「恐れるな!」  


 マタイ10章26〜31節
 2007年3月11日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



「愛の反対語は憎しみではない。憎しみは屈折した愛だからだ。憎しみすら感じない無関心こそ愛の反対語だという考え方もある。しかし、それでは関心があれば愛が働くかというと、そうとも限らない。愛の対極にあって、愛の働きを封じる力、それは恐れだ。恐れこそ、自らを闇へ封じ込め、人と人を限りなく隔ててしまう、愛の完全な反対語だ。恐れは誤解を生み、猜疑心を育て、時に人を悪魔的存在にしてしまう。かつて東西の冷戦を支配していたのは、恐れだった。東の恐れがベルリンの壁を造り、西の恐れがベトナムで戦争を始める。恐れは更なる恐れを招き、国内では相互監視システムだの秘密警察だのといった抑圧と暴力を生み出し、国外に向けては過剰な核ミサイルを配備して緊張が高まっていく。しかし、人々が自らの恐れに打ち勝ち、連帯して自由を叫んだとき、独裁は崩れ、壁が消え、それも、いともあっけなく。戦うべき敵は東でも西でもなく、自分自身の恐れだったのだ。外国の話ではない。自分の現在が知らぬ間に恐れに支配されていることに気づいているだろうか。他人を恐れて自分らしさをなくし、変革を恐れて閉じこもる日々。恐れによって生まれる過剰反応や、つまらない疑いと争いの数々。いったいぼくらは何を恐れているのだろうか。『幽霊の正体見たり枯れ尾花』という。夜道を歩いていて突然ふわりと揺れる影。思わず『出た・・・』と叫んで腰を抜かし、しかしよくよく見ると、風に揺れるすすきの穂でした、という意味だ。すすきに罪はない。人が自分で勝手に恐ろしげな幻影を作りだし、自分で勝手におびえているのだから。その恐れのために、どれほど自分を見失い、どれだけの愛を失ってきたことだろう。恐れずに人と向かい合いたい。内なる国境の鉄条網を取り払って、歩きだしたい。そうして初めて、一緒にいても遠かった人と出会えるのだ。その出会いの喜びは、さらに恐れと戦う力を与えてくれる。この世に克服できない恐れは一つもない。すべての恐れは、自分で作っているものなのだから。あなたの恐れが、あなたの孤独だ。」

 今年に入って、私が最も影響を受けているキリスト者であるカトリック高円寺教会司祭の晴佐久昌英神父の著書からの言葉であります。

 皆さん、お帰りなさい。受難節3週目の主の日の礼拝を感謝いたします。先週は最高法院において主イエスがどのような扱いを受けたかを、マタイ福音書の26章からご一緒にみました。主イエスの裁判は公平な裁判ではありませんでした。まだ人権意識の希薄な時代でありますから、裁く側の恣意、勝手によってどうとでもなる裁判は他にもあったのかもしれませんが、それにしてもこの裁判は全く公平なものだとは言えません。裁判官である大祭司も頭からきちんと調べようともしていません。ユダヤの裁判では二人が同じ証言をしなければ、証拠には出来ないということはあったとはいえ、彼らの頭を支配していたのは、いかにして主イエスを殺すかだけでしたから、判決は最初から決まったようなものでした。

 彼らは一瞬たりとも待つことは出来ない、とにかく早くイエスのことを殺してしまいたいとそれしか頭にありません。先週も見ましたように、どうもこの裁判は真夜中に行なわれたようです。一日の始まりが夕方の6時であるユダヤにおいても、通常はこんなことはしない、その点からしても、尋常ではありません。皆どうかしていると言えるほどです。とにかく彼らの頭にあるのはイエスを殺すことだけ。彼らはそれほど主イエスのことが憎かったのです。彼らをそこまで憎しみに駆り立てたのは何であったか、私はそれは恐れだと思います。この男を生かしておくことは、自分たちの地位も立場、そして存在そのものまでもが脅かされると思ったのです。それゆえ、彼らの出した結論は「イエスを殺そう」ということでした。

 人はいつも何かを恐れている。晴佐久神父もおっしゃっているように、「自分の存在が知らぬ間に恐れに支配されていることに気づ」かないほどに、私たちはあらゆることを恐れます。そしてその恐れている対象は、何と言うことはない実体のないものであったり、自分で勝手に作りだした幻影であったりもするのです。

 人間である限り、恐れと云うのは日常的につきまとう感情なようです。恐れが全く無いという人はいないだろうと言われています。しかしこの恐れは、余り感じたくない感情であります。「また、失敗しちゃうんじゃないか」「また、ふられるんじゃないか」「また、怒られるんじゃないか」と考えてしまって、疲れたり、気分が滅入ってしまったりするのではないでしょうか。さらにそんなことで済まず、恐れは誤解を生み、それが猜疑心を育て、人を悪魔的にまでしてしまうことがあるのです。

 神さまからのメッセージで、新旧約聖書を問わず最も多く記されているものの一つは「恐れるな」です。実際に私も数えたわけではないのですが、ある人に言わせると、聖書には「恐れるな」という言葉が365回出てくると言われています。それだけ人間がこの「恐れ」の感情に捉えられ、そのことに必要以上に振り回されていることの表れだと思います。

 私も、それまでは愛の反対語は無関心だと思っていました。マザー・テレサもそのように述べたことで、いろんな場で紹介されてきました。私もそのことを否定するつもりはありません。無関心な状態では相手との接点はないのですから、そこに愛が起こらないのは当然のことですが、晴佐久神父は関心を持てば愛することが出来るかというと、そうとも限らない、と言います。そして「愛の対極にあって、愛の働きを封じる力、それは恐れだ。恐れこそ、自らを闇へ封じ込め、人と人を限りなく隔ててしまう、愛の完全な反対語だ」と。

 サタンとは、人と神、そして人と人とを分断する力のことです。サタンは神と人が、人と人が結びつくことを最も恐れます。それゆえ、その関係を断ち切るために、様々な試みを行なうのです。サタンの囁きは巧妙です。人はそれにコロッとやられてしまうのです。そのサタンが用いるのが、人間を恐れに捉えることです。

 ヨハネの手紙一4章18節には次のように記されています。

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」

この恐れとは本当にやっかいです。恐れによって人はその関係が分断されてしまいます。愛は関係がつながっているところにしか生まれません。関係が遮断されていては、愛ある関係にはならないのです。その愛を封じ込めてしまう力こそが恐れなのです。人を相手を恐れている時、そこには愛は生まれません。分断の霊とも言えるサタンは、人と人とを分断するために、恐れの感情を用いるのです。

 そしてこの恐れが恐れを呼び、抑圧と暴力さえ生み出します。その時、人は防衛、守りの姿勢をとります。スポーツの世界では、攻撃は最大の防御なり、と言われます。しかし、国と国や人と人との関係においては、防御は相手への攻撃となるのです。どういうことかと言いますと、仮にAとBという二つの国があったとしましょう。この両者は基本的には友好な関係にありました。ところが、その国境線にA国が杭を打ち、そこに鉄条網を引いたとしましょう。そうすると、それはB国にとっては、不信感と恐れの感情が起こり、そのA国の行為を攻撃と捉えてしまうのです。日本の軍隊も防衛省と言います。大義名分をたてる意味であっても、攻撃省とは言わないでしょう。しかしこの防衛の姿勢は相手に不信感や疑心暗鬼な思いから恐れの感情を生み出してしまうのです。人と人が仲良くしている状態のときに、突然相手が自分に対して身構えて防御の姿勢をとったとしても、同じことです。これはされた方にしてみれば、相手への恐れとなり、その意味では防御は攻撃となるのです。

 では私たちはどうすれば人を恐れなくなるのか、それは今日のマタイの箇所で主イエスもおっしゃっているように「魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方恐れなさい」とあるように、造り主であり、絶対者である主なる神を恐れることです。どんな相手であっても、体は殺しても、魂を殺すことは出来ないのです。相手への恐れは、また新たな恐れを生み出します。恐れの連鎖を呼びます。しかし神さまに対しては恐れてよいのです。それはなぜか、神さまは私たちに恐れの報復をなさることはないからです。神さまは恐れに対して恐れを返されることはありません。神さまが私たちになさるのは、与えて下さるのは、恐れの対極にある愛です。

 被造物から見て、造り主は恐ろしいお方です。その思いを忘れてしまっては、神さまの愛は分かりません。神さまと一対一で向き合うとき、そこには馴れ合いの気持ちなどは起ころうはずがありません。そこには畏敬の念さえ起こるほどです。そしてその絶対者であり造り主なる神さまと向き合う時に、神さまが自分をどれだけ守って下さったか、愛して下さったかが分かります。魂を殺すことの出来ない相手ではなく、魂をも体をも滅ぼすことのお出来になる方をこそ恐れましょう。

 祈ります。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」


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