「しかし、疑う者もいた」  


 マタイ28章16〜20節
 2007年4月15日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。先週はとてもたくさんの方々と共にイースター礼拝を守れたことを感謝いたします。やはりお祭りはたくさんの方とお祝いした方が、より多く喜びを分かち合えます。先週いらした新来者、来会者の方のことを覚えてお祈り下さい。

 私は、先週はとても忙しく、心の余裕さえなくすほどの毎日でした。私はこの教会の敷地の中で生活し、毎日この教会の庭を見ていたはずです。しかしその忙しさの中で、その目に映っているものの姿が本当の意味で見えていませんでした。金曜日朝、5時過ぎに目が覚めた私は、二階から降りて、庭を見た時に、そこに多くの花が咲いていることに気づきハッとさせられました。それまでもその光景を毎日目にしていたのに、見えていなかったのです。そこには、チューリップや ○○が咲いていたのです。その花が、疲れと忙しさに翻弄されている私を迎えてくれました。その時、確信したのです。言葉ではうまく言えずどう説明したらよいのか分かりませんが、その時、そこに復活の主イエスが私と共にいて下さることを実感することが出来たのです。私はイエスさまが復活して下さったことを信じています。しかし、その現実が、すぐにリアリティー、現実感を持たなくなってしまいます。先週は、弟子たちに、ガリラヤへ行くように、主が命じられたことを、聖書から聞きました。私たちにとってのガリラヤ、それは主イエスに出会った場所であり、日常の生活の場だと教えられました。しかし、そのことを疑うというか、その現実が見えなくなる自分があります。しかしそんな私の所に、神さまは、庭に咲くチューリップを通して、私に復活のイエスさまの臨在を感じさせて下さいました。

今日のこの28章は主イエスの復活を語っています。しかし先週も申しましたように、主イエスの遺体が突然起き上がったというようなことが語られているのではありません。主イエスの死を嘆くために墓にやって来たマグダラのマリアともう一人のマリアが目にしたのは、空っぽの墓と白く輝いた天使の姿でした。その天使から「主イエスは復活なさった。ガリラヤへ行けば主にお目にかかれる」との主の約束の言葉を告げられます。そのことを弟子たちに伝えようと走り出した彼女たちに、主イエスが近寄って、甦った方として出会って下さったことが、この28章の前半に語られていました。

 今日取り上げた28章の最後の場面は、復活なさった主イエスが、今度はガリラヤで弟子たちに出会って下さったところです。首をくくって死んだイスカリオテのユダを除く11人の弟子たちは、主イエスが生前指示しておられた山に登って、そこで復活の主イエスに会います。17節には「イエスに会い、ひれ伏した」とあります。この「ひれ伏す」という言葉は、9節にもあります。女たちも復活の主の前にひれ伏しました。これは主を礼拝したという意味です。復活の主イエスと出会った者は、そのみ前にひれ伏します。復活された主イエスとの出会いは礼拝を伴います。これは礼拝においてこそ、復活の主イエスと出会うことが出来ることを示しています。しかし、それは主の日のこの礼拝でしか復活の主と出会えないというのではありません。ここで言う礼拝とは、主を崇め、主の臨在を讃えることです。先週の私にとっては、早朝の庭のチューリップを通して、主が共に居て下さったことを示して下さった時に、その場で「主よ、感謝します」と主を崇め、主を讃える思いがわきあがってきました。あの時、私は礼拝をしたのです。あれは私にとって、神を礼拝した瞬間でした。主イエスの復活は、そのことがあったかなかったか、納得できるか信じられるかということが問題なのではありません。主を崇め、主を讃えることの中でこそ、復活の主イエスと出会うことが出来るのです。

 裏切って、主に希望を見出せずに自殺したユダ以外の11人でした。この残された11人は最後まで主イエスに従い通したのでしょうか。弟子としての歩みを全うしたのでしょうか。そうではありませんでした。彼らはイエスが捕らえられたとき、みんな蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。主イエスの十字架での最期を見届けたのは、その埋葬を見届けたのは、その11人ではなく、マグダラのマリアを始めとする女たちでした。一番弟子であったペトロは、三度イエスを知らないと言い、呪いの言葉さえ口にしながら、自らが主イエスの弟子であることを否定したのです。主イエスとの関係を断ち切りました。彼らはもはや誰一人、主の前に堂々と出られるような人物はおりませんでした。そんな者たちがこうして主に出会うことが出来たのは、主イエスの方から彼らに近づいて下さったからです。主イエスが一人ひとりを招いて下さったからに他なりません。ここに主イエスの弟子たちに対する罪の赦しが示されています。

 彼らも主イエスを見捨て、裏切り、主の後に従いえず逃げ出した者であったのです。ペテロは「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い、他の弟子たちも同じように答えました。弟子と呼ばれる資格さえない彼らをもう一度迎え入れ、弟子として新しく立てて下さったのです。私たちもこの弟子たちと大して変わらないような弱く愚かな罪びとです。しかし主イエスはそんな者を招いて下さり、こうして今日も主を礼拝することが出来るのです。復活のイエスさまの方から、声をかけ、近づいて来て下さるのです。

 主はおっしゃいました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と。ここに復活の主イエスの意味が示されています。天と地における最高の権威と力が主イエスに授けられたのです。この世界を、そして私たちを支配している最高の力、権威とは何でしょうか。究極的に私たちを支配し、そこから逃れることの出来ないもの、それは罪と死への恐れです。全ての人に等しく与えられているものは、それこそは死であり、全ての者が犯してしまうのが罪です。たとえどんなに大きな力や権力を手に入れても、死に打ち勝つことは出来ません。また、どんなに正しく生きても、罪を犯さずに生きることは人間には不可能です。主イエスは、復活されたことで、人を支配している最高の力と権威である死の力を打ち破って下さいました。そして十字架で私たちの罪を全て背負って死んで下さったことで、私たちと神とを隔てている出会えなくしている罪を贖って下さいました。誤解しないで下さい。この十字架の死と復活によって、私たちは罪を犯さなくなるのでも、死ななくなるのでもありません。私たちはその罪と死の支配から、その恐れから解放されたのです。私たちは罪と死の支配から、その絶望から解き放たれ、神の赦しと恵みの下に生かされているのです。世の終わりまで共にいて下さる主イエスは、そのような恵みと愛を、私たちに与え続けて下さるのです。

 主イエスの誕生の時に、父ヨセフは夢で主の天使のお告げを聞きました。そこで、ヨセフは「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と聞かされます。これはマタイの1章23節に記されていますが、このマタイが一貫して語ってきたことこそは、この主イエスこそは、インマヌエル、「神我らと共にいます」というお方であるということです。そしてそれこそが、マタイが語っている福音にほかなりません。

 今日は、19節と20節について語る時間はありませんが、これについては、昨年、特に「弟子にしなさい」ということを宣べさせていただきましたので繰り返しになりますが、私たちが世の人々に伝える福音とは、全ての人をキリストの弟子とするように導くことです。そしてそれには、私たちが主の弟子となっていくことが求められます。

 さて今日は、最後にもう一度、17節に戻って、見つめておきたい言葉があります。それは、イエスに会いひれ伏した時に「疑う者がいた」ことです。これは誰のことでしょうか。ヨハネによる福音書には、復活のイエスが弟子たちにそのお姿を現して下さったときに、「手の釘の跡を見て、指をその釘跡に入れてみなければ、また手をそのわき腹に入れてみなければ信じない」と言った人物がいたことが記されています。それは12弟子の一人のトマスでした。当然、今日のマタイの弟子たちがガリラヤの山で復活の主イエスと会った時にも、このトマスはいました。ですから、マタイはここで、そのトマスのことを述べているのかもしれません。しかし、復活を疑ったのはトマスだけだったのでしょうか。復活が信じられなかったのは、復活された主イエスを信じきれず、またひれ伏して礼拝出来なかったのは、トマスだけのことなのでしょうか。マタイがこの言葉を記したのは、私にはそのことだけだとは思えないのです。トマスのことを述べるためだけに、この言葉を記したのではないのではと思えるのです。この言葉はむしろ私たちの現実を見つめつつ語られているのではないでしょうか。

 何を疑うのか。主イエスが本当に復活したのかという疑いか。それもあるでしょう。しかし私たちの抱くもっと根本的な疑い、というか問いは、神さまは自分と共にいて下さっているのだろうか。この自分のことを愛して下さっているのだろうかという疑いです。自分と共に神さまは居て下さるのだろうかという疑いであり、復活したイエスさまのことを忘れてしまっていることです。

この世の人生において、私たちはいろいろな苦しみや悲しみに遭遇します。考えてもみなかったような事態が起こります。どうしてこんなことが、自分にふりかかってくるのかと思うことがあります。その苦しみ、悲しみの中で、私たちは神さまが自分のことを愛しておられるのかと、神さまの恵みを疑ってしまうのです。そんなものは嘘っぱちではないか、この現実の一体どこに恵みがあるというのか、救いなどあるのか、と思います。また、その苦しみの中で、自分の罪を思い知らされることがあります。神さまの怒りを感じるのです。そんな時、もう自分のような者は神さまに見捨てられたのではないか、もう自分のような者は神さまに見捨てられたのではないだろうか、神さまの赦しなどもう与えられないのではないかと疑ってしまうのです。

 先週の私が忙しさの中で、日々のなすべきことに翻弄されて、復活の主がすぐ近くに居て下さっていることに気づかずにいること、それも神さまに対する疑いです。主が共に居て下さることを忘れてしまっていることも同じです。

そんな私たちに、復活の主イエスは近寄って来て下さり、「わたしは天と地の一切の権能を授けられた」と語りかけて下さいます。「あなたの人生を、そこに起こる全てのことを支配しているのは、悪魔の力や死と罪の力ではない。死に打ち勝った神の恵みこそが支配しているのだ。神のその独り子を十字架につけるほどに、あなたを愛しているのだ」と告げて下さいます。「わたしは世の終わりまでいつも共にいる」と示して下さったのです。だから「あなたはもう恐れなくてもよい、疑うあなたと共に、復活の主のことを忘れてしまっている、お前と共に、わたしはいつも一緒にいるのだよ」と言って下さったのです。

 礼拝において、私たちは主イエスからのこの語りかけを受け、それによって疑いや問いから解放されて歩むことが出来ます。繰り返し疑いに陥っていく私たちですが、その都度、罪の赦しの恵みをもって、死に勝利した復活の主イエスの方から近づいて来て声を掛けて下さいます。疑うことは根本的な問題ではありません。忘れること、主が共に居て下さることに気づかないことも罪の一つではありますが、そのために復活の主イエスと出会えなくなるのでは決してありません。インマヌエルの、我らと共にいて下さる神は、世の終わりまで共にいて下さるのです。


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