みなのです。

 さて本日の聖書の箇所ですが、これはマタイによる福音書の結末の部分をなすテキストです。そして同時に復活の主イエスがそのお姿を現された最後の話となっています。このガリラヤでの復活の話はマルコ福音書、16章14〜20節にも記されております。今日の18節からの命令の勧告は「大宣教命令(グレートコミッション)と言い、弟子たちへのこの世への宣教命令となっています。
この前のところで「空っぽの墓」を目撃した女性たちは「ガリラヤへ行くように」(28章10節)という主イエスの言葉を11弟子たちに伝えます。そして彼らはその言葉の通り、ガリラヤに向かい、主イエスに指示された通り「山」に登っています。弟子たちにとってのガリラヤ、それは主イエスと出会った場所であり、主イエスと共に歩んだ場所でありました。そのガリラヤで彼ら弟子たちは復活の主イエスに出会い、ひれ伏した、すなわち礼拝したのです。

 しかし物語は、主イエスに会い、ひれ伏した者の中に、復活のイエスを疑う者がいたことを伝えています。しかし復活の主はその疑う心を超えてご自分の方から、その者に近寄って来られます。この主体的な関わりが弟子たちに、主イエスと共に歩んだガリラヤでの出来事を思い起こさせています。主イエスの十字架に従っていくことが出来なかった、それは主に対する不信仰でもありました。彼らは落胆し生きる目標さえ失ってしまっていたのです。そんな者の所に主イエスは疑いの心さえ抱いていた弟子たちにご自分の方から近づいて下さったのは、彼らに再び立ち上がる力を与えてくれたことだと思います。その意味ではこの大宣教命令は「弟子たちへの憐れみの告げ知らせ」でもあります。疑いを持ちながらもなお、主の命令に答える応答の中に、命が満ち溢れることを知らせてくれます。

 さてそのイエス様が弟子たちに命じられた内容は、18〜20節までです。復活の命に与り、その名前の通り宣教の働きついていくのですが、その具体的な内容は次の4つです。
1.出て行くこと 2.すべての国民をわたしの弟子にすること
3.父と子と聖霊の名によって洗礼を授けること
4.命じておかれたことを守るように教えること

 このそれぞれに重要な意味があり、私たちに託されている主の命令であります。しかしここでの中心的な命令は「すべての国民をわたしの弟子にすること」であります。どうしてそう言えるかと言いますますと、元のギリシャ語の文章を見るとわかります。日本語ではこの4つは並列してあるように記されていますが、原文のギリシャ語においては、のこりの3つはすべて動詞のかたちが分詞形という形で書かれているのに対して、「弟子にしなさい」だけが分詞形でない本来のかたちの動詞がもちいられているのです。そのことをわかりやすくするために少し誇張して訳すと「出て行くことで、父と子と聖霊の御名によって聖霊をさずことで、命じておかれたことを守ることで、すべての国民をわたしの弟子にしなさい」ということなのです。すなわち、出ていくことも、洗礼を授けることも、教えることはすべての国民を弟子にするための具体的な方策であるのです。その意味では、この大宣教命令は、弟子づくり大命令であるとも言えるのです。で今日の弟子たちに命じられたこの「弟子づくり」こそが、私たちの宣教の方策であり、かつ教会形成の基本となるものであります。イエスさまはその生涯の歩みにおいて、弟子たちを選ばれ、彼らを訓練することにその生涯を費やされました。

 一箇所聖書を開きましょう。マタイの16章13節から、新約聖書の31ページです。ここは見出しにもあるように、ペテロが16節で「あなたはメシア、生ける神の子です」とその信仰を告白を行ったところであります。このペテロの答えをイエスさまはとてもお喜びになりました。そして18節で、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃっています。21節を見ると、「このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明けられ始められた」とあります。このときからとは、ペテロが信仰告白をしたときからです。主イエスはこのペテロの信仰告白を受けて、彼ら弟子集団を教会とするために、本格的な訓練を始められたのです。

 それはこの弟子たちを、「わたしの弟子」とすること、そしてそれを教会とすることを目指されたのです。
 しかし今日の命令には慰めに満ちた約束があります。最後の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と主の言葉です。

 弟子になると聞くと、あれもこれも出来なければと思ってしまうものであります。イエスさまも12弟子たちを選び出し、直々に訓練を与えていかれました。しかしその訓練とは一言で言うならば、「恐れることはない、わたしに従って来なさい」というものです。主イエスの弟子になるとは、主の後を従っていくことであるのです。主イエスはペテロたち弟子をどのように招かれたでしょうか。主は彼らに「わたしに従ってきなさい」と言って弟子を招かれました。
 
今日は敬老感謝礼拝です。私たちの人生のそして信仰の先輩であるお一人おひとりは、主イエスの後に従って弟子として歩まれました。私たち後に続く者もその歩みに倣っていきたいと思います。お祈りをいたします。


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