主の栄光の中

2006.2.19

メッセージ要約

前回のメセージでは神の御顔を求める事について話しました。このことを通して私たちは神 の口から出る言葉、荒野で叫ぶ声を聞き、見ることが出来るのです。私たちはまた日常生活の中に聖霊の息を求めます。聖霊に支配と導きを委ね、日常生活の中 で神の意志を理解する為、御言葉に隠されている奥義を知ろうとするのです。また神の守りを求めます。神は、神を愛し恐れる者をいつも見守って下さいます。 そして最後に神の笑顔を求めます。それはいつも私たちに道を備え神の家へ戻る私たちを心から待っておられる神の愛を思い出させるからです。

 さて今日は神の御 顔を仰ぎ彼らを包んだ神の栄光を見た3人モーセ、ヨナ、ペトロについて語りたいと思います。聖書には他にも多くの例がありますが今日はこの3人について語 ります。彼らは完全とは程遠い人々で、自信もなく恐れ怒る、私たちと変わらない人々なので、彼らの中に私たち自身を見出す事が出来ます。言い方を変えれ ば、神は必要な時に私たちをも用いて下さるのです。

 クリスチャンの最 も大きな特徴の一つは神の前に完全に覆いを取り秘密がない事であり、その人の生活は人々の鏡になるという事です。私たちは聖霊に満たされたとき変えられ神 を仰ぎ見る事によって鏡とされてゆきます。誰かが主の栄光を見た時、私たちはその人に気づきます。何故ならその人が主を映し出している事を私たちの内なる 霊が理解するからです。自分の内にある鏡が汚れたり曇ったりしないように気をつけましょう。

 私たちにとって大 切な事の一つは、私たちの生活が神に開かれたものとする為心を注ぐ事です。その他のもの、仕事衣食は横に置きましょう。ものに心を使うと神への思いが薄れ ます。神を仰ぎ見る事を第一となし生活を霊的なものとしましょう。物事は、なすがままに、人からの非難もなすに任せましょう。しかしキリストと共に神の内 に隠されている命(コロサイ33)を曇らせてはいけません。神との関係を妨げるような忙しい生活を送らないようにしま しょう。注意していないとすぐにそうなってしまいますので気をつけましょう。クリスチャン生活で最も難しいのは主の栄光を見る事に心を注ぎ続ける事です。 「これは特別の信仰、献身を意味するものであり理想である。これは牧師なら出来るが私にはとても到達できるものではない。」と考えるでしょう。しかし神は 全てのクリスチャンに望んでおられると私は信じています。この3人も以前は完全ではありませんでした。そして率直に言うなら後の彼らも同じく完全ではあり ませんでした。彼らは失敗をし、神に頼らなければならない時にも自分の力に頼るという過ちを犯し神に向かって怒りを爆発させる事もありました。しかし彼ら の人生の中で神が彼らを用いられ、その時神は彼らと共にありました。神が彼らを用いられたのは彼らの能力の故ではなく、彼らを通して神の力を示す為だった のです。

それではまずモーセ の話から始めましょう。前回のメッセージでモーセの顔が神の栄光を放っていたので回りの人々はモーセに対し顔に覆いを掛けるように頼んだという話を少しし ました。それはちょうど、神の栄光が神殿の中で覆われ隔てられていた至聖所のようでした。モーセはイスラエルの人々をエジプトから導き出し荒野を経て、約 束の地へと導いた人物です。しかし彼自身は約束の地に入る事を赦されませんでした。モーセは当時も今でも人々から尊敬されている偉大なリーダーですが、本 人は最初自分がリーダーになれるとは全く考えられませんでした。生まれ故郷へ帰り人々を導き出す自信もありませんでした。そんな資格があるとも思えず、神 に、アロンのような人物を行かせて下さいと訴えたのでした。アロンはイスラエルの人々に知られていてもラムセス王やその家族には知られてはいませんでした ので(彼がふさわしいと思ったのです)。イエスがナザレに戻った時人々は『彼は大工ヨセフの息子ではないか。』と言いました。そして兄弟の半数は彼を信じ ようとしませんでした。モーセは自分がエジプト人として、更にイスラエル人の敵である王の家族として育ちながら、今度はイスラエルの人々を自由にする為に 立ち上がるという事への恐れがありました。以前モーセは冷酷なエジプトの兵士にイスラエル人が打たれているのを見て助けようとしその兵士を殺しました。イ スラエル人が喜んでくれると思ったのですが反対に、今度は自分たちも殺すつもりかと恐れられ遠くへ逃げたのでした。モーセは神の召命に対し『私は何者で しょう。どうしてファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。』と尋ねました。神は『私は必ずあなたと共 にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民を導き出した時、あなたたちはこの山で神に仕える。』と答えられました。この山こそ主 がモーセと語られた山、モーセの顔が主の栄光を放った山、そして主が真にモーセと共にあることを示された山です。神はモーセと共にあることを示され神の臨 在はモーセと共にあることを示されたのでした。

 あなたは、自分に は特別な事は何もないし、人も自分に勝れた所などないと思っていると考えているでしょう。家族も同じ意見だと。モーセが考えた事と同じです。しかし神様 は、自分に自信がある者をお選びになりません。むしろあなたのような人を選ばれるのです。何故なら素晴らしい事がなされた時、神がなされた事を皆がわかる ためにです。

 

ヨナの場合はどうで しょう。ヨナについての色々な話を聞きますが、ヨナが素晴らしい模範と考える人はあまりいないでしょう。彼は偉大な宣教者でしたが、自分とって心地良い人 々にしか話をしていませんでした。しかし神はニネベの人々の罪を悔い改めさせる為、ヨナをニネベへ遣わせようとしました。その為主の栄光の中に彼を入れよ うとされたのです。しかしヨナはニネベの人々を憎んでいました。数年前ニネベ人はヨナの住む地を攻撃し、とてもひどい事をしたのです。ですから彼らは地獄 へ落ちるべきで、ヨナはそれを当然と考えたのです。しかし神はニネベの人々に哀れみを示したいと思われました。そこで皆さんもご存知のようにヨナは逃げる 決心したのです。神から逃げる事が可能であるというのでしょうか。ダビデは詩篇139で次のように語っています。「どこへ行けば、あなたの霊から離れる事ができよう。どこ に逃れれば御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、黄泉に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って 海の中に行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の手をもってわたしをとらえてくださる。わたしは言う。闇の中でも主はわ たしを見ておられる。夜も光が私を照らし出す。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も光も変わるところがない。」ヨナは魚の腹 の中で詩篇を引用し悔い改めの祈りをしました。(ヨナ2章を呼んで下さい。)神は再びヨナに現れニネベへ行くよう命じられヨナは従ったのです。多くの人が 見逃している素晴らしい事、それはヨナがニネベの町を歩いて回った事でした。彼の前には人々の罪がありましたが、彼の後ろには人々の悔い改めが起こったの です。想像してみて下さい。ラスベガスの町を誰かが歩いてヨナが語った事を語る。町は悔い改め、カジノは閉まり、娼婦も客も、ギャンブラーも泥棒もいなく なる。これはニネベで起こった事です。神はソドムやゴモラをこれ以上望まれません。哀れみを示したいのです。神はヨナだけを遣わしたのでしょうか。そうで はないと思います。皆さんも同感して下さると思います。ヨナは神の栄光が町に入る為の乗り物にすぎませんでした。今日私 たちにも出来ることです。学校に、ショッピングセンターに街に(主の)栄光と力によって(主の栄光の)光が照らされるのです。このことが実現する唯一の方 法は主の栄光によってだと信じます。ヨナではなく主の栄光だったのです。ヨナは完全ではありませんでした。しかしヨナは主の言葉に従うのを躊躇した事を悔 い改めたのです。あなたが誰かに対し怒り、嫌悪を持っているとすれば、少しの間、神の栄光の中を歩く事から自分を遠ざけていると思います。完全である必要 はありませんが悔い改め喜んで神に従いましょう。

 

最後にペトロについ てお話します。ペトロは私たちの模範ではないと思う人が多いことをご存知ですか。それは彼がイエスと共に旅をした日々に遡ります。主と共に水の上を歩く信 仰がなかったのはペトロです。魚の採り方を主に教える事が出来ると考えたのは彼でした。キリストに一番愛されている者はだれかと言い争ったのも彼でした。 主が祈っている間に眠ってしまったのも、兵士の耳を切り落としたのも彼でした。そして最悪な事はイエスを3度も否定した事です。しかしペトロはある時には 私たちの鏡となりました。キリスト教会の始まり(ペンテコステの日)に偉大な宣教をしたのは彼でした。千、万という人々を罪から解放し救いへ導いたのは真に 彼でした。主が用いたのはステェファンだと思う人達の目に鏡に映ったものはペンテコステ以前のペトロであったと思います。確かに私たちは皆ペトロを自分の 中に見ます。多くの人は彼の欠点を知っています。しかし弱いペトロを神はお見捨てにはなりませんでした。同じ様に神はあなたを見捨てられる事もありませ ん。あなたはヨナやペトロが行った間違いを犯したかもしれません。しかし神はあなたを用いたいと思われているし、また用いられてきました。ヨナが変えられ た時のように、ペトロが漁から帰った時、主はペトロに臨みました。主は3度「私を愛するか」と尋ねました。ペトロは「主よ愛します。」と応えたのでした。 聖霊が弟子に臨んだ時彼らは皆、主の栄光を放ちました。その中でもペトロは特にそうでした。何故なら、彼は赦され、主への愛は主の栄光を更に放ったので す。以前のペトロは肉によって働いていましたが、今は神の栄光の中を歩くようになったのです。そして人々は彼の影が病人の上にかかれば癒されると信じて彼 の前に病人を置きました。その影は人の影ではありません。ペトロは主の栄光の中を歩いていましたが、その神の栄光だったのです。影は光によってのみ作られ ます。つまりペトロが光のうちを歩くことにより影が出来たのです。ペトロの前には望みはありませんでしたが彼の前には望みがありました。彼の前には病があ りましたが彼の後には平和がありました。

 キリストの死によ り神殿の幕は真二つに裂け覆いは取り除かれました。そして、へりくだり神を信じ求める全ての者に聖霊が与えられるようになったのです。完全な聖者でなくて も神に従い神の国を求める時、素晴らしいことが起こるのです。コリントUにあるように顔に覆いをして神の栄光を映している私たちは皆、永遠に輝きを増し続 ける主の栄光と同じ姿に変えられてゆくのです。私たちはそれぞれ聖霊為の場所を持ち聖霊に満たされなければなりません。そこで聖霊が光を放ち私たちが影響 を受けてゆくのです。教会は神の体だけではないと私は信じます。それだけではなく聖霊の家です。聖霊を宿している全ての者は教会の中にいます。信じなけれ ば教会の建物の中にいますが教会の中にはいないのです。私たちは栄光が放たれ、中に入る者全てが救われ癒される御霊の教会を立て上げて行かなければなりま せん。これが主の栄光なのです。

 あなたはこの世を 映し出していますか、それとも神の栄光を映し出していますか。あなたの周りに怒りを放っていますか。衝突を放っていますか。または肝要のなさを放っていま すか。それとも神から来る信仰、希望、愛を放っていますか。あなたは変えられましたか。あなたは神の力が現れるために自分では何もせず神が全てをして下さ るように喜んで委ねますか。そうであるなら神は主の臨在があなたと共にあるようにして下さり神の愛()があなたの周りの全ての人に放たれる主の栄光の中を歩くようになるでしょう。