「誰がイエスを十字架につけたか」  


 マタイ27章11〜26節 
 2007年3月18日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔


 

皆さんお帰りなさい。受難節、レントの第四主日です。皆さんにとっての今年のレントはどんな時でしょうか。レントの中心は主イエスの十字架であり、そこでの主イエスの死であり、それから目を背けないで過ごすことがレントの過ごし方だと思います。十字架の死を見るということは、そこで担われている罪、主イエスが負って下さっている私たちの罪を見るということです。

 本日与えられました聖書の箇所は、総督ピラトの前での裁判の場面です。先々週見た最高法院での判決に続いて、このローマ総督の所でも死刑の判決が出て、主イエスの十字架刑は確定してしまいました。

 この時代の総督はローマ皇帝が直接派遣したもので、緊急の場合以外は軍事、行政、経済における権力を自由に持つ立場にありました。ピラトにはそれだけの権限があったのです。権限が在るということは、それだけの正義を行なう責任があったということでもあります。しかしこの時のピラトの姿は、正しい実行力をもって正義によって支配をし、正義によって裁きをもなすべきピラトが全く無力であったことを示しています。

 裁判の最後において死刑の判決を下したのは、実質的にはピラトではありませんでした。彼は強いられただけであります。彼にはここの捕らわれ人を殺す権限さえないあり様を呈しています。その権限を民衆に奪われてしまっているとも言えます。著者のマタイは、異邦人である総督ピラトだけに主イエスを殺した責任があったのではなく、群衆の側にも大きくその罪があったのではないかということを強調したかったのではではないかとも言われています。しかしそうだからと言って、ピラトがその責任と義務を果たし得なかったということ、彼に責任はなかったのだということをマタイは正当化しようとしたのでもないと思います。この地域を支配する権限を委ねられ、正義を代表して、裁きを下さねばならなかった責任から逃れられるものではないでしょう。

 また、ピラトという男は、行政においてもとても強引な手腕を発揮した人だったことを示す、聖書以外の記録もあります。とても乱暴なほどのやり方がローマ皇帝の怒りを買って失脚したのだとも伝えられています。一方では強気だった、しかし他方では非常に弱気だった。そういう人であった。彼は、単に優柔不断なだけの政治家ではなかったようです。しかしこの時のピラトは、正義を行なうべき事に関しては全く無力な存在になってしまっています。

 18節からには、発言権さえない彼の妻の言動が記されています。他の福音書にはないマタイ独特の記述です。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました」と妻は言います。夢は、マタイ福音書においては、大切なものです。マリアが聖霊によって身ごもることをヨセフに告げたのも夢ですし、その後ヘロデの手を逃れるためにエジプトに避難するように、またユダヤに帰るように伝えたのも夢でした。夢は、神のみこころの一端を告げる道の一つだと考えられてきました。ここで神さまが夢を通して御心を告げるために用いたのは、ユダヤ人の律法学者でも祭司長たちでもなかった。ローマ人の官憲の総督の妻でありました。この裁判の場面で、「あの正しい人」と主イエスのことを呼んでいるのは、この妻だけです。彼女だけが「あの正しい人を裁くな」と言えたのです。裁きの座に着いているこのローマ総督には、主イエスの義が見えなかったのです。いや、見えていたかもしれないけれども、その義を義として裁き、決定することが出来なかったのです。

 ピラトにしてみれば、イエスと云う男は、自分を苛立たせる存在だったことと思われます。当時のユダヤ地方は政情が不安定であったし、誰もこの土地が好きで総督として着任したのではなかったでしょう。おそらくたまたまローマ皇帝からこの地に来ることの辞令を受け取ったからだろう。何とか無難にお役目をこなして、立ち去りたかったことだろう。それが、たまたま自分が総督の在任中に、イエスなどというやっかいな存在が登場した。自分は決して彼に対して悪意を持ってはいない。出来れば助けてやろうとも思ったのに、イエスに死刑の判決を下した張本人のように、今も記憶される羽目になった。彼には言い分が、それこそ百も千もあったことだろうと思います。

 総督はその着任地においては、最高の権威を持つ支配者でありました。しかし実際には、更に上にローマ皇帝という名前の最高権力者がおりました。だから、群衆が騒ぎ立てて騒動にでもなり、そのことが皇帝の耳に入れば、自分が責任を問われることとなる。彼はそのことを恐れたのであります。そのため自分の身を守ることを考えたのです。裁判の席に座っていても、その立場を守るためには、本来表すべき義をも拒否したのです。世の中で一般に語られている正義などというものは、たかだかその程度のものであります。国の指導者や政治家は、誰もが正義や平和、とよいことばかり口にします。正義のための戦いとか、正義による世界平和というようなことを繰り返す。   

 しかし、人間はそういった正義の名において、イエスを殺すのです。イエスのような存在は、イエスのように本当の神の義を表す者、イエスのように争いを止めることを求め、それぞれの自己主張、それぞれの私原理主義を批判し、人に仕えられるのでなく人に仕えることによって生きることで世界を作るべきだと徹底的に語り続ける存在は、支配者にとっては実に迷惑千万な存在でしょう。主イエスの言葉とその御業、存在そのものは、この世の正義のシステムにとっては、常に異物です。邪魔者です。それゆえ、この世は、この世の正義を守るために、イエスを殺すのであります。

 しかし、です。主イエスを十字架につけた責任は、罪はピラトにのみ帰せられるべきなのでしょうか。自分ではない、自分の外にある存在、あるいは私たちを支配しているその支配者というか政治家を批判し、糾弾することで溜飲を下げることでよしとするのでしょうか。義なる存在であり、神の義を表す存在であると知りながら、そのお方に従っていけないのは、その存在を邪魔にして抹消してしまうのは誰のことなのでしょうか。仕えることに抵抗し、仕えられることを求めるのは政治家だけなのでしょうか。自己保身に走り、自分の私原理主義を全うしようとする時に立ちはだかる存在は、他人だけなのでしょうか。自己を正当化しようとするときに、真っ向から否を叫ぶ存在を鬱陶しく思ってしまうのは一体だれなのでしょうか。

 私たちは、私原理主義に生きる限りにおいて、生きて行くいたる所に、主イエスを葬るために、抹殺するために、十字架を立てて歩くような生活をするのです。

 先ほども見たように、主イエスを十字架につけることにおいての総督ピラトに責任はないとは言えないでしょう。しかし主イエスに死刑の宣告を最終的に下したのは、総督ではなく、群衆であります。総督は群衆を恐れたのです。15節からのところには、総督は祭り、この時は過ぎ越しの祭りの最中でしたが、この祭りの度毎に、民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていました。そこでピラトは、主イエスと「バラバ・イエスという評判の囚人」とどちらを釈放して欲しいのか」と群衆に尋ねます。ここに「バラバ・イエス」という人物が出てきます。これは口語訳聖書では「バラバ」となっていました。どうもこの人物もイエスというのが本名であったようであります。イエスというのは当時としては一般的な男性の名前でありました。バラバとは「アバという者の子」という意味であります。「アバ」とは父という意味です。従って、父、アバと呼ばれていたこのバラバの父親や、もしかしたら律法学者やラビ、たいへん優れた宗教的な指導者であったかもしれないのです。こうしたラビは、よく父と呼ばれていたそうですから。このようなあだ名、ニックネームが付けられていたことからすると、何らかの意味で民衆の間に強い影響力を持っていた指導者であると考えることが出来ます。このバラバは強盗であったとも言われておりますが、むしろ革命家のような存在であったのではないかと私は思います。力によって、この世界を確立しようとした民族主義者であったかもしれません。それゆえ、「評判」の囚人だったのでしょう。人々は、キリストと呼ばれるイエスのように、仕えることでこの世界をつくり変えようとする指導者よりも、力によって革命を起こそうという者の方を好むものであります。暴力、その荒々しいまでのその力強さにこそ、群衆は心惹かれるのでしょう。主イエスの説くような愛では駄目だ、そんなやわなことでは世界は変わらない、結局は力でしかない、そのようにこの時の群衆も思ったのでした。

 もう一つ18節に興味を惹く言葉が記されております。「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだとわかっていたからである」妬みの心を持ったのは、祭司長のような指導者たちだけではなかった。群衆たちも主イエスを妬んだのだというのです。それはイエスも群衆の一人であったからです。主イエスは大工の家のせがれでした。群衆たちにしれみれば、それこそ自分たちの仲間であるのです。その自分たちの仲間の一人が時代の寵児のように注目され、もてはやされることを私たちは面白くなく思うのです。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」ロマ書12章15節の有名なみ言葉です。人と喜びを共有するのと悲しいことを共有するのと、どちらの方が皆さんは困難だと思われますか。いずれであっても、心の底から人の悲しみや辛いこと、そして喜びを共有するのは本当に難しいことですから、どちらとだけ断定することは出来ないでしょう。しかし、人には妬みの心があります。これは私たちの心を蝕みます。だから、他人の喜びを素直に喜べない心が私たちの前に立ちはだかるものであるのです。

 最初から自分とは次元の違う存在だと思っている人に対してなら、妬みの心は起こりにくいものであります。しかし自分の仲間、自分と同じ位置から立って行った者に対しては、そのことを素直に認めたくない心が起こり、足を引っ張ろうとする者なのであります。

 主イエスはそのような群衆たちの妬みの心の犠牲となっていったのです。群衆でしかない私たちの妬みの罪は、主イエスを犠牲にしてしまうほどにも気づかないほどに罪深い者であるのです。群衆のために心を痛め、肉体と精神を磨り減らして、寝る所も無いほど労苦し、人々に仕え、一人ひとりを愛した主イエスを私たちは殺したいとほど妬んでしまうのであります。

 主イエスを十字架につけたのは、当時の指導者たちだけではありませんでした。共に歩み、自分たちの仲間だと思っていた群衆も主イエスを十字架につけたのです。そしてまた、主イエスの十字架は2000年前の地球の裏側のような異国の出来事だけではありません。主イエスが戦われたのは、私たち全人類の罪、それは今を生きる私たち一人ひとりの罪でありました。

 私たち一人ひとりの心の中を省みましょう。自分自身の主義主張、また願望等を邪魔しようとする存在を抹消しようとする心が、また、妬みの心があるのかどうかを。お祈りをいたします。

 


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