「頭なるキリストに向かって」  


 申命記26章16〜19節 エフェソ4章11〜16節
 2007年2月4日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さん、お帰りなさい。2月となりました。今月の賛美も新しくなりました。聖句も変わりました。今月もこのように、中村秀子姉妹が毛筆で書いて下さり、前に張り出さしております。礼拝の最初の招詞で司式者に読んでいただきましたが、もう一度皆さんでご一緒に唱和したいと思います。コリント信徒への手紙一4章1節です。

「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。」

 週報の巻頭言にも記しましたが、神さまは私たち一人ひとりにそれぞれの力に応じて、タラントン 賜物をお与え下さっています。そこには神さまのご計画があります。その賜物は神さまのご計画を実現させるために与えられたものであります。何故、自分にこの賜物が与えられているのか、それはその賜物を用いることで、神さまの御心がなるためです。

「天が地を高く超えているように わたしの道はあなたの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている」とはイザヤ書55章9節の言葉です。神さまの思い、御心とそのご計画は私たち人間にはその全貌を与り知ることは出来ません。そうです。それは私たちには秘められているのです。しかし神さまの御心は、神さまのご計画は私たちを滅ぼすためではありません。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)

 T ペトロ4章10〜11節をご覧下さい。433ページです。

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神さまのさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」

 そのように神さまは私たちに恵みを与えようと、一人ひとりに賜物をお与え下さっています。その恵みを十分に受け取るために、賜物を用いましょう。それがキリストの弟子としての歩みとなります。

 さて、そのスチュワードシップ月間の第一の主の日に与えられたのは、先ほど拝読いただきましたようにエフェソの信徒への手紙4章です。ここではパウロは神から招かれた者の姿を述べております。そしてその招かれた、呼び集められた者の群れなる教会が一つとされるといいます。

 この4章の1節では「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」とあります。招きにふさわしく歩みなさいと、この手紙の著者であるパウロは述べます。私たちは神によって愛される価値があるから、愛されているのではありません。愛されるに相応しい者だけが愛されているのではないのです。愛される価値もない者を愛される、それが神の愛です。その愛によって私たちは神さまの身許に来るようにと招かれています。私たちはふさわしいものでは断じてありません。しかし招きに相応しいものとして歩むかどうかが問われています。「高ぶることなく、柔和で、寛容な心をもって、愛をもって忍耐し、一致を保つように努める」。もうたじろぐしかありません。どうぞ、ご勘弁をと言いたくなります。

 しかし、神さまは、私たちが出来そうにもない者であることを承知の上で招かれているのです。相応しくないものを、招かれたのですから。しかしそれは、招いた後に、少しずつ、その招きに相応しいものとされていくお考えなのではないでしょうか。お前には出来るよ、と言って下さっているみ言葉だと思えば少しは、楽になれる気がします。個人差はあるかもしれませんが、そこにおいては私たちは、その本質において同じです。神さまは私たちが出来ないことをご存知の上で、招かれたのです。その上で、私たちに賜物を与えて下さっているのです。だからその与えられた賜物を用いて、少しずつでも、招かれたものとしてふさわしくなりなさい、とおっしゃって下さっているのですから感謝です。「あなたは出来る、あなたなら出来る、私が招かれるに相応しい者と思って招いたのだから」と言って下さっているのです。

 そのように神に招かれている者として、招かれるに相応しい者として見られていることによって、私たちは一つとなると言われています。

「体は一つ、霊は一つ、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、父なる神は唯一だ」と言います。そして6節の最後には「すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのもののうちに、主はおられます」というのです。すなわち、私たちは、父なる神を通して、父なる神につながることで、一つとされていきます。 ここで言われていることが、教会であることは明らかです。教会はエクレシア、神によって呼び集められた者の群れです。その群れが、父なる神につながることで一つとされていきます。

 人は劣等感や不安、また恐れに捉われているときは、協力しあうことは出来ません。そこには嫉妬も生まれます。劣等感や不安は素直に人に助けを求めることが出来ません。私たちは、たとえ小さな存在であっても、その存在を大切に思ってくれる方、大事にして下さるお方に出会うことで、その劣等感や不安から解放されます。主イエスは最も低くなられ、最も低いものを大事にされました。そして十字架の死の後で、高く上げられることで、天に昇られることで、全てを満たすことになられたのです。そのキリストにつながることができ、そのキリストが「大丈夫だよ、あなたなら出来る」と言って下さることで、それぞれの役割に満足し、互いに協力し合って、一致することができます。

 そのために、キリストの体なる教会には、それぞれの役割を与えられています。11節の「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師」とされています。ここでの一つひとつを今日は詳しくみることはしません。しかし、その役割には優劣はなく、どれがどれよりも重要ということはありません。それぞれに与えられた賜物を用いることで、その役割を果たしていくのです。この役割は何だか、それも特別な役割ばかりで、今の自分にはどれも当てはまらないと思われる方があるかもしれません。しかしそれも私たちの人間的な勝手な思い込みです。神さまが私たちに教会内で与えられる役割は、今挙げた五つのものだけではないかもしれません。しかし忘れてはなりません。私たちは、誰も招かれるのに、相応しいものではないのです。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ち、愛をもって互いに忍耐し、一致を保てる」者ではないのです。そんなものを招かれるに相応しい者だと認めて、賜物を与えて、用いようと言って下さるのですから、「自分なんか」とか「自分は何も出来ないから、これこれちょっとの働きだけします」と言うことは、その神さまの愛を、神さまの御心をないがろにし、神さまの恵みを受け取ることが出来ないように自分でしてしまうことになります。

12節「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」

 ここに記されているのは、一つとされた教会の姿であると同時に、私たち一人ひとりのことでもあります。誰が偉いわけでも、誰が上に立つのでもありません。みんなが大事なのです。この神の国、神の世界では、最も小さな役割を担っている、名もなき最もいと小さき者と共に、主イエスは歩んで下さいます。

 先々週は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」について語らせていただきました。私たちにとっての成長、成熟とは、本来の自分自身になることです。その神様によって造られた本来の自分を愛すること、それが成熟です。私たちは、つい見栄を張って、自分を本来の自分より大きく見せようとします。また実際以上に自分の賜物を見限ってしまうこともあります。しかし、そうすれば、本来の自分をますます嫌いになり、受け入れられなくなり、ますます自分自身をなくして、自信をなくして、劣等感や不安、恐れに捉われてしまうことになります。人にはそれぞれ良いところもあれば、悪いところもあります。いやそのような言い方よりも、強いところもあれば弱いところもあると言った方が良いでしょうか。その自分を知り、その自分をありのままで愛して下さった主イエスと共に歩むことで、私たちは自分を愛することができ、その主イエスと共に成長、成熟せていただけるのです。

14節「こうして、私たちはもはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあぞばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」

 私たちは主イエスと共に歩むことで、成長できます。成熟させていただけます。ありとあらゆる情報が氾濫し、一体何を信じたらよいのか、どれを信頼したらよいのかが分かりづらい時代です。しかし主イエスに連なることで私たちは、それらにもてあそばれることも引き回されることはありません。愛に根ざして真理を語るものとなるのです。そらそうでしょう。主イエスに連なり、主イエスのことを語るのですから、愛に根ざした真理を語る者になるのは明らかです。

 16節「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」

 主イエスに結び合われることで、成長させられた私たちは、一つとされていきます。そしてその一つとされた群れがキリストの体なる教会です。そこでは、様々な役割があり、様々な賜物が与えられた人の集合体です。しかし頭なるキリストに向かって成長する時、キリストを頭とし、その頭なるキリストに連なる時、その体は互いに補い合い、しっかり組み合わされ、結び合わされ、分に応じて働き、全体を成長させることができます。それが教会の姿です。そのように成長、成熟し、整えられていくのです。頭なるキリストに向かって、私たちも成長する群れでありたく願います。



2006年説教ページに戻るトップページに戻る