新年明けましておめでとうございます。皆さんはこの新しき年の最初に、戻るべき場所に戻ってこられました。その意味で新たな思いで申し上げます。皆さんお帰りなさい。
本日の交読は、通常の詩編から離れ、列王記の上19章のみ言葉を取り上げました。代表的預言者となっていったエリヤが、どのようにして神の言葉によって立ち直って、その預言者としての戦いに赴いたかを交読しました。この時エリヤが聞いた神さまの言葉は12節にあったように、「静かにささやく声」でありました。神は風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられなかったのです。これらは人の注意を引く事象であります。しかし神はそのような現象の中にはおられなかったのです。そしてその後に静かなささやくような声がしたのです。私たちもその静かにささやくような声を聴き続けたいものであります。
それと同時に、私は次のようにも思うのであります。神さまはそのような特別な時、非日常な時にだけ来て下さるお方ではない。そういった特別な瞬間ではない、普通の日常の中にこそ、神さまは私たちに語りかけて下さるのではないかと。その静かなささやくようなみ声を、特別なとき、試練の中にあるような時だけでなく、普段の日常生活の中でも、聞き分けるものでありたく思います。
年の初めのこの日に与えられましたみ言葉はロマ書6章1〜14節です。本日の宣教のタイトル「新しい命に生きる」はその4節からとらせていただきました。新年に相応しい言葉だと思います。皆さんお一人おひとりも心新たな思いでこの新しい年を迎えられたことだと思います。しかし暦の上で新しい年となったと言って、何が新しいのか、何も変わっていないと言えばそう思えなくもありません。その中で「新しい命に生きる」とはどういうことかを共にみ言葉から聞いていきたいと思います。
このローマの信徒への手紙においてパウロは、ここ6章までで正しい者は一人もいないのだ、全ての者が罪に支配されている罪びとなのだ、そのためにキリストは十字架で死んで下さった、私たちはそのイエス・キリストを信じることによってのみ、神さまから義と認められて救われると述べてまいりました。律法によって私たちは自分に罪があることを知ることが出来る。だから5章20節で「律法が入り込んで来たのは罪が増し加わるためであり、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれるのだ」と述べました。
そのことで反論が起こったようです。それが今日の1節です。「では、どういうことになるのか。恵みがますようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」
当時もこの反論をパウロは繰り返し聞かされたに違いありません。罪が加わるとそれだけ、もっとキリストの恵みが現われるというのなら、そのキリストの恵みの中に生き続けるには、罪の中に留まり続ける方が、恵みを得るには手っ取り早いのではないかというのです。ずいぶん滑稽な問いだとも思えますが、同時に私たちの心の片隅にもこの思いは存在するようにも思えます。「どうせ赦されるのだから、ま、構わないか」と罪を犯すことに慣れっこというか、自分の中で理屈を作ってしまっていないかということです。
この「新しい命に生きる」という“生きる”と訳されているのは《歩く》という言葉です。走ったり駆けたりするのではありません。ゆっくり歩くのです。実際の毎日の生活の中では、私たちは息せき切って走ることはあまりないと思います。どうしても急がなければならない、例えば電車に乗り遅れそうになるとか、何か危険が迫って来て逃げねばならないという場面もあるかもしれません。しかしそれは生きていく中でのほんの一部のことです。大半は足を普通に前後させてそれほど早いスピードでなく、ゆっくりこつこつと歩いて生活しているのではないでしょうか。
4節にあるように、私たちはバプテスマによって、古い自分はキリストの十字架と共に葬られ、その死に与るものとなりました。そしてキリストが死者の中から復活させられたように、昨年のクリスマスに寺尾姉妹が受けられたように、私たちは新しい命に生きるためにバプテスマを受けました。バプテスマを受けた後は劇的なことがしょっちゅう起こって、その中で常に走るようなったということはないと思います。パウロはそういう中で、「新しい命に生きる」とそう言っているのです。毎日の平凡とさえ言える生活の歩みの中に「新しい命が宿っているか」と、今日のところでパウロは私たちに問うているのです。
今述べましたように、私たちは日常生活においては普通のこと、当然のこととして手足を使って生活しています。ですからこつこつと日常の生活を歩んでいくということは、手足を使って生きていくことです。私たちは自分の手足は自由に動くものだと思っています。だからほとんど無意識に手足は動いているのでしょう。自分が動かすというよりも、手足が独りでに動いていると言うべきかもしれません。何も特別な瞬間のことではない、意識してのことではない、無意識に行動している中で新しい命に生きているか。
13節ではパウロは厳しく命じています。「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また五体を義のための道具として神に献げなさい」
これは「新しい命に生きる」というのを、もっと丁寧に具体的に言い直した言葉です。ほとんど無意識のうちに動いているとも思えるその手を、足を、神さまの義のための道具として用いられるようにせよと言っているのです。
「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて聖なる生活を送りなさい」と19節では言っています。あなたたちはきよくなれ、聖なる生活をせよと。あなたの手と足はきよいか、聖なるものであるかということです。神さまの聖さを映し出す聖さに今年一年生きられるかということです。とても厳しいです。
私たちは神さまの恵みを味わうために罪の中に留まっていたいとは思わない。罪から解放されたいと思う。しかし神の義をあらわすために聖なる者となれ、あなたの手足は聖いか、とそう問われると急には答えに窮するでしょう。本音で言えば、その中間ぐらいでいたい、世の中の人のように日曜をせっかくの休みの日を自分の楽しみのために使っているのではない、時間を調整してこうして礼拝に出ている、だからそれで良いではないか、ここらあたりがちょうど私たちにはふさわしい。何も特別なキリスト者にならなくとも良い、普通のクリスチャンでよい、平凡なクリスチャンはこの中間くらいにいるものだ、くらいに考えるのが私たちの実際の気持ちなのではないかと思います。
キリスト教は厳しい修行によって悟りを得るのではないと聞いた。パウロもこのロマ書では、自らの行ないによるのではない、ただ信じるだけで義とされるのだと言っているではないか、それが急に何だ、話が違うではないか、もっと言うと、そんなこと言うのだったら、自分には出来ないから、もうクリスチャンをやめる、また教会には行かない、そんな風な思いになってしまいそうな気さえするほどです。だから、今日のようなパウロの問いは、わたしたちがもう少し信仰生活を積んで成長した時に、問うて下さい、と思いたくもなります。
パウロも、そうした私たちの不安を知らないわけではありませんでした。そのように考えてしまう私たちの弱さを理解出来ない人であったわけではありません。彼もこのことでは苦しんでいます。それがこの後の7章で語られています。今日はそのことについて詳しく触れることはしませんが、「わたしの内には、善が住んでいないことを知っている。善をなそうという意志はあるが、それを実行できない。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行なっている。わたしはなんと惨めな人間であることか」と語っています。
彼も罪に捉えられている人間の弱さを知っていた。だからこそ、その弱さから立ち直らなければならないことをこそ、パウロは願っていた。そんな誘惑に負けるような者であってはいけない、心を入れ替えて奮闘して罪と戦って勝利しなさいと叱りつけるつもりで、聖なる者となれと言っているのではないのです。しかし自分もそのことに苦しんでいると言っているのに、五体を罪に献げるのか、義に献げるのかどちらかだ、中間は無いのだと、どうして断言できたのでしょうか。
3節をご覧下さい。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエス・キリストに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」この中に一箇所、口語訳聖書には訳されていなかった言葉が入っています。それは「洗礼を受けたわたしたちが皆」とある「皆」です。これは実は元の原文のギリシャ語にはない言葉なのです。しかしこのパウロの言葉の真意を伝えるためには、この「皆」という言葉が必要だと考えられた。実際、口語訳では訳し出されてはおりませんでしたが、他の訳の聖書にはほとんどこの「皆」が加えられています。私たちはみんな洗礼を受けたでは無いですか。
これはわたしたち皆のことです。例外は無いのです。あなたがたは知らないのか、キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた者は皆、その毎日の平凡な生活の中で、手足を聖くすることが出来るのだ、生活を聖なるものとすることが出来るのだとパウロは言っているのです。ただ、私たちは、そのことを確認しても、自分自身の信仰や生活について考えてみると、まだ不安な思いが残るものであります。
それは一つ明瞭な事実があったからです。そのことから出発しているのです。それはわたしたちが洗礼を受けたのだということです。わたしたちは皆洗礼の恵みに与っているのだということです。3節では「あなたがたは知らないのですか」と言っています。あるいは11節では「このように、あなたがたも自分は罪に死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」とある。これらはいずれも自分自身をどのように認識するかということを問うている言葉です。特にこの11節の最後の「考えなさい」という新共同訳の言葉ですが、これは口語訳では「認むべきである」とされていました。どちらも間違いではないのですが、これは自分自身についてどんな判断を下しているか、認識をもっているかを問うている言葉です。他人についての判断ではない、まずあなたがたは自分についてどう考えているか、自分は義なる者なのか、罪なる者なのか、そこから始めなさいということなのです。自分を見る時に一番大事なことは、わたしは洗礼を受けた人間なのだということなのです。私たちは洗礼を受けた、それは神さまは生きておられる、ただ存在しておられるというだけではない、捕まえて下さる。過去のいっときだけのことではない、今も生きて働き、捕まえ続けていて下さる。更にそれだけではない、古い自分は洗礼の時に死んで、罪から解放されて主イエスが甦られたように私たちも新しい人間になったのだと、それがパウロがここで、4節から10節までで力説していることであります。
7節に「罪から解放されている」というところがあります。この「解放されている」という言葉は、他の箇所では「義とされている」とも訳されている言葉です。「罪から解放され、義とされている」、この二つは同じことなのです。義とは認められているけれども、完全には解き放たれてはいないということはないのです。もしそうであるならば、それはまだ義とされてはいないのです。我々は解き放たれて、罪から自由になった、だから義なる者となって、キリストに結ばれて、神に対して生きているのだ、そのように自分自身を認識しなさい、とそう私たちを励まし慰めていてくれているのです。
6節では「罪の奴隷にならない」とも言っています。私たちはすぐにこのことを忘れてしまいます。そしてまだ自分の中にうずくまっている疑いの心やいたずらに嘆き悲しむ心に身を委ねてしまって、それが自分の本音でもあるかのように思ってしまうのです。しかし神さまの側の本音はそうでは断じてない。神さまは私たちをすでに義なる者として見ていて下さっています。パウロはそこから始めようと言っているのです。その神さまの本音によって変えられて立ち上がろうというのです。もちろん戦いはあります。だから、戦いがあるから、罪の奴隷になるな、罪に身を献げるな、というパウロの今日の忠告はいつも聞き続けなければなりません。罪に従うか、義に従うかの中に立ち続けなければなりません。けれども、私たちはその戦いに勝利することが出来るのです。それはイエスさまが勝利して下さったからです。勝利して死の力に打ち克って復活して下さったからです。私たちのその洗礼を受けているのです。もう既に神のものにされ、神の子となっているからです。
一人の日本の牧師の言葉を紹介したいと思います。それは東京の日本キリスト教団の武蔵野教会の牧師を長く務められた熊野義孝という方です。熊野牧師は東京神学大学でも教えられた日本を代表する神学者の一人でもあられます。ある本の中で、次のようなことをおっしゃっています。私たちキリスト者は神学をする、神学というと何だか理論的な難しいことのように思われるかもしれない。しかしどんな難しいことを述べていても、大事なことは、その背後に、あるいはその底の処で自分の存在というものがなければならない。自分を抜きにしていくら立派なことを言っても神学は成り立たない。だからイエスさまの十字架の救いは、贖いは、現実の私たちの生活によって表わされなければならない。主イエスが私を罪から解き放って下さったということが、私の生活をもって証しされなければならないのだというのです。
これは神学者にだけ当て嵌まるものではないでしょう。牧師がどんなに偉そうに分かったように神さまのことを聖書のことをメッセージで語ったとしても、それが実際の牧師の生活の中に表れていないと、それは何の意味もないことになってしまいます。そしてそれは牧師だけではない、洗礼を受けた私たちの何気ない生活の歩みの中で証しされねばならないということであります。
そして熊野牧師は言います。
「不幸と悲しみの人生にあって、あらゆる罪過と躓きの渦中において、暗雲の雲が重々しく垂れ込める険悪な空模様のもとに、なお不断の勇気と希望を持って行く手を眺め、涙に潤う目が、恵み深い神を見上げる。遠くまで見ることを望まずして、一歩いっぽは確かである。こういう生活をして初めて神学は成り立つ」
今日の宣教は洗礼を受けた私たちという前提でお話させていただきました。この中には、まだその洗礼を受けられていない方もおられます。私たちとしては、是非洗礼を受けていただきたいと思っておりますが、今日のこの聖書に書かれていたことは、そのようなまだ洗礼を受けられていない皆さんにもあてはまることだと思います。そのような方も、既に神さまによって捕らえられているのだ、と私は信じます。大切なことは、皆さん自身が信仰の決断を持って立たれることです。そしてそこに留まるということです。そこから離れないということであります。そうしたら、私たちの手足は聖くなるのです。どんなにたどたどしい歩みであっても、神のみわざを表す者として用いられるのであります。そこに私たちの新しい年を迎えた喜びが生まれてくる泉があるのではないでしょうか。お祈りをいたします。
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