皆さんお帰りなさい。本日は召天者記念礼拝です。信仰の先達の方たちと教会員のご家族のことを覚えて礼拝出来ますことを心より感謝申し上げます。こうして毎年この教会で信仰生活を送られた方たちのことを覚えて礼拝できますことは、亡くなられた方たちに対してのことでもありますが、残された私たちのためでもあることを強く思います。
日本では一般的には、死者を供養し、冥福を祈ります。しかし私たちキリスト教会は供養もしないし、冥福を祈ることもしません。冥福とは死後の幸福という意味だそうですが、私たちは亡くなられた方たちの死後の幸福を祈ることはしないのです。それは死んだ後のことはどうでも良いということではありません。そうではなくて、私たちの信仰においては、主イエスを信じて、天に召された方々の死後の幸福はもう定まっているからです。私たちが祈るかどうか、それらの方たちの幸せが決まるのではないからです。お一人おひとりは地上での歩みを終えられて、主なる神さまのもとへと召されていかれたのです。わけの分からない、どこに行き着くかはっきりしない霊界に迷い込まれたのではありません。詩編84編11節(922ページ)に「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです」というみ言葉あります。主なる神さまのもとで過ごす一日は千日にもまさる恵みなのです。召天者の方たちが召されて行かれた主なる神さまのみもととはそういった場所です。この地上では、さまざまな困難や苦しみがあり、悲しみが病があります。しかし御許に召される時、そういった全てのことから私たちは解放されて、この地上よりはるかに素晴らしい恵みに満ちた所に迎え入れられるのです。ですから私たちは、これらの召された方たちが迷わないように、地上から支援したり、その魂の幸福のために何かをする必要はないのです。しかし私たちは死者の方たちのことをどうでもよいと考えるわけではありません。私たちがこの礼拝でなすべきことは、召天者の方たちのことを覚え、お一人おひとりが地上での生活に神さまと共にどのように歩まれたか、その恵みに感謝し、神さまをほめたたえることです。そして私たちも同じように恵みをいただき、その同じ恵みによって生かされ、いつか同じ神さまの御許へと召されていくこと、そこで再会できることを願い求めることです。私たちもいずれ、地上での歩みを終える時を迎えます。その時に、私たちを御許に迎えて下さる神さまとの交わりを、今この地上でしっかりと結んでおきたいものです。その神さまとの交わりの場の一つがこの礼拝です。その意味では、召天者記念礼拝は、召天者の方々のためだけでなく、ある意味それ以上にむしろ私たちのためにあると言ってよいのです。
さて本日の聖書の箇所ですが、これは聖書の中でも最も有名なみ言葉の一つです。宗教改革者のルターは「小さな福音書」と言っています。聖書の教えが凝縮されているということでしょう。神の愛はその独り子を私たちに与えて下さるほどのものであった。そしてそれは人間が滅びるのでなく、永遠の命を与えるものであった。
「独り子を信じる者が一人も滅びないで」という言葉があります。この「滅びないで」と訳されている言葉は、別な箇所では「失われる」とも訳されています。主イエスが迷える子羊や放蕩息子のたとえなどで用いられている言葉です。ルカ15章(138ページ)です。ここには三つのたとえ話が出ております。100匹のうちの1匹の羊が勝手に迷い出てしまって羊飼いがそれを見つけ出して大喜びする話、10枚の銀貨のうち一枚が無くなったために一所懸命探して、それを見つけて喜んだ女性、そして自分の財産を寄こせとまだ生きている父親にねだって、さっさと家を飛び出して放蕩を重ねて結局、父のもとに帰って来た息子の物語であります。主イエスはこの三つのたとえ話を通して、失われた存在を見出して下さる神の愛を語っております。いずれも失われた存在になったということです。「滅びる」ということは、自分が関わりのあるもの、愛する者の手からいなくなってしまうこと、その存在が消えることであります。
独り子を信じる者が一人も失われないようにと、神のみ子がこの世に与えられました。誰が失うのでしょうか。誰から失われるのでしょうか。それは神です。神が私たちが失われるのです。私たちは神から失われるのです。神は、そのようにご自分の手もとから、私たちを失いたくはないとお思いになって、独り子をお与えになりました。なぜそのようなことをされたか。私たちが父なる神のもとから家出をしているからです。神の懐から飛び出して、神ご自身にとって既に失われた存在になってしまっているからです。そのために独り子を与えて、私たちを呼び戻して下さる。神はそのことを熱望してくださるのです。そして与えて下さるのが「永遠の命」であります。み子を信じることで永遠の命を得ることが出来ると主イエスは語るのです。ではこの永遠の命とはどんなものなのでしょうか。
一般的に永遠とは「いつまでも果てしなく続くこと」でありますから、永遠の命とは、死なずに永遠に生き続けることとなりますが、主イエスがそのような意味でおっしゃっていないことは明らかです。またここでは霊魂が永遠に不滅で、永遠に存在し続けるという霊魂不滅のことを指しているのでもありません。霊魂不滅はギリシャ思想の考え方で、人間の霊魂が神とは無関係に永遠に存続するという考えです。聖書にはそのような考え方はありません。永遠に存在し続けるのは神だけだとするからです。人間を含めたこの世界のものは全て、時間の中で時間と共に創造されましたから、人間は時間の中で存在し続ける者に過ぎず、永遠の存在ではないからです。人間もこの世界も時間と共に無くなっていく存在に過ぎません。だから人間が神とは無関係に、神から独立して永遠に生きながらえることはありません。人間は神の祝福の中にあるか、それとも裁きの中にあるか、いずれにしても神との関係の中におかれているからです。
それでは時間の中に生きる人間がどうして永遠の命を得ることが出来るのでしょうか。それはただ一人の永遠の存在である神との関係に生きるからです。永遠なる神と結び付けられ神との人格的関係にある限りにおいて、人間は永遠に存在し続けることが出来るのです。そうすると、ここでもう一つ整理しておかないといけないのが命です。聖書で言う、命とは交わりのことなのです。命の源である神との関係におかれている時に、神との交わりに生きているときに、それは命になるのです。生物体として息をすることは、生命でありますが、神との関係におかれるときに、その生命は命となるのです。その意味では命の反対の「死」とは神との断絶を意味します。
ですから永遠の命は死んだ後に与えられる命であるというより、すでに生きている間に与えられ、その命のうちに生き始めているのです。その永遠の命が完成するのは死んだ後ですが、死んで初めていただくものではなく、今この瞬間に「死から命に移され」、その命のうちに生かされているのです。それは神との生きた交わり、つまり信仰のうちに生きているということなのです。
皆さんは今、この生ける神との交わりのうちに生きておられるでしょうか。それが主イエスのおっしゃる言葉の意味です。たとえ肉体がどんなに健康であろうとも、体力がつこうとも、神との生ける人格的な関係の中に置かれていないならば、それは死んだ状態であります。
本日の巻頭言には星野富弘さんのことを書かせていただきました。星野さんは、その鉄棒での事故を通して、手足の自由を奪われました。しかしその状態の中で、生ける神との交わりを通して、永遠の命を与えられ、口に絵筆をくわえて絵を描くこと、そして詩を詠むことで、その命を使い、文字通り神からの使命に生きておられます。
本日は召天者記念礼拝です。ここに写真の並べられた方たちのこの地上での生涯はさまざまだったことでしょう。苦しみや悩みも抱えてこられたことでしょう。しかし生ける神さまとの交わりを通して、お一人おひとりが永遠の命をいただかれ、今神さまと共に過ごされています。残された私たちに期待されているのは、神さまとの交わりの中で生きることです。
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