「自分の十字架を背負って」  


 マタイ16章21〜28節
 2007年1月28日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さん、お帰りなさい。週報でもお知らせしておりますが、ブログを始めました。ブログと言っても分かられない方もおられるかもしれませんが、端的に表現するならばインターネット上の日記です。似たものにはホームページがありますが、こちらは以前よりも作成するのが簡単になったようですが、それでも手間と時間と知識、ノーハウがいる。それに比べるならば、ブログははるかに簡単で、初歩的なパソコン操作さえ出来れば、誰でも出来ます。それこそ、30分から1時間もあれば、ブログは開設出来ます。従来の日記は、筆記具を使ってノートに記したものでしたが、それはあくまでも個人のもの、それを世の中に公開するには、本として出版しなければなりませんでした。今では自費出版と云う道はありますが、それでもお金はかかるし手間もとられる。しかしホームページやブログは自分ひとりで、世の中に、それも国内だけでなく、全世界に自分の思いや考えを発表できるのですから、インターネットは画期的なものとなりました。ブログを用いるなら、1時間もかからずにそれが出来るというのですから、大きな可能性持つものです。自己主張の場、自分の日記を世界に向かって公開できるのです。そしてこのブログを通して、広く多くの人と交流がもてるのですから、自分の世界を広げることが出来ます。しかし、その公開性ということを考えるならば、これは大きな問題、また弊害をも併せ持つものであります。他人のことを批判したり、プライバシーを暴露することも簡単だということです。それだけに慎重さをもっていかなければなりません。また、一度覗いて下さり、コメント下されば感謝です。毎日の書き込みは叶わないと思いますし、伊勢崎教会の皆さんだけを対象にしたものではありませんが、私が日頃考えていることや思い、お伝えしたいことを書いていきますので、コメントを書き込み下さればと思います。

今月は、ヨブ記36章22節の「まことに神は力に秀でている。神のような教師があるだろうか」から、その神である主イエスが私たちに教えて下さったこと、示して下さったこと、そしてそこから私たちが学ぶこと、まねぶことは、主イエスの十字架であることをお話させていただいてきました。先々週の14日は「主イエスの背を見つめて」という主題で今日と同じマタイ8章21〜28節から、私たちは主イエスの後ろから、主イエスの背中を見つめてついていくことだと示されました。私たちはすぐに自分の考えや思いを優先させて主イエスの前に出て、主イエスの歩まれる道を妨害してしまいます。そうではなく、主イエスの後に廻り、主イエスの背を見つめて歩むことが、私たちに求められていることを示されました。さて今日は、14日に突っ込んでお話出来なかった、この28節までのみ言葉の後半、特に24節の「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」についてご一緒に見てまいりたいと思います。

キリスト教はご利益宗教かと問われたら、皆さんはどうお答えになるでしょうか。確かに世の中一般で言われるようなご利益宗教とは一線を画す必要はあると思います。人間の願い事がそのままに叶えられるとは聖書は教えてはいないでしょう。しかし今日の28節では主イエスは「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」とおっしゃっています。主イエスを信じることは、私たちに大きな利益をもたらします。皆さんも今日こうしてお集まりになるのは、何か得ることを期待されてお集まりになっているのだと思います。ここでも主イエスは、全世界を手に入れるよりも、大きな利益があると言われているのです。私たちはしばしば、世界を手に入れようとして、それに遥かにまさる利益を得ることを忘れてしまうものです。そして大きな損をして、その利益を失ってしまっています。その利益とは何か。それは世界を手に入れることにも優る 自分の命を得ることであります。ここで主イエスがおっしゃっている命と訳されている言葉は、単に生き延びるというような意味での肉体の命のことではありません。魂とも訳すことの出来る言葉であり、それは私たちの存在そのものとも言えるものです。それを手に入れてこそ、本当の自分として生きられる。どんなに長生きしても、全世界を手に入れても、これを手に入れなければ何の得があるか、何の利益があるか、どうしようもないではないか、あなたは本来の自分を手に入れて生きようと思わないか、そのような問いを主イエスは私たちに投げかけておられるのです。

ペテロはそれが分かっていませんでした。彼は自分の命の大切さが分かっていなかったのです。そのため主イエスの前に立ちはだかり、主イエスの進まれる道を阻もうとしました。主イエスが、自分は長老、祭司長、律法学者たちから苦しみを受けて殺されることになっていることを告げられましたが、そのことの意味を全く理解しませんでした。そのように主イエスが殺されるのは、主イエスが命を捨てようとされるのは、人々が命を得るため、人々に与えられた命の尊さを知って、人々が本当の命を得るためでした。その十字架の意味を彼は全く分かっていなかったのです。彼の心の中にあるメシア像、それは彼の考え、彼の自己実現のために必要な存在に過ぎませんでした。私たちもそのペテロのように、神さまを利用して自分の心にある願いを実現させようとしてしまうものであります。自分をよりよく生かそうとするために、今よりも少しでも多く富を得ることや、都合の良い地位や立場を得ようとしてしまいます。

主イエスはおっしゃいます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。今日のタイトルは「自分の十字架を背負って」としました。自分の十字架を背負う、これはどういう意味なのでしょうか。私たちも、今日のペテロのように「あなたはメシア、生ける神の子です」と主イエスに告白した者たちです。皆さんの中には、まだそのような告白をまだしておられない未信者の方もおられるかと思います。一日でも早くバプテスマを受けて、そのご利益、利益を得て歩みましょう。しかし、そんなまだ信者になっておられない方も、主イエスから何かを得たい、主イエスから恵みを得たいと思って、このように集まって来られました。そして今日、主イエスから、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいと、私たちは命じられたのです。それでは、私たち一人ひとりにとって、その背負うべき十字架とは何のことなのでしょうか。それが分からないことには、自分の十字架を背負うことは出来ません。

私は、つい最近まで、自分にとっての十字架は、前の教会を辞めることの大きな原因となった、病気だと思っていました。ご存知ない方もおられますのでお話させていただくことをお許しいただきたいのですが、私は今から4年前に抑うつ状態が激しくなり、精神科の病院に入院することとなりました。私自身は、自分がうつを患うことになるとは全く思っておりませんでした。自分はそのようなタイプではないと思っていたのです。しかしストレスは恐ろしいものです。今は感謝なことですが、通院することも薬を飲むこともなく守られて過ごしております。しかしこの病気は治ったとか治っていないと言えるものではなく、ぶり返すことの多い病です。これから先も、いつ前のようになるかと、正直いつも不安を覚えております。このストレスまみれの社会においては、いつまたあのような状態になるか分かりません。確かにそれも十字架ではあるでしょう。しかし、それだけではないのではないかと思うようになったのです。主イエスの十字架を背負うこととは、そのように病気に限らず、辛く苦しいこと、頑張って忍耐しながら生きて行くことだけなのだろうかと。主イエスがここで語っておられる十字架とはそれだけなのかと。

この十字架を背負って従いなさいとの命令が、ご自分が十字架にかかられることの予告の後でなされているのですから、やはり、主イエスの十字架と切り離して考えるべきでないのは明らかでしょう。そして先々週にも述べさせていただいたように、この時のペテロに対して「サタン、引き下がれ」とおっしゃっているのは、ただ単に後に引っ込めということなのでなく、「わたしの後ろにまわれ」ということでした。自分を先に出すな、ということでした。そこで忘れてはならないのが、24節にある「自分を捨て」です。

主イエスの十字架、それは主イエスの徹底的な父なる神への従順でありました。その十字架の道を貫くことの苦しさから、あのゲツセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と父なる神にお願いされた時にも、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」とおっしゃいました。それがどんなに苦しい道であろうとも、それが父なる神のみこころであるならば、それに従われた主イエス。主イエスの十字架は、そのように神への従順の姿であります。そのことが分かっていなかったペテロは、主イエスに「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と述べました。そのペテロに「サタン」とまでおっしゃって、「私の後にまわれ」と言われたのも、彼が自分の思いと願いを優先されたからでした。

十字架を背負うこと、そこには私にとってのうつという病がそうであるように、そのこと自体に苦しみと痛みが伴うものであります。しかし、そのような苦しみと痛みそのものを担っていくことだけが十字架なのでなく、私たちが主イエスから学ぶ、まねぶことは、主イエスがみこころままにとおっしゃって、父に従順に従われたように、私たちも自分を捨てることであります。自分の願望とは異なるものであっても、また神さまに従って行くのに右にいくことが良いと思っている時に、左に行けと言われた時に、自分の考えを横において従順に左に行くこと、それが自分を捨てることです。それは自分を殺すことでもあります。

ある一人のカトリックの神父の説教を先日聞く機会があり、私はそこから非常な慰めと励まし、そしてこの自分の十字架を背負うことの一つの答えを得ることが出来ました。その中で、その神父は、この自分を殺すことがいかに困難であるかを述べておられました。この神父は人間はみんな、私原理主義者だとおっしゃっいます。原理主義と聞くと、イスラム教やキリスト教などの狂信的な人のことだけを考えてしまいますが、自分と異なる考えを排除し、自分の考え、原理を捨てきれずにいる私たちはみんな私原理主義者なのです。主イエスが生涯をかけて徹底して批判し、乗り越えて行かれたのは、まさにこの人類の私原理主義だったと言えるというのです。そして主イエスは現代に生きる私たちを含めた人間たちの原理主義に殺されたのだと述べられました。

私原理主義はとても頑固で、これを超えていくのはとても大変です。人間みんな自我を持っていますから、自分であるために、自己自身を人は絶対化しようとします。誰でも自分を守りたいし、認めてもらいたいものだから、そのことを脅かす他者は私原理以外の原理を押し付けるのですから、これと徹底的に戦い排除しようとします。以前にヤマアラシのジレンマの話をしましたが、人は一人では生きていけませんから、他者にぬくもりを求めていきます。しかしヤマアラシが他のヤマアラシにぬくもりを求めたら、その棘に傷つけられる。私たちもみんな私原理をもっていますから、それぞれの私原理がぶつかり、傷つけあうことになる。それが争いを生み、他者の命を奪うことにまで発展する。

今日の場面の長老、祭司長、律法学者たちも私原理主義者でした。その彼らが主イエスを殺しました。またペテロも私原理主義者です。自分が期待していた救い主の姿と異なる道を主イエスが語られたら、そのことが受け入れられず、あろうことか、主イエスをわきへ連れて行き、主イエスに対して注意しました。主イエスについて行くと誓った者であっても、みんな今日の主イエスの言葉にある通り、「神のことを思わず、人間のこと、それも自分のことを思う」私原理主義者です。

主イエスはそれと戦われた、そして勝利された。そしてこの私原理主義を乗り越えられたのです。それもとてもシンプルな方法で。敵を愛する、ただそれだけでした。決して争わず、何一つ弁解せず、自分を殺そうとする者のために祈りながら殺されたのです。その主イエスが死んだ瞬間に原理主義を超えた新しい時代が始まったのだと、そのカトリック神父は語られました。私たちはそれを信じることが出来る。憎しみを愛に変えて、暴力が暴力を生む罪の連鎖を断ち切り、原理主義を人類が乗り越えていける希望が示されたというのです。それが主イエスの十字架だというのです。

私たち一人ひとりの十字架、それは私原理主義から解放されることです。私原理を捨てるのです。神さまに対しても、私原理主義で抵抗してしまう私たちです。しかしその私原理を捨てて、主イエスの後を従っていく。これが私たちにとっての十字架です。狂信的私原理主義者である私たちには、それはとても困難なことです。いや私たちには出来ないでしょう。不可能でしょう。それがお出来になったのは主イエスさまだけですから。しかし敵を愛する、その敵の中には、当然私原理主義者である私たち一人ひとりも入っています。その敵の救いのために祈りながら死んで下さった主イエスに縋るしか道はありません。その逃れる道が主イエスのうちにあることを信じましょう。そして私原理主義を捨て、主イエスの背を見つめて、主イエスの後に従っていきましょう。それが自分の十字架を背負うことです。

主イエスは新たに生まれ直すことが出来ると、あのニコデモにおっしゃいました。何でもかでも、どんな時でも自分が自分がと、自分を全面に出す狂信的私原理主義者の私たち。そんな私たちのことを見捨てることなく、愛して私たちの前を主イエスは歩んで下さる。私たちが揺れ動く時にも、とことん一緒に揺れ動いて下さるお方。今日のペテロのように、主イエスに逆らってしまう時にもお見捨てにならないお方。その愛のうちに私たちを置いて下さるのです。ヤマアラシが棘に刺されている時は、その棘の中に御自ら入って来て、私たちの代わりに傷を受けて下さるのです。そして導いて下さいます。その主イエスと出会うことで、その主イエスの後から従っていくことで、私たちは変えていただけます。どんな原理主義も乗り越えて行く希望がそこにあります。お祈りします。

お祈りをします。

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