皆さんお帰りなさい。受難節も終盤にさしかかってきました。来週1日は棕櫚の主日、そして受難週に入っていきます。喜びのイースターまでもう少しです。今週も主イエスの十字架から、そこに現われている神さまの深い愛を見てまいりましょう。
今日は、27章27節からの場面です。主イエスがエルサレムにお入りになり、裁判を受け、ついに十字架に磔になるところです。私たちにとっては見たくない場面でありますが、レントはキリスト者にとって最も深い信仰の味わいの時であり、恵みを味わう時であります。キリスト者とは、キリストにおいて示された神の恵みによって生きる者であります。その恵みがどのような味わいを持つのか、それはキリストの十字架を真実に丁寧に味わうことでもって理解できるものであります。
先週のピラトの場面から繰り返されている言葉があります。それは「ユダヤ人の王」です。ピラトも「お前がユダヤ人の王か」と皮肉を込めて、この言葉を口にしていますが、今日の場面においては、兵士たちがこの捕らわれ人を小馬鹿にして「ユダヤ人の王」と述べています。実は主イエスのことを「ユダヤ人の王」と福音書に記されているのは、この時が最初ではありません。主イエスが誕生された時にも、口にされた言葉であります。あの東の国の博士たちが、贈り物をもってエルサレムにやって来た時に、2章2節で「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねています。彼らは「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言いました。東の国の博士たちに「ユダヤ人の王」と呼ばれて始まった主イエスの生涯は、その終わりに人々から「ユダヤ人の王」と蔑まれることでその幕を閉じるのであります。彼の生涯は、人々を愛し、人々に仕え、父なる神の御心を全うするものでありました。しかし最後は人々から侮辱され、当時としては最も残虐な十字架刑によって惨めに死んでいく、そのような生涯であったのです。では、この主イエスの生涯は、ユダヤ人の王として生涯ではなかったのでしょうか。著者のマタイは、このお方こそ、ユダヤ人王であったことを記そうとしたのだと思われます。そしてここでは、裁かれる王、侮辱される王の姿として書いたのであります。
人々のののしりの言葉の中で、繰り返されている言葉があります。40節「神の子なら、自分を救ってみろ」、43節「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」、すなわち「お前は神の子だと自称していたのだ、もしそれが真実なら、このような十字架の姿は神の子、ユダヤ人の王としてふさわしいのか」と言おうとしたのでしょう。
この言葉はまた、私たちに一つの話を思い出させてくれます。それは主イエスが悪魔から受けられた荒れ野の誘惑の時の悪魔の言葉であります。主イエスが伝道の生涯に入られる最初の時に悪魔がやって来て、主イエスを誘惑しました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」「神の子なら神殿の屋根から飛び降りたらどうだ」主イエスはそれらの誘惑を拒否されました。悪魔は、神の子なら自分を救えるはずだ、そのように誘惑したのですが、主はそれらを拒否なさったのです。その悪魔との戦いは、この十字架の場面においても続いているのであります。そこで問われているのは、神の子とは誰なのか、真実の王とは私たちにとってどんな存在であるのかです。その意味では、まだ悪魔の誘惑は続いており、ここにおいてその誘惑は最も激しくなったと言ってもよいのです。主イエスは沈黙し、ののしられ続けられる。そしてそのようにして、本当の真の王の姿を示し続けられるのであります。もしこの主イエスのお姿の中に王の姿を見ることが出来ないならば、クリスチャンでないとか、クリスチャンにはなれないとは言いませんが、必ずいつかイエスに失望やつまずきを覚えることになるでしょう。なぜなら、これが父が主イエスを通して示された真の王の姿であるからです。そして真の王とは誰であるかと云う問いは、私たちにとっても根本的な問題であるからです。私たちは自分を支配する存在をどの様なものに求めているか、言葉を換えて言うならば、何を王とするのか、このことはキリスト者となった私たちにとってはいまだ問われ続ける課題なのではないでしょうか。
今日の箇所でローマ兵は「ユダヤ人の王、万歳」と言います。しかしこれはイエスをからかったに過ぎません。他人を救ったのに自分自身を救うことが出来ず、惨めに磔にされて死んでいく男に対して、ローマ兵が抱いた思いはからかいであり、侮辱であり、ののしりの言葉でした。では、我々は今日の主イエスの姿を見て、からかいではなく真心から「我らの王、万歳」と言えるのでしょうか。
福音書においては、主イエスのみ苦しみを生々しく描くことには筆を費やしてはいません。先週の箇所ですが、26節には「イエスを鞭打ってから」とあります。このことについて注解者たちは、どのように主が鞭打たれたかを説明してくれます。死刑にする者を処刑前に鞭打つと云うことはよくあったそうです。しかも当時の鞭打ちはただの革の鞭ではなかった。革の鞭の先に鉛を張りつけ、その上に棘を植え付けて打ったそうです。鞭だけではなく、鎖を用いることもあったと言われています。映画『パッション』においても、そのような様子が描かれていました。あれを観たら思わず目をそむけたくなったものであります。しかし福音書はそう云うことについては詳しく語らない。そうではなく、何を一貫して書こうとしたか、今日の27〜44節までで明らかに見られるのは、イエスへの侮辱の言葉です。ののしりです。人々は主イエスをののしり続けたのであります。言葉だけではありません。着ている物をはぎ取り、茨の冠を頭に載せ、葦の棒を持たせてたたき続け、唾を吐き続けたのです。これも全部、ののしりの行動です。
しかし特にマタイが強調して描いているのは、やはりののしりの言葉です。先ほども述べましたように、死刑に処せられる者をからかうのは当時の習慣であったとも言われます。肉体に傷を与える行為は残虐な傷を残す行為でありますが、ののしりや嘲りの言葉の中に現われる残虐さも、相手に与える傷が心に残るものであるだけに、ある意味もっと恐ろしいと言えます。私たちは鉛や棘のついた鞭で、人を打つことはなかなかないでしょう。しかし私たちは人をののしったり、侮辱すること、また人をからかう言葉を発することが無いとは言い切れないでしょう。ここにおいてマタイが描こうとしたのは、処刑の場面に登場する人々のののしる姿なのであります。
何と言ってののしっているでしょうか。それは先ほども触れたように「他人を救ったのに、自分を救えない」ことであります。「他人は救った」とあるように、他人を救ったことは認めているのです。しかし自分が救えなくては何にもならないではないか、そう言ってののしったのです。自分で自分を救うことも出来ない、そう云う人間を信用することが出来るだろうかと云うのでしょうか。こう云う言い方の中に、他人事ではない自分自身の思いが表れているようにも思うのです。
主イエスにとって、自分を救うことは大切なことではなかったのです。ご自分を救うことを止めて、他者を救い続けること、それこそが救い主キリストとしての姿であったのです。主イエスの無力は、自分を救おうとしないことにおいて現われたのであって、それ以外の何ものでもない。そのことについて、周囲の者がどれだけ深く無知であるかと云うことこそが、主イエスの心を痛め続けたのであります。
しかし、そのように「神の子なら自分を救ってみろ」と云うような者が、もし主イエスがそのように自分を救い出したなら、主を信じたでしょうか。私にはそうは思えない。場合によっては恐れを抱くかもしれません。十字架から降りてくる力によって、報復のために、自分たちにその力が向かうのではないかと恐れたのではないか。しかしそれでは信頼が生まれることはないのです。これも言ってみれば、力による説得です。人間は時に、そう云う力による説得を好むものであります。いや、私の中にもそのような思いが無いとは言い切れない。正義と云うものも結局は、力を振るわなければ意味がないではないか、自分さえ救えないような無力な者が救い主たることが出来るのかと。
しかし主イエスは、人間のそのような思いに逆らって、ご自分を救う力を拒否なさったのであります。これほどまでの屈辱を味わっても、尚ご自分を救うことにおいては、無力であり続けられたのです。ののしられ続けることをお引き受けになられたのです。何故か。それは他者を救うためであったからです。それ以外のことは、全く自分のすることではないと思われたからです。そして、神さまが罪びとの救いのために表された方策、それは力を誇示することではなく、黙って死んでいくことで人々を赦す、主イエスの十字架であったのです。
ののしられることを、主イエスはどんなに深くお感じになっておられたのでしょうか。これも今日の箇所ではない、来週読むところですが、46節には「エリ、エリ、レマ、サバクタニ、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と主イエスが十字架でおっしゃったとあります。これは詩編22編の引用だと言われていますが、主イエスは十字架の最後の時になって初めて、こう叫ばれたのではなくて、人々のののしりを受けられながら、既にこの詩編を祈り続けておられたのではないでしょうか。神の子であって王となられた者を軽んじ、誰よりもその王をののしることに熱中する人間の悲惨を、深く鋭く感じとっておられたのではないか。そのののしる者の心の中には神はいない。これほどまでに嘲弄し続ける人間の心の中には、どこにも神はいない。
詩編22編をみてまいりましょう。旧約の852ページです。
「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」
7節「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう』」これは、救い主が詠んだ詩ではなく、主イエスより何百年も前に生きた一人の人間が詠んだ詩でしょう。この詩のことをご存知であった主イエスは、しかしこの詩の中に、ご自分の姿を見られたのです。そしてこの詩が現実のものとなることを深く心にかんじられたのではないでしょうか。
17節「犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられるほどになったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」
正にこの通りのことが、ご自分の眼前で行なわれていく、そのさまを主イエスはご覧になっていたのです。
20節「主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐわたしを助けてください。わたしの魂を剣から救い出し、わたしの身を犬どもから救い出してください。
25節「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。観顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。」
沈黙を守っておられる主イエスが、そこでどんなに深い叫びを神に向かってあげておられたことか、それを思わされます。
28節「地の果てまですべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく、主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。私の魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。」
主は十字架でこの詩を口ずさみながら、死んで下さったのです。ご自分を救うことがお出来になられたのに、一切そのことには力を用いられることなく、ご自分をののしり続ける者のために死んで下さった主イエス。私たちはそこに救いを見ます。主イエスの絶望、その絶望は、私たちの罪のゆえですが、その絶望こそが、私たちの希望であり、望みであると信じる、そのことが許されているのです。ののしられ続けながら、主イエスがそう言って下さったのです。そこに、私たち罪びとを生かす、私たちの罪を赦す真の王の姿が見えてくるのです。お祈りします。
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