英語礼拝 7月2

Will You Take This Man?

 Speaker: M. Noorhoff           

哀歌2:10−17   マタイ 25:1−13

 

前回は、この世と私たち自身の妄 想について話をしました。欲望がどれほどのものか、それがどう酷使するのか、ということなど。そして、私たちは生活の中で優先順位をつけ、何を第一とする のかについて話しました。他の人との関係と神との関係について討論し、良きサマリア人のたとえでイエスが尋ねられた「わたしの隣人とはだれでしょう」の問 いを尋ねた。しかし、すべてにまさり、私たちは自分たち自身をまた、生活の中で正しい場所に戻そうとしなければならない。そうすることにより、イエスが私 たちに思い起こさせてくれる全ての中で最も偉大な目的である−愛をなすことできるのである。この愛という点において、すべての法は焼き捨てられる。

愛 “あなたの心、魂、思い、身体全てで神を愛し、あなた自身のように隣り人を愛しなさい。このメッセージは、私たちが聞くことに留まらず、生活の中に建てあ げる必要がある。私たちは私たちの愛によってクリスチャンであることを知ってもらうべきである。聖書は語る。愛が最も偉大な目的であり、その他のものはそ れには劣る、と述べる。

今話している愛は、もちろん真実 の愛のことであり、感情的なものではなく、聖書の中に、神の愛の中に基をもつ愛である。だから、神の愛を学ぶ第一のステップとしては、神の言葉を心に書き つけることです。

イエスがこう言われた言葉を思い 出します。

というのは、私が空腹だった時、 あなたは私に食べ物を与えてくれた。私がのどが渇いていたときに、飲み物をくれた。私が道に迷った時、私を招き入れてくれた。衣服が必要だったとき、服を 着せてくれた。病に倒れたとき、世話をしてくれ、牢屋に入れられた時には訪問してくれた。

私たちは、イエスご自身を見るよ うに、他の人と出会い、彼らの最も小さいものへの私たちの愛は、イエスご自身への私たちの愛を表している。

今週は、長い間触れなかった愛に ついて語ろうと思う。

前回の宣教の後まもなく、ある簡 単な、しかし答えるには複雑な質問を受けた。少し考える必要があった。今日は、私がそれにどう答えたかを話し、そこから広げていきたい。同時に、同じ質問 をあなたに投げかけた。その質問とは、「キリスト教とはどんなものですか?」というものだった。

新約の教会で、クリスチャンとい う名前は使われていなかった。むしろ現在クリスチャンとよぶのは、道を従うもの、イエスに従う者、弟子という呼び名で言われる。キリスト教は道として知ら れている。

私は、その質問の背後に何を聞か れているのかを考えなければならなかった。そして、キリスト教は多くのすべきこと・してはならぬことなどの道徳的規則の教えであったようだ。そして、この ように世界もまたキリスト教を見ており、キリスト教会自体もまたそのような考えであるところもある。

それは私たちが伝えようとするイ メージなのだろうか?ニュースやマスメディアは、これやあれに対立するものとして、わたしたちを描写する。時に、難しく許しがたいものだが、クリスチャン やキリスト教はそれ自身の道徳や道徳への私見を他人に押し付けようとすると人々が不平を言うのを聞くことがある。さまざまな点でわたしも彼らに全く同意す る。この事は悲しいことであるが。

ここで、1つ、2つ大事な点を付 け加えよう。わたしは、イエス・キリストを信じる。聖書の一字一句を神事、神の支配を信じる。聖書を言葉どおり理解し、旧約・新約のすべての神の法も愛す る。十戒が正しく、平和な世界の訪れのためには必要なものだと信じる。

しかし、十戒に従うためには、第 1に書かれているものを第1にすべきてあり、どれでも適当な順番に読むものではない。イエスの言葉において、第1戒には、あなたの心と、思い、魂、身体を 尽くして主なる神を愛せよ、とある。わたしの他に、何者をも神としてはならない、と。

もし、このことを大事にしなけれ ば、他の戒めをどうして大事にできるだろう。

もう一度十戒を見てみよう。“わ たしは、主でありあなたの神であり、奴隷の地であるエジプトからあなたを導き出したもの。”ヘブル語の文法形式から、ここで本当に語られていることは、わ たしがあなたを救い出したから、あなたへの私の愛が分かるから、という理由が、私たちが神の言うことに聞かなければならないと強いられる必要があるのだろ うか。

これから語る話は、何度かしたこ とがあるが、よくわかる話なので今一度聞いてみよう。

昔、ある若い女性が両親の勧めに よりある男と結婚することになった。彼女は、両親に従うべきだという思いがあり、彼と結婚した。はじめはうまくいっていたが、夫はだんだんと要求が強くな り、毎日彼女にすべき仕事のリストを渡すようになった。彼女は、床を磨き、掃除をし、洗い上げた。彼女は、家事を義務に感じしていたが、夫が帰宅するまで に終わることはできなかった。すると、夫は怒り彼女を殴るのだった。毎日の家事は重くなり、夫の怒りも増すばかりだった。男は、妻より年上で、数年後亡く なった。若い女だった妻は、かつてとても美しい娘であったのに、今では、ひどく、いつも落ち込んで見えた。ある日、若い男が彼女が、以前どれほど美しい娘 であったか覚えていて、彼女をずっと愛していたので、彼女の外見にかかわらず、彼女に接近してきた。彼は、彼女に求愛したが、彼女は約束を恐れていた。し かし、数年後、彼はついに彼女を勝ち取り、彼女は彼の愛と忍耐のゆえに彼に熱烈に恋をした。二人は結婚し、毎日、彼は、彼女に“いってきます”のキスを し、仕事に行き、彼女は家事をこなした。彼女は、最初の夫に対してしていたすべての家事を、今では楽しくしていた。そして、余暇ができるほど早く終えるこ とができ、義務ではなく愛から家事をしていた。

 キ リストがどれほど私たちを愛し、忍耐強くいてくださり、私たちに求愛しているかが分かったとき、彼に、すっかり恋するようになり、私たちに彼が望むあらゆ ることを喜んでするようになるだろう。

これが、この譬えの真実を語って いると分かってもらいたいことである。クリスチャンであるということは、本質的に、“わたしの愛を実行する”ということである。

聖書は、はっきりと、私たち、彼 の民であり、教会である私たちを、花嫁と述べている。花婿が待ち、迎えに来ると、花嫁を、彼の父の家の用意された部屋に連れていく。

あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教 えを守っているのは、立派だと思います。(第1コリント11・2)

わたしは、あなたを一人の夫、キ リストと結ぼう。そして、あなたを彼への純粋な処女として渡すであろう。

このことをもっと理解するため に、イエスの時代のユダヤ社会の結婚儀式について見てみよう。というのは、現代とは多くの点で異なっているから。本質的に、ユダヤ今日の結婚は、ふたつの 部分に分かれている。婚約と実際の結婚である。しかし、婚約した後は、結婚したようなもので、婚約をやめるということは、離婚すると同じようなものであっ た。それは、現代と同じように始まる。男が女と知り合い、気のある視線を交換すると、男が女に近づき、いろんな話をして、互いを知り合うようになる。そし て、彼は、彼女に父親に会って欲しいと、彼女に家に来るように頼む。彼は、彼女を選び、彼女が受け入れるならば、彼女も彼を選ぶ。デイトなどというものは 存在しない。二人は、男の父親と座って話しをする。男が女を愛するなら、父親に彼女と結婚したいという気持ちを伝える。二人は、‘ダウリー’ と呼ばれる支払う花嫁の値段について話をする。彼はケツバ と呼ばれる結婚の契約書に正式にこれらのことを書きとめる。そこには、彼がお金を支払うと彼女は彼の妻となり、彼が、彼女に誓うこと、彼女に望むことなど が書かれる。彼女は、それを見て、その契約に同意するなら、即それは価値あるものになる。父親は、銀の杯を取り出し、その杯からワインを二人に飲ませる。 これで、二人は婚約したということになる。男は、金を支払った後、父親の家にいき、すべてを整える。そして、花嫁は家に入り、二人や正式に結婚したことに なる。そのときは、契約による結婚ではあるが。これが、ヨセフがマリアをまだ結婚する前に、婚約を破棄しようと話していた理由である。女は家に行き、結婚 のために自分の準備をする。身を清め、花婿が彼女を迎えに来る時を待つ。結婚の日(ホウパ)二人は天蓋の下に立ち、花嫁は花婿の周りを三回回り、彼らの結 婚が成立し、彼の父親の家に入る。

福音は、キリストと私たちの契約 をどのように書くのか見てみよう。

彼は、私たちを選ぶ。

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、 その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハネ15:16)

彼 は、結婚の契約書、ケツウバを提示する。神の言葉聖書と同じ

そ して、私たちが彼を選ぶなら、彼は花嫁の値段を捧げる。

マ タイ20:28には、

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たの と同じように。」

ヨ ハネ10:11

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

彼はあなたを愛するゆえ、彼の愛 は私たちが考えることのできるあらゆることを超越している。

ヨ ハネ15:13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

私たちは彼の申し出を受ける。

主の晩餐で、毎月ワインを飲む。

第1コリント11:25ま た、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」 と言われました。

彼は、愛ゆえに約束をした。この 結婚で失うものがあるならすべて払い戻される。

マタイ19:29

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を 受け継ぐ。

よくクリ スチャンになるときには、私たちは何かを失うことがある。私たちの決心を受け入れられない友達や家族も。しかし、主は、これらの痛みを喜びに変えてくださ ると約束している。

 彼 は父親の家に、部屋を準備しに行く。

ヨハネ14:2,3

わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであ ろうか行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることに なる

 イエスは、今は離れているが、花嫁を迎えに 戻ってこられ、父の家に彼女を連れて行く。彼はあなたに今も尋ねている。「私の花嫁になってくれますか?」「あなたはわたしの名前を受けますか?」、と

そして、クリスチャンとして彼が戻ってくる ときまで、約束をした人の名前を受けるということがとても大事である

聖なる町、新しいエルサレムが、神のいる天 からくだり、花嫁として夫のために美しく着飾っていく

クリスチャンは神の目的のために、キリスト とともに生きることを約束した人ではないか。彼の必要に、身も心も自分自身を捧げているか。状況がどうであっても、彼を愛し、敬い、彼を支え、二人の命の 耐えるまで、彼に貞節を誓いますか。約束しますか?

 
もしあなたが約束し、キリストをもっと知ろうと望むなら、あなたの心を愛で満たすだろう。ただこのシンプルな言葉「約束します」という言葉を言 うこと

あなた方を夫と妻と宣 言します。