「空っぽの信仰」  


 ローマ3章21〜26節
 2006年11月12日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。先週はローマの信徒への手紙3章から、イエス・キリストを通して、神の義が現されたことを見ました。それは行ないによるのでなく、信じることによって一方的に与えられるものでありました。今日のガラテヤ書2章にも、16節にあるように「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」とあります。今日はそのイエス・キリストを信じる信仰について共に聖書から聞いていければと願います。

 先日読んだ本の中で、東西冷戦時代の東ドイツの教会についてのことが書かれていました。当時の東ドイツの社会主義体制は、キリスト者にとって当然住みやすいところではなかったようであります。しかしそういうところだからこそ、キリスト者であるということはどういうことであるかを問わずにおれなかったようであります。キリスト教国よりも、厳しい現実の中で生きることを余儀なくされていました。教会の礼拝に熱心に通っていて昇進が遅れたとか大学入学を拒否されたというようなことがしばしばあったそうです。しかしキリスト者であることが社会的に言って決して得なことではなく、むしろ損であるというような状況にあることは、信仰者であることを認められ、少なくともマイナスの評価を受けることのないキリスト教国よりも、信仰の内実が問われる分だけ、キリスト者として生きることを純粋に追及することが出来るとも言えます。現代の日本においても、そこまでのデメリットを被ることはなくとも、共通しているところがあると思います。しかしかえってそういうところで間違った考え方も起こってきやすくもなります。自分が教会に通うのは得になるからではない、自分はそのような理由で信じているのではないと思い、それこそは律法主義にほかなりません。そのように自分のキリスト教的な生活を自分で守ることによって、自分がキリストのものであること、神の恵みによって義とされて生きる者であることを確保し続けることが出来るかのように考えてしまうのです。そして自分と損得だけで動いて教会に来ようとしない人と区別してしまい、そこから信じていない人たちに対してさばき心や自分を誇る気持ちを持ってしまう面があるのではないでしょうか。主イエスの時代のファリサイ派の人たちが「自分はあの取税人や罪びとたちのようではないことを誇っていたのとは同じ思いがそこに起こってくるように思えるのです。ファリサイ派の人たちは、自分たちは神に最も近い者と思いながら、実は神から遥かに遠くにいることになってしまっていたのですが、それと同じことが当時の東ドイツのキリスト者やキリスト教国ではない私たち日本のキリスト者に言えるのではないかと思うのであります。言葉にすると何なのでありますが、これはとても微妙なことです。しかしその微妙なところにまで分け入って、真実に信仰に生きることはどういうことであるのか、今日はそのあたりのことをガラテヤ書を通してみ言葉に聴いていきたいと思います。

 この手紙の著者であるパウロは、今日の箇所において、あるいはガラテヤ書全体において、まさにこの点について書いているのであります。15節で「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪びとではありません」と言います。彼はイエス・キリストを信じたのですから、キリスト者であるはずなのに、このような書き方をするのはおかしいし、異邦人に対しても失礼ではないかとの感じを受けます。しかしユダヤ人の誰にとっても支えであるこの事実、自分たちは異邦人ではなく、選ばれたイスラエルの民であるということを述べて自分もそのひとりであると言いながら、彼はそのことを誇っているのではなく、そうしたことは神のみ前においてはいっさい空しいのだと言おうとしているのです。16節「けれども律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」自分が拠り所と出来るのは、ただイエス・キリストへの信仰だけだと言わんとしているのです。

 聖書は「信仰」を説きます。これは信じて仰ぐと書きます。信じて仰ぐ、これはその対象こそが重要なのです。信仰と信心とは違います。「鰯の頭も信心から」鰯の頭のようにつまらないものでも信ずる心が大切なのだということでしょうが、これと聖書の説く信仰とは異なります。信ずる心が問題となるのではなく、信ずる対象こそが大切なのです。しかし言葉の上で区別することは容易いのですが、実際その違いは分かりにくいものです。私たちが誰かを信じると言う時、その人を信じているのかそれともその人を信じている自分を信じているのか区別がつき難いものです。また、誰かを愛していると思っている時も、その人に愛されている自分を愛していたり、愛している自分を愛していると思っているに過ぎないことがあります。

 聖書が言う「信仰」は信じる私たちの側に重心があるのではなく、私たちが信じる対象にそのすべてがかかっているのです。パウロはこの16節では信仰を常に「イエス・キリストへの信仰」後半のところでは「キリストへの信仰」と繰り返しています。信仰だけがふわふわと浮いて一人歩きしているのではない、キリスト・イエスに固着しているのです。「わたしの信仰」がキリストという対象に向けられているというようなものではなく、そこには信仰の中にはキリストがおられるのです。テモテの手紙二2章11節からをご覧下さい(392ページ)。

「次の言葉は真実です。『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを拒むなら、キリストもたわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストはご自身を否むことができないからである。』

 私たちの信仰や神に対する誠実さが問題となるのではないのです。私たちの神に対しての信仰や誠実さは十分なものではありません。もしその真実さ誠実さが問題となるのであれば、常に精一杯頑張って信じていかなければならないことになります。東ドイツや日本のキリスト者や、そして聖書に登場する律法学者、ファリサイ派の人たちが頑張って頑張って信仰を全うしようとしていたことにつながります。しかしそれが問題なのではないのです。私たちの不誠実さや不十分さも全部分かった上で主イエスは十字架にかかって死んで下さったのです。そのイエスさまの信実、誠実が私たちを生かしてくださるのです。私たちが生かされるのは、私たちの信心によるのではありません。信じる私たちの側ではなく、信じる対象、私たちが信じて仰ぐ対象のキリスト・イエスにその信仰の確かさがあるのです。

 スイスのカール・バルトという神学者がおりましたが、彼は33歳の時に『ローマ書』というタイトルのローマの信徒への手紙の講解を書きましたが、その中で信仰とは「空洞、空っぽなもの」と言っています。信仰は信仰心という姿で一人歩きしない、信仰とはただイエス・キリストの信実によって満たされることを待つ空洞だと。キリスト者とは、イエス・キリストの信実によって満たされ、それによって満たされる空っぽの空間を提供する存在以外の何者でもないのです。

 本日のタイトルは「空っぽの信仰」としました。信仰とは様々な言葉で表現されると思います。また皆さんもいろいろは方から多様な説明を受けてこられたでしょうし、ご自分なりの理解もお持ちだと思います。これは何もマイナスの意味で「空っぽ」と言っているのではありません。空っぽにならなければ、そこに主イエスをお迎えすることは出来ないからです。 

19節からでパウロは「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」と述べます。私たちの頑張りや神さまに対する純粋さが問題なのではないのです。それどころかそれらの私たちの神さまに対する思いや行ないは必要ところか、かえって妨げになりかえないのであります。パウロも神さまに対する誠実さや思いでは誰にも負けないほどの人物であったと思われます。しかしパウロは復活の主イエスと出会わされることで、そのことの限界さと罪に気づかされたのであります。古い自分は死ななければならないのです。十字架のキリストと共に死ぬ必要があるのです。それまでの古い生き方を捨てなければ、主イエスさまの信実が生かされる道がないからです。そしてそこにキリストが入って来て下さり、そこに生きていてくださる、キリストが生き始めておられる。これこそが奇跡であります。その奇跡を神さまは御子イエス・キリストを通して起こして下さったのです。私たちの内側で生きておられる主イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。その主イエス・キリストにすがって委ねて歩んでまいりましょう。お祈りをします。



2006年説教ページに戻るトップページに戻る