「説教は人を驚かすものではない」  


 ルカによる福音書4章16〜30節
 2007年2月11日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さん、お帰りなさい。週報の巻頭言にも記しましたように、本日は2・11信教の自由を守る日です。この日に関しましては、毎年バプテスト誌2月号では特集が組まれ、日本バプテスト連盟としてこの日の意味と大切さが説かれてきておりますので、私が繰り返しこの場で話す必要はないと思うのですが、今日はこのことに関して一点だけ述べさせていただきます。現在の政府は、憲法改定の動きを急ピッチで進めております。第9条のことが焦点になることが多いのですが、心配なのは第9条だけではありません。第9条と表裏一体の第20条をも変えようとする動きが急ピッチで進んでいます。

 第20条とは

 第一項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

 第二項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

 第三項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 日本バプテスト連盟の信仰宣言でも「信仰による良心および政教分離の

原則を主張する」と謳っております。第9条の改定は平和を脅かすものでありますが、この第20条の改定は私たちの教会としての活動を直接を脅かすものであり、本来国家が国民一人ひとりに保障すべき宗教や良心の自由を奪うものとなりかねません。つい何年か前までは、2・11集会に関しては、熱心なのは所謂社会派と言われる教会で、所謂福音派と呼ばれる教会は熱心でない、というかこの日の集会に関心を払っているようには見受けられませんでした。しかし、憲法改定の動きが活発化するにつけて、今ではそういったグループの方たち方が、熱心になってこられています。自分たちの信教の自由や政教分離の原則が踏みにじられようとしていることに危機感を抱いておられるからです。それほど、今の日本の教会を取り巻く情勢は厳しいのです。いや、今年のバプテスト誌2月号の“今月のことば”で連盟理事長の平良仁志先生が書いておられるように「信教の自由が危ない」のです。私たちは今、本当に感謝なことに、こうして毎週教会に集い、礼拝を献げる自由が与えられております。それが出来なくなる危険性があるのです。安閑としている時ではないと思います。今信教の自由が与えられていることを感謝しましょう。この自由が守られるように祈りましょう。そして先ずこの日の意味を考えて、何をするべきかを神さまに求めましょう。バプテスト誌をお読み下さい。また、高知でも、この日のための集会がキリスト教会だけでなく様々な団体によって持たれております。信教の自由、それは宗教のことだけではないでしょう。しかし本来、真っ先に立ち上がらないといけない宗教者たちよりも、所謂特定の宗教を持っていない人たちが、この活動を担って下さっていることに、私たちは感謝しなければならないと私は思います。今年が日曜日にあたったものですから、週報にも書きましたように、日本キリスト教団の高知教会で信教の自由を守る集会が行なわれます。一人でも多くの方が参加されて、共にこの日の意味と信教の自由のために立ち上がりましょう。

 さて、スチュワードシップ月間第二の主日です。先週のように今日も、今月の聖句を唱和したく思います。週報か講壇前をご覧下さい。第一コリント4章1節です。それでは、ご一緒に。

「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです」

 私たちには神さまの秘められた(それは私たちにはその全貌は分からない、知らされないが神のみこころを実現する)計画に従って、一人ひとりに賜物が与えられています。そして頭なるキリストに向かって、私たちは一つとされ、キリストのからだなる教会を造り上げていくことを先週学びました。

 その教会が最も大切にするのは、そこで行なわれることは、一つには愛し合うこと、そして礼拝を献げることです。今寺尾姉妹とバプテスマクラスで、共に学ばせていただいております。その中でバプテスト教会の歴史をこの間も取り上げましたが、バプテスト教会はよく伝道する。全世界に出て行って、福音を伝えなさい、という主の命令を忠実に実行している。これは素晴らしいことです。この高知伊勢崎教会もイマヌエル宣教師や原田牧師によって、高知での伝道が開始されて、この教会が建てられた。しかし一つ思わされることがあります。バプテスト教会は礼拝を献げているかということです。口では礼拝が大切だと言います。しかし本当に礼拝を大切にしているのだろうか。主イエスによって贖われた者として、心からの感謝込めて礼拝をしていると言えるのだろうか。礼拝することよりも伝道を優先させてきたのではないだろうか。伝道とは主イエスのことを、主イエスのみことばを伝えることです。そのためにも、私たちはみ言葉の養いを受けなければなりません。み言葉の養い、これは様々なことを通して実行されていきます。一人ひとりが日々のみことばに親しむこと、教会学校での学び、これについてはまたいつか話させていただきたく思います。そして、礼拝でのみ言葉の養いです。礼拝ではいくつかのプログラムを通して、み言葉にふれます。司式者の聖書朗読、招詞です。そして交読文、。これらはどれ一つとっても疎かに出来ない礼拝重要な要素です。そしてもう一つ、説教でのみ言葉の説き明かしです。

 先月の松浦家家庭集会でもお話したことですが、今日の箇所24節にもあるように、預言者は自分の故郷では歓迎されないものです。ここでも主イエスは人々から崖から突き落とされそうになられました。何故そうなのか、それは22節の「この人はヨセフの子ではないか」という言葉に始まりました。人々は最初から主イエスを殺そうとは思わなかったです。22節の初めのところではこう書かれています。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。」この時主イエスは、ご自分が育たれたナザレの町の会堂に入って預言者イザヤの巻物から読まれ、説教をされたのですが、人々はそのみ言葉に驚き、賞賛したのです。主イエスがなされた説教ですから、それは力強く恵みに満ちた素晴らしいものであったでしょう。しかしこの人は、あのヨセフの子ではないか、大工の家のせがれではないかと思い始めると、人々の反応は一変しました。その変化に気づかれた主イエスは、「医者よ、自分自身を治せ」という当時のことわざを引かれました。医者が主イエス、自分自身がナザレの村のことなのでしょう。あなたたちは私の奇跡のことは聞いているが、噂だけでは信じられないから、この場で実際にやって見せてくれ、そんな風に考えているのだろう、と考えられたのです。実際人々の思いはその通りであったと思います。そして「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」とおっしゃったのです。主イエスは群衆たちの願い通りには奇跡を行なわれなかっただけでなく、25節からでは、エリヤとエリシャの時代の話から、ユダヤ人にではなく、シドン地方のサレプタのやもめやシリア人ナアマンといういずれも異邦人のもとにだけ預言者が遣わされたことの例を話されました。エリヤとエリシャこれはいずれも列王記に出て来る代表的預言者で、ユダヤ民族の英雄とでも言える人たちであります。主イエスがなされたことは人々を憤慨させ、主イエスを殺そうとの思いに至らせる決定打となりました。

「ふるさとは はえまで人を さしにけり」

「故郷は 寄るも触るも茨(ばら)の花」

いずれも江戸時代の有名な俳人小林一茶の俳句です。この茨とは茨のことです。一茶にとっても、故郷は悲しい苦しい思い出しかなかったのでしょう。

「故郷は遠きにありて思うもの、そして悲しく歌うもの。よしやうらぶれて異土(異郷)の乞食(かたい‐こじき)になるとても、帰るところにあるまじや」こちらも室生犀星の有名な詩ですが、そのように古今東西、故郷というところは大切な場所でありながら、何ともほろ苦い複雑な場所であるようです。主イエスにとっても同じであった。それどころか崖から突き落とされそうになられたのです。

 マタイ福音書のこれと同じ話の箇所では「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」とあります。私たちはこの言葉をどのように受け止めているでしょうか。主イエスさまでもご自分の故郷では敬われなかったのだと、家族、友人などの近しい人への伝道に困難さを覚えるときに、自分自身を慰めるための言葉とだけ受け取ってはいないでしょうか。実際、家族への伝道は難しいです。しかしそのことを伝えるために、私たちへの慰め、励ましのためだけに、この言葉は聖書に記されているのでしょうか。そのために、主イエス命がけで人々に向かわれたのでしょうか。

 そのマタイによる福音書では、この時の人々は主イエスにつまずいたと書かれています。どうして、故郷や家族での伝道は困難なのか、また人々はつまずくのか。

 主イエスと直接出会い、主イエスから直に話を聞いたのです。現代に生きる私たちにすれば、羨ましい限りのことであり、今は信仰の確信がないが、そんな体験が出来れば信じられるのではないかと思わせられることのように考えてしまいます。しかし実際はそうではなかった。なぜか、それは、人々が主イエスのことをよく知ってしまっていたからです。いや、知っていると思い込んでいたというのが実情でしょう。

 この時の人々の反応は、マタイ福音書においては、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」と言って、主イエスにつまずきました。「確かにこの人の語る話はすごい、それは認めるし、尊敬に値すると思う、しかし私たちは彼のことをよく知っているではないか。家族のことも、彼が幼い時から知っているし、関係は深いものだ」

 実際の私たちの人間関係においてもそのことは当て嵌まるのではないでしょうか。まだお互いのことをよく知らない間は、いいのです。恋人の間はうまく言っていても、結婚するとそうはいかない。また友人同士でも、出会った当初は気が合うことから親しくなるが、接する機会が増え、まして共同で何かを行なうことにでもなれば、話は違ってきます。そうなってからが、その関係が問われ出します。親しくなることが悪いのではないのです。関係が密になれば、相手のことを良く知る必要性は増します。

既にお気づきの通り、このことは牧師と信徒との関係にも当て嵌まることです。私はこれを自己弁護、皆さんの私への思いや見る目、そういったことから身を守るために話すのではありません。そうであるならば、これは却って逆効果になるだけです。そのことは皆さんの私への思いと同様に、私自身の皆さんへの思いと接し方、牧会の心構えとなるからです。主イエスは故郷の人々を愛された、その姿にならって、牧師は信徒の方たちを愛することが日々問われているからです。

 さて、このことはここまでで止めておいて、今日の箇所に戻ります。人々は、主イエスの人間性をよく知っていると思っていた。それは全て人間イエスについてでした。彼らは実際ヨセフとマリアの子であること、彼の子ども時代から、父にならって大工となってからの働きぶりに関しても良く知っていたのでしょう。しかしその彼がどなたによって召されて、今このように伝道の働きをしているのか、そして会堂で説教をしたのか、そのことに関しては、イエスのことをよく知っているだけに曇らされてしまったのです。どなたの権威でもって、説教を語るのかに思いが至らなくなってしまっていたのです。

 主イエスの説教は、人々の賞賛を集めるだけの内容がありました。また人々を驚かせるにたるだけの力がありました。しかしそのことが説教の目的ではなかった。この時の主イエスの話が不十分だったのではなかったと思います。そうではなく、この時の問題は聞く側だけに問題がありました。ここだけは牧師の説教とは異なることです。牧師の説教は日々研鑽を積んで真剣に祈りつつ準備をしなければなりません。これは本当に厳しく大変なことです。皆さんの祈りの支えがないことにはなせるわざでは到底ありません。

 説教は人々を驚かせるためのものではありません。また人からの、ほめ言葉を得る、賞賛されるためのものでは決してありません。説教の目的それは明らかです。聞く側の人々が神さまと出会わせることです。神さまのところに人々を導くことです。説教者の語った言葉は残らなくてもよいのだと思います。それどころか、説教者の名前さえ忘れていいのです。説教は料理のようなものだと言われます。み言葉という素材を用いて料理をする。ですから、皆さんがレストランに行ってディナーをされる。そのときに誰が作ったかは二の次の問題です。大切なのは美味しかったかどうかです。これは、家族特に、夫婦間での日々の食事には少し当てはまらないのかもしれません。誰に作ってもらうかは、毎日食べさせてもらっている側には重要なことでしょうか。

 説教に関しても、だれそれ先生からこう教えられたということは、重要なことではありません。かえってそのことが神さまと私たちの関係を妨げてしまうことになってしまいます。そうではなく、説教を通して神さま教えられた、神さまからの語りかけとして聴くことが本質なのです。説教の中では、例話が大事だと言われます。例話のない私の説教は本当に食べ難い。主イエスも人々に語られるのに、たとえばなしを多用された。たとえ話を用いることで、その語られる内容を身近なこと、自分の生活の中に当てはめて聞くことが出来るからです。しかし、主イエスならいざ知らず、不十分な語り手である説教者が例話を用いると、その例話が良いものであるほど、言い換えれば印象深いものであればあるだけ、その例話のみが聞く側の記憶に残ってしまうということが往々にしてあります。では何が残ればよいのか、それは勿論、み言葉です。例話はみ言葉を食べ易くする、消化をよくするためのテクニックに過ぎません。私は第一にそれを心がけて説教をさせていただいております。ですから、お気づきのことだと思いますが、説教後の祈りの時には、黙想の後、その日語らせていただいたみ言葉を朗読するようにしております。

 さて、そのようにみ言葉の説き明かしである説教は、私たちを神さまに出会わせてくれます。説教は案内人です。導き手です。そうして導かれた方に信仰を生まらせ、そして神さまへの感謝と悔い改めへと導きます。

先週見ましたように、共に教会を建て上げていくことが私たち召されている者には、求められています。その教会の頭はキリストです。そのようにキリストを頭とするためには、み言葉に養われること必要があります。そのみ言葉の養いの重要な要素となるのが説教です。全ての説教者もそれこそ命がけで真剣に準備をし、神さまからの示しを求めております。そして今日の人々が驚きと賞賛の声を上げたけれども、主イエスにつまずいてしまわないように、神さまを見上げ、神さまへの信仰を持って、礼拝に臨むようになればと願います。



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