「霊と知恵に満ちた評判の良い人」  


 使徒言行録6章1〜7節
 2007年2月18日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さん、お帰りなさい。今週水曜日からレント(受難節)に入ります。主イエスの十字架とご受難に思いを馳せて、この時を過ごしたく思います。そのスタートとなるのが、灰の水曜日です。ですから、今年のレント、受難節は、2月21日から4月7日までとなります。日曜日は受難節として数えませんから、期間としては46日間となります。

この灰の水曜日ですが、巻頭言にも書きましたように、主イエスの受難と十字架の死を思い悔い改めの儀式として灰をかぶる儀式が行われますが、バプテスト教会で行う教会はほとんどないと思います。こういった儀式などは形式化する危険性はありますが、それらを通して、主イエスの十字架に自分自身を置くひとつのきっかけにはなると思います。私は灰の儀式に参列したことはないのですが、一度聖公会の棕櫚の主日礼拝に出席したことがあります。聖公会では、この日の礼拝の最初に、主イエスのエルサレム入場を模して、棕櫚の枝を持った牧師を先頭にして、礼拝出席者がその後に続き会堂の外から中に入り、会堂内を一周行進します。その時に、主イエスのエルサレム入城とその日から始まる受難週を実感することが出来た思いとなりました。レントは悔い改めの時です。主イエスを十字架につけたのは、他でもない私たちです。そのことを深く思ってレントを過ごせればと願います。

スチュワードシップ月間第三主日です。今月の聖句であるこの第一コリント4章1節を今月は主食にして歩みたく思います。

本日の聖句はお気づきの方もあるかと思いますが、これは私たちの教会にとっては、執事職とその選出に関してのことです。

ペンテコステの出来事以降、主イエス・キリストの弟子の数は増え、その弟子の群れの中で、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間に苦情が出始めました。話す言葉が違うだけでなく、生まれ育ちや住んでいる地域も異なることから、生活習慣等おおくの点に違いがあります。一致しているのは、主イエスをキリストと信じる点だけですから、いくらキリスト者同士とはいえ、お互いの間には緊張関係が生まれてきました。発端は「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた」ことと1節にあります。そこで12弟子たちは招集をかけ、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」といって、「霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選び、その仕事を任せよう」と提案しました。それは、12人が「祈りとみ言葉の奉仕に専念する」ためでした。これが執事職の原点であると言われています。ここから教えられることは、その7人が霊と知恵に満ちた評判の良い人であったということ、これに関しては後ほど述べますが、彼らが選ばれた理由は12弟子たちが、神の言葉をないがしろにせず、祈りとみ言葉の奉仕に専念するためであったことです。弟子集団、これが今の教会のことだと捉えて差し支えないと思いますが、それは神によって呼び集められた群れであっても、そこにも揉め事は絶えなかった。この群れは使徒言行録の5章の記述などから、土地や家も売り払って共同生活をしていた集団であったことが分かりますが、そのように共同生活を営むためには、雑多な細々とした多くのお世話などの奉仕が必要だったと思います。当初はそれらのことを、12弟子たちが行っていたのでしょうが、数が増えるにつけ、それでは手が回らなくなり、祈りとみ言葉の奉仕に専念出来ないことになったのです。祈りとみ言葉の奉仕は、使徒とも呼ばれた12弟子にしか出来ないことではなかったかもしれません。しかし、群れは、祈りとみ言葉の奉仕に専念する役の人を必要としました。そのため、食事の世話を始めとする奉仕をする人が選出されることとなったのです。

執事を指す言語はギリシャ語で“ディアコノス”と言います。この言葉は、他の聖書箇所では、「奉仕者」「僕」「召し使い」「王の側近」などと訳されています。また、この“ディアコノス”は、 “ディアコネオー”「給仕する」「仕える」「奉仕する」「世話する」「助ける」という動詞から派生したことばです。ですから、聖書は、執事の働きを、「助ける」「仕える」「世話する」する役割だと教えています。特にテモテ第一の手紙3章8節(386頁)では、この“ディアコノス”は「奉仕者」と訳されています。すなわち、教会における執事の働きの本質は、奉仕することにあることが分かります。

教会の歴史の中で“ディアコノス”は、初め使徒と伝道者を指す一般的名匠であったようです。その後、様々な変遷を経て、監督、これが今の牧師の役割に近いと言われていますが、その監督、長老のもとにあって、その補助者として、教会に仕える働きとして、執事という名前の役職が生まれてきたようです。本日の聖書箇所である使徒言行録6章1節以下には、そのものの“ディアコノス”は出てきませんが、その派生語である動詞の「世話をする」や「奉仕」という言葉があり、そこに執事の発祥を見ることが出来ます。

今日では、教派によって執事という役職には違いがあります。カトリック教会では、主教、司祭、これが神父ですが、それらに次ぐ聖職のことで、助祭と呼ばれています。聖公会、英国国教会でも聖職者の位ですが、長老派の教会では、牧師、教師、長老に次ぐ第四の役職で、信徒職のことです。

では、会衆派教会であるバプテスト教会ではどうかと云うと、歴史的には様々の変遷を辿ってはきましたが、現在では、牧師と執事を役員職として、教会の活動がなされています。長老派の教会における長老職に当たるのが、バプテスト教会における執事だと考えることも出来ますが、そうではありません。会衆派教会における長老は、会衆です。この場におられる皆さんお一人おひとりが教会活動における長老格の存在なのです。

それでは執事はと云うと、それが今日の箇所での選出された7人です。それは、食事の分配のお世話役であり、仕える役であり、奉仕役です。あるバプテストの牧師は、苦情処理係だとも言っています。これは単に雑用係だというのではありません。12弟子たちが、神の言葉をないがしろにしないために、彼らが祈りとみ言葉の奉仕に専念するための実務担当者と言えると思います。

教会の建てられている目的は何でしょうか、神さまが私たちに求められていることは何でしょうか。それは7節に書かれています。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」教会がこの世に存在する使命、それは神の言葉を告げ広めることです、弟子の数を増やすことです。現在私たちが用いている言葉で言うならば、伝道することです。それを中心的に担わされているのが牧師でしょう。牧師はそのために立てられ、そのために招聘された存在です。私は何も細々として実務をしたくないと思っているのでは全くありません。牧師の働きは伝道活動だけではなく、群れの羊のお世話、所謂牧会をすることもその大きな働きであります。そして牧会が出来ないものが、いくら外に出て行って、み言葉を広めようと動いても、それが用いられることはないでしょう。どんな美辞麗句を並べて、人々を誘っても、その言葉が力を持って人を動かすことにはならないと思います。しかし現実問題として、教会内のことに忙殺されていては、外に出ていくこともままならないことになってしまいます。そしてもし、牧師がそのような状態にあれば、教会の伝道活動は進展せず、教会が外に向かって拡大することには成りえません。また、祈りとみ言葉の奉仕に専念できないことには、良き牧会の働きをすることもままならないでしょう。み言葉を宣べ伝えるのは、町に出て行くことだけではありません。何よりも力を注ぐべきは、主の礼拝の宣教奉仕です。そのため時間を取り分けることが求められます。選集も述べましたように、そのみ言葉の説き明かしである説教を通して、私たちは養われていきます。伝道は牧師のみがなすことではありません。特に万人祭司を謳うバプテスト教会においては、全ての信徒が伝道者として召されており、その業にあたることが求められています。

今日の7人は3節にあるように、群れの中の「霊と知恵に満ちた評判の良い人」が選ばれました。彼らの中に「霊と知恵に満ちた評判の良い人」がいたのでしょうか。今私たちは正に来年度の執事を選出している時期にあります。皆さんの大半の方が、候補者となられています。その時に、このように、「霊と知恵に満ちた評判の良い人を選びなさい」と言われると、自分はそんな器ではないと思い尻込みしたくなる思いとなります。今までも述べてまいりましたように、この役割はとても大切な教会の屋台骨を支える働きです。しかし聖書では、「頭の良い人、仕事の出来る人を選びなさい」とは言っていません。ここで言う「知恵」とは単に頭が良いとか、この世の知恵に満ちていることでないことは明らかです。もう既に投票を行われた人もおられるでしょうが、皆さんはどのような基準で選ばれるでしょうか。私たちの行動の指針とすべきは聖書ですから、今日のこの「霊と知恵に満ちた評判の良い人」というのを基準すべきでしょう。

「評判の良い」や「知恵に満ちた」というのは何となく分かるのですが、「霊に満ちた」というのはどういうことなのでしょうか。また、人が「霊に満ちている」かどうかをどのように判断したらよいのでしょうか。この霊は聖霊のことですから、聖霊とは目に見えない神の力、働きなのですから、これは目に見えるものではありえません。ではどう判断したらよいのでしょうか。

霊の働きはさまざまな言葉で聖書にしるされていますが、共通していることが一つあります。それはイエスをキリストと告白することです。第一コリント12章3節には「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とあります。また第一ヨハネ4章2節には、445ページです。1節からお読みします。

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」

 これらからも、イエス・キリストを主と告白する人が聖霊に満ちた人ということになります。イエスをキリストと告白する人、教会員であれば一度は信仰告白をしています。その信仰告白、イエスを主であると表している人、それが霊に満ちた人のことです。それは、この世的に立派であるとか、信仰暦が長いとか、そういたことではありません。この世において優れている人が霊に満ちた執事に相応しい人とは限りません。聖霊は目に見えない神の働きですから、全ての人に与えられているものではありますが、それに満たされた人であるならば、神さまが執事の働きをするのに助けて下さらないはずがありません。聖霊の別名は助け主であると書かれていますから。

 最後に評判の良い人です。勿論、評判の悪い人が選ばれるわけがないのですが、ここまで見て来ると、その評判の基準も人間的に優れているとか、自分にとって都合が良い、優しく愛想が良いというものでないことも明らかです。

 さて、今日は執事の働きとその選出について聖書に聞きました。私たちは今来年度の執事を選ぼうとしていますが、それは人間的な判断だけでなせるものではありません。そこには祈りが必要であり、目に見えない神さまの働き、助けがあることを信じてなすべきことであります。そしてその、投票という人間の行為の中に、神さまの業がなされることを信じることも大切です。ですから、来月4日に開票されて来年度の執事は決まるのですが、それが神さまが働かれてのこと、神さまがお決めになられたという信仰がなければなりません。どうぞ、既に投票をされた方もお祈り下さい。また、まだお済でない方は、もう一度心込めてお祈りして投票下さい。お祈りします。



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