「主イエスにまなぶ」  


 マタイ11章25〜30節
 2007年1月7日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さん、お帰りなさい。2007年第一回目の主の日をこのようにご一緒に礼拝することで守れることを心より感謝申し上げます。今年は大晦日の31日が日曜日で、月曜日の元旦にも礼拝をしましたので、今日が最初の主の日の礼拝かと思わされますが今日が新年最初の主日礼拝であります。皆さんはどのようなお正月を過ごされたでしょうか。私の方はのんびりとした夫婦二人のお正月を過ごさせてもらいました。今年も共に希望と喜びのみ言葉から福音を聞いていきたいと思います。

今月のみ言葉は、ヨブ記36章22節の「まことに神は力に秀でている。神のような教師があるだろうか」です。聖書教育によると1月から3月までの3ヶ月間の主題は「教会をつくる−教会教育」です。教会教育と聞くと、教会学校を思い起こされると思いますが、教会教育を行なうのは教会学校だけではありません。私たちキリストの体なる教会に連なる者には、教会をつくる、教会を形成することが神さまから求められております。そのためには、私たち一人ひとりは教えられねばならず、それは言葉を換えて言うならば、日々訓練を受けていかねばなりません。昨年バプテスマを受けられた寺尾姉妹と共にバプテスマクラスを昨年より続けて持たせていただいておりますが、訓練を受けるのは受洗の時だけではありません。特にバプテスト教会は、信徒一人ひとりが主の前に献身者、証し人、伝道者として召されていることを信じる、会衆主義、万人祭司の立場に立っていますから、教会に召されているのは、牧師だけではありません。信徒全員で教会をつくりあげ、教会を形成していくことが求められています。そしてそこにおいて教師すべきは、主イエスであります。今月は福音書から、その主イエスの歩まれた姿、そしてその述べられた教えから共に学んでいければと思っております。

“ヤマアラシのジレンマ”というのを聞いたことがあるでしょうか。ヤマアラシは全身に鋭い棘を持っています。このヤマアラシがお互いにぬくもりを求めて寄り添おうとするとどうなるか。お互いの棘が刺し合ってとても痛い思いをすることになります。私たち人間も同じだと言います。人間とは、人の間と書きます。人間は人と人との間で、その交わりの中でしか生きていくことが出来ないものだというのです。私たち人間は完全な孤独の中では耐えられない、人と人とのぬくもりある交わりを必要としているのです。しかし私たちは一人ひとり誰もが棘を持っている。その棘が人刺し貫き痛い思いをさせていく。そういう棘を持った者同士が交わりを持とうとする、ぬくもりを求めて寄り添おうとすると、相手の棘が自分を刺し、自分の棘も相手を刺すのです。そして互いに傷を負い、痛みを覚える、そういった傷と痛みで私たちは疲れ果てます。

 また私たちはそれぞれ様々な重荷を負っています。負うべき重荷が何もないという人はおられないでしょう。一人ひとりがそれぞれ自分にしか分からない重荷を背負っているものです。それは周囲の者からすると重荷とも言えないように思えるかもしれません。しかし本人がそれを重いと感じているならば、それは重荷であります。

 そのような者に向かって主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼び掛けて下さいます。この「休ませる」というのは、仕事などから一旦離れて休む、そしてリフレッシュされて新しい気力と力を与えられて再び働きに戻っていく、そういうことを意味する言葉です。疲れや重荷の原因が全て取り除かれて身軽になって歩めるということではありません。この世を生きていく限り、私たちは疲れを覚え重荷を背負って行かねばならないのです。無くならないのです。しかしそこで休息が与えられる。それは休むことによって新しい希望が生まれてくる、そういった休息です。

 しかしそこに条件を与えられているのです。それが29節です。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」「わたしの軛を負い、わたしに学ぶ」ことが、わたしのもとにくることだと言われているのです。

 軛とは、家畜の首に嵌めて車を引かせたり、耕作のための鋤を引かせたりする道具のことです。これを負わせられた家畜は、自由には動けず、飼い主の指示する方向に、指示された時に動かなければなりません。ですから軛は不自由、束縛の象徴でもあります。旧約聖書においては、ヤハウェのイスラエルに対する支配は「くびき」と呼ばれており、特に神の支配を具体的に示すものとしての律法も「くびき」と呼ばれているほどです。また、「わたしに学びなさい」とあるここでの学ぶという言葉は、「勉強する」というよりは、「弟子になる」という意味です。ただイエス・キリストの教えを学ぶというのではなく、キリストに従ってついて行き、キリストを師匠としてその弟子になることであります。

 ではそれがどうして、「安らぎを得」たり、休息になるのでしょうか。ここで呼びかけられているのは、疲れて重荷を負っている者です。さらに新たにキリストの軛という重荷まで負わせられたのでは、もっと疲れることになるのではないでしょうか。

 世の荒波にもまれて、人間関係に疲れ果てて重荷を負っているのに、たまの休みである日曜日に教会に行かねばならないような生き方はゴメンこうむりたいというのが本音なのではないでしょうか。しかし主イエスはそれが安らぎだというのです。

 その鍵は29節の前半にあります。「わたしは柔和で謙遜だから」と主はおっしゃいます。主イエスが柔和であるということは、決して優しいとか弱々しいということではありません。キリストの柔和さとは、力による戦いという手段に訴えるのではなく、むしろ自らが苦しみを引き受けることを通して事をなしとげていくということです。つまりこの柔和さとは、うちに強靭な力を秘めた優しさです。その力が敵を傷つけ殺すために発揮されるのでなく、むしろ自らが苦しみを引き受け、敵意や悪意を受け止めることによってそれを乗り越えていくために発揮されていくのです。

 キリストの謙遜とは、単に腰が低いと言うレベルのものではありません。神の独り子であるお方が一人の人間となってこの世に生まれ罪びとと共に歩んで下さった。神がわたしたち人間のために天の栄光を捨ててこの地上に降り、わたしたちと同じ人間になって下さったということです。神さまが私たちのために徹底的にへりくだって下さったその神の謙遜の姿がイエス・キリストなのです。

 そしてこの柔和も謙遜も一つのことに集約されていきます。それはイエス・キリストの十字架です。キリストの柔和さは、手利きや悪意を受け止め、自らが苦しみを引き受けることによってそれを乗り越えていくことだと先ほど申しました。それこそが十字架にほかなりません。

 キリストはわたしたちの罪をご自分の身に背負って、わたしたちの身代わりとなって十字架で死んで下さいました。私たちの罪、それは神に逆らうことです。神さまを敬うのでなく、自分が主人王様となろうとすることです。それが神さまに対しての私たちの敵意でありますが、その敵意をキリストはご自分の身に受けて、ご自分が十字架にかかって死ぬことで、その敵意を乗り越えて下さったのです。最初に述べたヤマアラシのジレンマで言うと、その外に向かって突き出ている棘、それが私たちの罪です。隣人を突き刺そうとする、また自分自身をも傷つけるその棘を、ご自身に刺し貫かせて、私たちがお互いを突刺し合うことなく、寄り添えるように」して下ったのです。

 キリストの謙遜も同じで、罪びとである私たちが受けるべき罪の報いを主イエスが代わりに受けて下さった。神の御独り子が人間になって下さっただけでなく、罪びとの身代わりとなって死んで下さったのです。そこに主イエスの謙遜が極まっています。

 その主イエスのもとに来て、その軛を負い、弟子となることが今日の教えです。キリストの軛を負い、弟子となる時、わたしたちは人の罪によって苦しむ自分の傍らに、主イエスが共にいて下さり、共にその傷と苦しみを受けていて下さることを知らされるのです。また自分自身の罪によっていつも隣人を傷つけてします自分の傍らに主イエスが共におられ、私たちの棘を受け止め、その傷を引き受け、それによってわたしたちを赦して下さっていることを知らされます。お互いの罪の棘によって傷つけ合い、人間関係の痛みによって疲れ果てている私たちは、そのようにしてキリストの柔和と謙遜によってその傷が癒されていくのです。

 そしてキリストの軛を負う時に、主イエスが自分の重荷を共に背負って並んで歩いて下さっていることを見出すのです。ここで主がおっしゃっている軛、ユダヤ地方で用いられていた軛は、わが国のものとは少し異なり、二頭の家畜を並べてつなぎ、働かせるものだそうです。つまり私たちがキリストの軛を負うときには、主イエスが共に並んで軛を追って下さるのです。

 人間、どんなに苦しくとも、つらい労苦をこなさないといけないとしても、そこに共にいてくれる存在があれば、それは非常な力となります。たとえ、その相手がそばにいるだけで、その仕事そのものを手伝わなかったとしても、大きな仕事をやり遂げることが出来るものです。ましてや、柔和で謙遜な主イエスが共にいて、私たちの重荷を一組の軛の一方を担って下さろうというのなら、それは労苦や重荷どころか、それこそが、真の休息、安らぎとなるのではないでしょうか。

 そしてキリストの軛を負い、主イエスと共に歩んでいくことで、私たちはキリストの弟子となっていきます。今日のタイトルは、主イエスのまねぶとしました。学ぶとはまねぶことから来ています。まねぶとは、モデルである存在をまねることから学び、弟子となっていくのです。

主イエスと共に歩みましょう。そして主イエスにならうことを通して、主イエスから学び、主イエスの弟子となっていきましょう。それこそが、わたしたちが安らぎと休息を得る道なのです。



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