「愛と恵みのゆえに」   


 エフェソ2章1〜10節
 2006年11月19日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。巻頭言にも記しましたが、先週は連盟の定期総会に出席させていただきました。今回は大きな紛糾しそうな議案はなかったのですが、熱い議論が戦わされました。掲示板に議決の速報版が張ってありまので、ご覧下さり、また内容についてお尋ねになりたいことがあればどうぞ私の方までお申し出下さい。

議事には直接関係ないのですが、今回は国際ミッションボランティアの佐々木和之さんが帰国されており、直接お話をお伺いすることができましたが、ご一緒にルワンダで和解と癒しの働きをされているNGOのREACH‐Reconciliation Evangelism And Christian Healing のそう主事であるフィルバート・カリサ師も来られており、講演を聞くことが出来ました。今週土曜日にルワンダの大虐殺のさまを描いた『ホテルルワンダ』を上映しますが、100日間で100万人の虐殺が行なわれたとも言われているこの国にあって、カリサ師は民族の和解と癒しのセミナーや紛争の被害者の支援や子どもたちのための平和教育や交流のためのプログラムを行なっておられます。佐々木さんもこのREACHのボランティア職員としてご奉仕されています。

たった12年前に、同じ言葉を話し長く一緒に住んでいた人たちが、あのような殺し合いをせねばならなかったのか、そのことを思うにつけ、人間の愚かさと罪がそこにはあった、いや、それはルワンダのツチとフツの人にだけ当て嵌まることではなく、私たちの中にも、一つ混乱とこじれが起こると、同じようなことをしてしまう罪があることを思わされます。カリサ師の講演でも、また三日目の朝の礼拝の奨励の時にも、そんな中にあっても、そんな罪の中にいるからこそ、今こそ、イエス・キリストの赦しと和解の手が必要とされていることを訴えられていました。今日の箇所においても人間の罪が述べられており、自分の過ちと罪のために死んだ者であり、生まれながら神の怒りを受けるべき者であることが示されています。

この3節の受けるべき“神の怒り”とは神さまの感情を示すものでないことは明らかです。これは神の怒りの対象である存在という意味であり、審きを受けるべき者ということです。私たちは肉や欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、生まれながらに神の怒りを受けるべき者なのだとここで語ります。

 1節の言葉は衝撃的です。「あなたたちは以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」のだと言うのです。この「死んでいた」というのは、肉体の死を指しているのではありません。霊的な意味での死です。しかし「病んでいた」のでも「弱っていた」のでもない、「死んでいたのだ」と言い放ちます。2節の「空中に勢力を持つ者」とはサタンの事です。当時の人々はサタンは空中を住処とし、そこから人間に攻撃や誘惑してくると信じていた。そのようにサタンの統御する働く霊の力によって、私たちは「肉の欲望のままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのだと聖書は説きます。それは霊的な死であり、神と共に歩む人生ではありません。しかも後天的に神の怒りの対象となったのではない、「生まれながら」だと言う。ロマ書3章でパウロが述べるように「義人はいない、一人もいない」のである。

 それが4節で大きく転換します。それが冒頭の「しかし」です。そんな死んでしまっている、滅ぶべきしかない者のことを憐れみをもって「この上なく愛してくださった」と述べます。この愛とは、十字架のイエス・キリストによって示された愛です。

 しかし世の中にこんなおいしい話があるでしょうか。信じがたい話ではないでしょうか。神さまの言いつけを守った者が赦される、救われるというのであれば話は分かります。しかしそれどころか、神さまの御独り子を嘲って殺してしまうような者たちが赦される。それも、あれとこれとを行なうとか、これだけは絶対にしないように守るならばというのではないのです。今日の箇所の中のどこにも、救いのための約束や条件は記されてはいません。強いて言えば、8節の「信仰によって救われました」でしょうか。しかしこれさえ、それに続く部分では、「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」と断言しています。

 20世紀のドイツの神学者であるパウル・ティリッヒは「信仰とは受容の受容である」と言っています。心を神に向けて開き、神の恵みの賜物を感謝して素直に受け入れることが信仰だと言うのです。すなわち信仰は、私たちが既に主によって受け入れられていることを受け入れることを受け入れることなのです。それは人間の行為や功績ではなく、素直で素朴な心をもって受け入れる受動的な行為です。それは「だれも誇ることがないため」です。

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