「最高法院で」  


 マタイ26章57〜68節
 2007年3月4日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さん、お帰りなさい。先週はお祈りに支えられて、今治教会の伝道礼拝に送り出していただきました。求道者の方や普段礼拝に来られていない方も数名いらして下さり、とても祝された礼拝でした。昨日今井先生からも電話をいただき、教会員の方たちも喜んで下さっているとお伝え下さいました。くれぐれも伊勢崎教会の方たちにも、よろしく伝えて下さいと言われました。ありがとうございました。

受難節第二主日です。今年はカレンダーの関係で、受難節中に本日と4月1日の二度主の晩餐の恵みに与ることが出来ます。主の晩餐は主イエスが十字架で命を献げて下さる直前に、弟子たちに十字架を心に刻み込むようにとパンとぶどう酒で最後の晩餐を行なわれたことの記念ですから、受難節に最も相応しい儀式だと言えます。どうぞ、この後の主の晩餐を主イエスの十字架に思いを馳せて、臨みましょう。

昨年のクリスマスから私が導かれている聖書の書簡は、マタイによる福音書とエフェソの信徒への手紙です。そのことからも、今年の受難節は、ご一緒にマタイの福音書での主イエスの十字架への道を辿っていければと思っております。

さて、今日の箇所は、タイトルにもしましたように、最高法院で主イエスが受けられた裁判の場面です。この最高法院ですが、サンヘドリンとも言われ、ローマ帝国支配下のユダヤにおける最高議会で、今の日本の国会にあたる機関です。最高法院と訳されていることからも分かるように、最高裁判所の機能をも併せ持っていました。構成メンバーは祭司長、長老、律法学者、ファリサイ派たちで、定員は70人で、これに議長を務める大祭司を加えると71人で構成されておりました。

今日の箇所の前のところで、主イエスはユダの手引きによってやって来た祭司長たちや長老たちの遣わした群衆たちによって捕らえられました。そして今日の57節ですが、この最高法院の議長でもあった大祭司カイアファ(カヤパ)のところに連れて来られました。59節の言葉からも、この裁判は最初から下すべき判決を、議員たちは決めていたようであります。全員が主イエスを死刑にしようとしていたのです。「イエスにとって不利な偽証を求めた」のです。「偽証を求めた」という言葉の意味することは、ウソでも何でも良いから、ともかく証言を求めたということでしょう。この裁判は正当なものではなかったと言えます。

この裁判の行なわれたのは、どうやら真夜中であったようです。カトリックの作家の犬養道子さんの「新約聖書物語」には次のような件があります。

「福音書ははっきりと、晩餐が木曜日の夕刻に始まり、ユダが食卓を去った時刻を『もう夜だった』と書いている。夜とはすなわち、暗くなった時刻のことで、四月のエルサレムを考えてみれば、それは八時前ではない。それから11人への長い訓話があり、司祭的祈りがあり、ゆっくりとしたリズムで歌われる詩編が入った。それは優に一時間であったろう。ゲッセマネへは下り道ゆえ15分か。そこでの苦渋にみちた祈りを一時間として、11時15分。捕り物が15分。城内に戻るのはのぼり道ゆえに40分。城内を突っ切るのに10分。つまり、最初の訊問は11時過ぎであったと考えて良い。次に証人が来る。一人ひとりがしゃべる。何人が出廷したのか、福音書は記さない。しかし、『寒くなる』のは夜半過ぎであるから、カイアファが衣服を裂いたのは、早くて金曜日の午前1時ごろであったろう」

この通りではなくとも、真夜中であることは間違いないのですから、深夜にこのような裁判が行なわれたこと自体が異例です。彼らは夜明けまで待てなかったのです。何故でしょうか。それは翌日の土曜日は安息日であったからだと思われます。安息日にはどんな仕事も休まなければなりません。ですから、彼らはとても焦っていたのです。ユダヤの一日は夕方の6時に始まりますから、安息日へと日付が変わるまでには、20時間弱しかありません。その間にやらないといけないことはたくさんあります。最高法院で死刑を宣告しても、刑の執行は出来ません。当時はローマ帝国の支配下にあり、死刑を執行する権限はユダヤ人にはなかったのです。ローマ帝国の裁判に訴えを持っていかなければなりませんでした。それが27章に記されている総督のポンテオ・ピラトの尋問です。そして死刑執行が認められ、安息日前にイエスを処刑してしまいたかったのです。

安息日が終わって週の最初の日曜日まで一日中断させて続きをやればよいのですし、この時でないと自分たちの望み通りの判決が出せなくなる事態になるとも思えません。真夜中ですから、彼らも疲れて眠気もあったかもしれないのに、そんな真夜中になぜ事を処理しようとしたのか。

それは、彼らの主イエスに対する憎しみの大きさによります。彼らは一日が待てなかった。一瞬でも早くこの忌々しい男を処刑してしまいたかった。彼らも国の指導者ですから、普段はそんなに非常識な人たちではなかったでしょうに、ここでは全く度を失っています。ウソでもなんでもいいから、証言をさせて、死刑の判決を下したかった。最高法院のメンバーたちは、一日が待てないほどに、激しく主イエスを憎んだのです。彼らをそこまで憎ませたのは、何だったのか、私はそれは恐れだろうと思います。この男を生かしておくことは、自分の立場、地位、そして存在が脅かされることを恐れたのです。その恐れが、彼らを憎しみへと駆り立てていったのです。人は自分を脅かす存在、恐れさせる存在を抹消しようとします。そしてそのために憎しみの感情を燃え立たせることとなるのです。この恐れについては、次週詳しく語らせていただきます。

60節には偽証人が何人も現われたとあります。みんなが主イエスに不利な証言を並べ立てたのでしょうが、どうも決定的な証拠とは成りえませんでした。ユダヤの裁判では、二人以上が同じことを証言しなければ、証拠として取上げることは出来ないのです。その中で最後に二人の証人が一致した証言をしました。それが61節の「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」です。

神殿というのは、ユダヤの宗教の象徴的建物です。大祭司はもちろんのこと、最高法院の議員たちは皆、神殿との密接な関係をもって生きています。地位も名誉も権威もみな、神殿が与えてくれると信じていました。主イエスはそれをぶち壊して、別な神殿を建てて見せる、それもたった、三日で出来ると言ったのです。これが彼らを怒らせました。神殿は本来神さまのもののはずです。それならば、神さまがこれを壊そうが建てようが一向に構わないことです。もしそれが許せないとしたら、理由は明らかです。神殿を自分たちの自由になるものとしてしまっているからでありましょう。

「そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。』イエスは黙り続けておられた。」

主イエスは何もおっしゃいませんでした。それは「言ったところで、ちゃんと聞いてはくれない」というような消極的な理由だったのではありません。どんなに不利なことを述べられようとも、すべてを神に委ねて受け入れるおつもりであったからです。それゆえ沈黙を守り続けられたのです。これも十字架の道の一つです。主の十字架とは、自分の歩みの道筋を全て神に委ねることです。どうなろうとも一切自分で道を切り開かず、すべてをお任せする。一切言い訳もせずにただ黙っていること。これほど力強い信仰があるでしょうか。私たちもその姿にならう者となるときに、主イエスに連なる者とされていきます。

「大祭司は言った。『生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。』イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです。しかしわたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る』」

大祭司は業を煮やして「お前は神の子か」と問い詰めました。その時主イエスはようやく口を開かれました。主イエスはここで「神の子だ」とお認めになっているのでしょうか。それとも、否定されているのでしょうか。「それはあなたの言ったことだ」という言い方からは、決して大祭司の言うことを認めているわけではないと思います。けれども、人の子が・・・という部分は、お認めになっているようにも思えます。

この「人の子」とは、主イエスご自身のことです。そして「天の雲にのって来る」というのは、ダニエル書7章13〜14節(1393頁)に出てくるメシアのことを指しておると思われます。そこからも、主イエスはご自分がメシアであることはお認めになっている。しかし大祭司が頭に描いているメシア像をはるかに越える意味において、「わたしは神の子、メシアである」と言われているのです。

主イエスこそ、本当の意味での神の子、メシアです。しかしそれは、病気を治してくれる、貧しさから解放してくれる、そういったことが主イエスがメシアであることの根拠ではありません。勿論、主イエスはそのようなみ業もわたしたちに与えてはくださいますが、重要なことは、主が約束して下さる救いとは、天における救いなのです。

と言っても、この世の救いを約束されていないのではありません。主イエスは天で神の右に座し、雲に乗って私たちの所に来るといわれているのです。つまり天の祝福をこの地上にもたらすということです。天の豊かさ、天における名誉、そして天の愛を世にある私たちに与えると約束して下さっているのです。

あの山上の説教での「幸いなるかな」の教えを思い出しましょう。6頁のマタイ5章3〜12節です。ここでは「心の貧しい」「悲しむ」「義のために迫害される」そういった、この世的には、報われていないかのような人が天の国の尺度では、幸いなのだ、と約束して下さっています。

この世ではたとえ貧しくとも天の豊かさをもって生きることが出来る。この世では汚名を着せられても、天における名誉をもって誇り高く生きることが出来る。この世で憎まれても、天からの愛を豊かに受けて生きることが出来る。

パウロもこのような天の祝福をもって生きることを次のように述べています。「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(第二コリント6章8〜10節)。このような不思議なる人生、天の祝福に溢れた人生をお与え下さるメシア、それが主イエスなのです。

しかし、この言葉が主イエスを十字架につけることを決定付けるものとなりました。大祭司は衣を裂いて「神を冒涜した。これでまだ証人が必要だろうか」と言い、人々も「死刑にすべきだ」と答えました。

「そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と言った。」

この時のイエスさまの姿は哀れです。人々に天の祝福を与えることを約束し、実際にそれを与えたメシアとしての歩みが報われることなく、人々から見捨てられた姿です。しかし、神の子メシアをこのように扱っている人々はもっと哀れです。あの映画パッションにおいて、イエスを罵る群衆や鞭打つローマ兵の顔は輝いてはいません。いかにも勝ち誇ったような顔をしていましたが、主イエスがおっしゃる「幸いなるかな」の顔ではありません。どちらが真の哀れなのか。

わたしたちも哀れな人間であります。しかし、神を知らず、神を冒涜するような傲慢に陥っている哀れと、そのような者の罪を赦すために黙ってその罵倒に耐え忍ぶ哀れ。同じ哀れならば、主の持ち給う哀れを身にまといたいと思います。主イエスが約束された天の祝福を信じ委ねるものでありたいと願います。お祈りをします。


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