「主はガリラヤへ」  


 マタイ28章1〜10節
 2007年4月8日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。そしてイースターおめでとうございます。

先週は日本中大荒れの天候でした。静岡で31度を超えて真夏日になったと聞こえてきたと思ったら、木曜日は東京としては19年振りに雪が降ったという具合に大荒れの天候でした。高知でも、昨日一昨日と朝晩は暖房をつけたくなるほど、冷え込みました。地球温暖化による天候不順もあるのでしょうが、これも受難週だから仕方がなかったのかもしれません。先週の聖書箇所ですが、主イエスが息を引き取られたとき、27章の51節ですが、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」とあります。また、45節には「昼の十二時に全地は暗くなり、それが三時まで続いた」とも書かれています。昼間にもかかわらず、真っ暗になり、更に地震が起こって、多くの死人が生き返ったというのですから、大変です。主イエスの十字架の出来事は、歴史上一回限りの特別な神の時であったのです。

 かつて前任地で出会った一人の未信者の方に次のように言われたことがありました。「牧師さんやクリスチャンの方ってすごいですね。みなさんはイエス・キリストが生き返ったことが信じられるのでしょう。私も昔教会に行こうかと考えて聖書やキリスト教の本を読んだのですが、復活のことを読み、自分は駄目だ、教会には行けないと思った。それは復活を信じることが出来なかったからです」、社交辞令も少しはあったのかもしれませんが、そう言われた私は恐縮するしかありませんでした。イエス・キリストを信じる者の群れである教会は、復活を何の疑いもなく信じることの出来る者だけが集っている場所ではありません。牧師のくせに何を言うのかと思われるかもしれませんが、私はいまだにその方と同じ思いです。巻頭言にも書きましたように、キリスト教会においては、イースターはクリスマス以上に重要な出来事です。イエスさまが甦って下さったことによって、私たちは神さまと親しく交わることが出来るのであり、そのことを信ずることこそがキリスト教信仰の核心部分であるからです。しかし、人間の姿をとってこの世界で歩まれたイエスという人物が十字架で死んだ後に生き返ったということは、私にとってはいまだに信じられないと感じるほどの衝撃の出来事であるのです。

 私たちはイエス・キリストを神さまとして信仰しています。そして同時に、そのイエス・キリストは人間であったとも信じております。イエス・キリストが神であったとだけ言うのであれば、まだ復活は信じ易いことかもしれません。しかしそうではない、イエス・キリストは神であり、人であったと聖書は説くのです。

 イエスは十字架に付けられる直前にゲツセマネの園で、苦しみもだえて、血の滴るように汗を地面に落とされながら「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除いて下さい」と祈られました。また、十字架上で絶命された時にも、27章46節ですが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味ですが、そう祈られました。先月のみ言葉でありますが、ヘブライ人への手紙2章18節に「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」とあるように、私たちと同じ人間として、十字架の苦しみを受けられたお方であるからこそ、十字架は私たちの救いとなるのです。

 主イエスは生き返った、甦った、復活された、と言います。しかし実はそうではないのです。もう一体、牧師は今日は何をいうのかと思われるかもしれませんが、聖書は主イエスがご自分の力で、復活されたとは言っていないのです。28章6節のところも、元のギリシャ語をみますと、受身形が使われている。だから訳しようによっては、ここは「よみがえらされた、復活させられた、起き上がらされた」と訳せます。主イエスは、甦らされたのです。

 聖書を読んでいていつも思わされることがあります。それは男って、本当に弱いなあ、ということです。高知はハチキン女性が支配されているところですから、女性が強いことはわざわざ言わなくとも良いのですが、私もここに来る前には九州におりましたから、九州はだいぶ事情が違いました。聖書の世界、旧約の時代はさておき、新約聖書が書かれた時代、およそ2000年前においては、女性の権利とか地位は男性とは比べ物にならないほど低いものでした。しかし、主イエスに最後まで従っていったのは、12弟子を代表とする男の弟子ではありませんでした。27章55節には、十字架の処刑の場面まで従って行った弟子たちの名前が記されていますが、ここには男性は一人もおりません。また、墓に納める時には、アリマタヤのヨセフは登場しますが、ここにも12弟子はおらず、61節のマグダラのマリアともう一人のマリアがそこに残ったとされています。

 復活の場面に墓に行った人物については、四つの福音書においては少しずつ異なるのですが、最初に墓を見に行った顔ぶれにも男の弟子はおりません。かろうじて、ヨハネ福音書で、マグダラのマリアから墓の石が取り除けてあることを聞いたペトロともう一人の弟子が墓に行ったことが記されているのみであります。

 このとき、彼らはどうしていたのか、どうも男たちは、ユダヤ人たちを恐れて家に鍵をかけて震えていたようであります。彼らは、主イエスが十字架に付けられて殺されたことを聞き、イエスさまが生前におっしゃっていた十字架の死と復活の言葉を思い出したことだとは思います。しかし、彼らは三日目に復活することになっているという主の言葉を全く信じられずにいたのです。

マグダラのマリア、彼女は7つの悪霊に憑かれていた女でした。これは、どうしようもない心の病に取り憑かれ、激しい力に押さえられていた人であっただろうと言われております。この人は主イエスと出会い、そこから解放され、それこそもう一度、いのちに甦って、人生をやり直したのでしょう。この人はもう一人のマリアと共に、週の初めの日の明け方に、墓を見に行った、と1節に書かれています。

 これはマルコ福音書を見ると、イエスの死体に香油を塗ろうとして出かけたようです。これは葬りの備えのための行為です。彼女も、生前の主イエスから復活のことは聞いていましたが、復活された主を見るために墓に出向いたのではなかったのです。彼女の心も、イエスの死が強く支配していました。自分を悪霊から解放して下さり、もう一度やり直しをさせて下さった主の死は、彼女にとっても絶望にも等しいものであったと思います。もっとはっきり言うならば、彼女も主イエスの復活を信じきれていなかったのです。

 二人は墓で天使から「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。急いで行って弟子たちに『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』と告げなさい」と言われます。婦人たちは恐れながらも、大いに喜んで、そのことを知らせるために弟子たちのところに行こうとします。すると、9節ですが、彼女たちの行く手にイエスが立っていて下さいました。そして告げられたのが10節の「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」という言葉だったのです。

 復活の主は、その復活を信じきれるものにだけ、そのお姿を現されたのではありません。イエスの言葉を信じきれずに恐れと不安に囚われている者たちに、今日の箇所のようにご自分の方から声をかけて、そのお姿を現して下さるのです。

 私たちは死んでしまえばおしまいだと思っています。私たちは本能的に死を恐れています。今日のマグダラのマリアたちやイエスの12人の弟子たちもそうでした。あれだけ力強い奇跡のようなみわざをなさったイエスさまだって、死んだらおしまいだと思っていました。しかしそんな者のところに復活のお姿を現し、出会って下さるのがイエスさまです。そのことによって、私たちは死の恐怖から解き放たれます。その震えていた、恐れていたペテロをはじめとする弟子たちは、復活のイエスと出会うことで大きく変えられていきます。最後は殉教していったと伝えられています。ペトロに関しては、先日の映画会で上映した『クォ・ヴぁディス』でも十字架につけられて殺されました。そしてそれは12弟子だけのことではありませんでした。ローマ帝国時代にも、キリスト教に対する大迫害が起こる中で、イエスの復活を信じる者たちは、ローマ皇帝の権力にも屈せず、多くの者たちが殉教していきました。それは、その当時のことだけではありません。日本においても、キリシタン迫害の中で、隠れキリシタンをはじめ、多くのキリスト信者たちは、パライソ、パラダイスのことで、天国ですが、そこに行けることを信じて、殉教していきました。彼らも、死がすべての終わりでないことを信じたのです。イエス・キリストが死を乗り越えて、甦ったこと、甦らされたことを信じたのです。

 では、私たちはどうすれば、復活のイエスさまに出会えるのでしょうか。その鍵は、7節と10節の言葉にあります。それが「ガリラヤ」です。先ほども讃美しました、讃美歌でも歌われているこの「ガリラヤ」とは、弟子たちにとっては故郷です。彼らの多くはガリラヤの猟師でした。そしてこのガリラヤで主イエスと共に生活し、主イエスから教えを乞うた場所です。私たちにとってのガリラヤ、それはどこでしょうか。これは神学的にも大きな議論を呼ぶものですが、私は、私たちにとってのガリラヤとは日常の生活の場だと思います。それは私たちの住まいであり、職場であり、家の前や職場までの道であると思います。主イエスは私たちの普段の生活の中に復活のお姿を現して下さるのです。その中に教会が入らないとまでは言いませんが、主は私たちが日常の普段の生活を疎かにする、また家族を大事にしないことを喜ばれません。主は、私たちが地道に地に足のついた生活をされることを求めておられます。もし、そのことを疎かにし、家族を蔑ろにして、教会や神のことに没頭するならば、復活のイエスはそこには現れては下さいません。

 礼拝の最後に、牧師は祝祷、祝福の祈りを献げます。あれは派遣の祈りでもあります。日曜日に教会に集い礼拝する。それはクリスチャンにとっては最も大きな、大切にすべき行為ではありますが、それだけで終わってはならないのです。礼拝においていただいた恵みを、導きを、それぞれの生活の場に持ち帰って、そのことに従った生活をする。地に足のついた生活をすることが、主イエスから求められています。そこに、主イエスは共にいて、復活のお姿を現して下さるのです。お祈りをしましょう。



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