「良い土地になるために」  


 マルコ4章1〜20節
 2007年4月22日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。先日ある方とおはなしをする機会が与えられました。その方は次のようにおっしゃいました。「人間は心の中に潜在させていることが顕在化する」。人間が心の内側に思っていることが表面に表れてくるということでしょう。これは一面においてはとても恐ろしいことです。だって、心に抱いていることが外に出てくるというのですから、口でどんなに愛を説いていても、心の内で人のことを憎んだり恨んだりすれば、それが表面に出てくることになるのです。本当に怖いなと思わされました。

 しかし私はその方のお話を伺いながら、思い当たることがありました。それは、私の牧会姿勢のことです。私は前任地においては、全く町に馴染もうとしていませんでした。町の人を愛していないどころから、はっきり言ってけぎらいしていたほどだったのです。そんな私に妻は「なんであんたが牧師をするの」と言われ続けました。うつ病になったのもある意味必然だったと思います。そんなどうしようもない私でしたが、同じ轍は踏んではならないと思い、さすがに学ばされたこともあり、高知にやって来ました。私なりにこの町を愛そう、町に入って行こうと思っていましたら、2年目頃から、教会以外の町の方との接点が与えられ始め、今年になってさまざまな展開が起こています。正直言って、時間はいくらあっても足りないほどですが、「願っていた通りになるな」と思っています。

 神さまは生きて働かれるお方です。神さまは私たちをみこころにかなう形でお用いになりますが、その際に私たちの願いを無視されることなく、その願いに叶うような形でみこころを成し遂げられます。その意味でも「心にあるものが実現していく」のだと思います。

 今日は証しから入らせていただきました。実はそんな多忙の中で、先週は風邪を引きまして、熱はそれほどには上がらなかった(7度少し)のですが、頭痛と体のだるさが取れずにおりました。水・木・金、といくつかの予定をキャンセルして、静養したことで、昨日あたりからやっと動けるようになってきました。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

 イースターを終え、これから6月までの約2ヶ月は福音書の主イエスのたとえ話を学んでまいります。今日はその第一回目です。

 主イエスは、人々に福音を説くのに、多くのたとえを用いて語りかけられました。今日のこの「種蒔きのたとえ」(新共同訳の見出しでは「種を蒔く人のたとえ」とされていますが)、これは主イエスのたとえの中でも最も有名なもの、たとえ話の代表的なものであります。

 主イエスはなぜ、たとえを用いられたのか、それはやはり分かりやすかった、理解されやすかったからでしょう。いや、もう少しつっこんだ言い方をするならば、語られたみ言葉を自分のものとさせるためには、たとえで語るのが最も効果的だったからでしょう。それゆえ、主イエスは生活に即したものをたとえに用いて語られた、その代表がこの「種蒔きのたとえ」です。

 このたとえは単純明快なものだろうと思います。徳に当時のパレスチナ地方の農耕を経験している人たちにはとても理解し易いものであったことでしょう。種とは神の言葉のことです。その種を蒔く人とは、み言葉を宣べ伝える人のこと。ですから、礼拝の説教においては牧師でしょうし、みなさんが証しや神さまの話をされる時には、この種を蒔く人となるでしょう。

 ただ、私たちにはピンと来ないようにも思えるのですが、この頃のパレスチナ地方での種蒔き(これも麦の種だろうと言われていますが)は、耕す前に種を蒔いたのだそうです。私にはちょっと考えにくいのですが、先ず最初に種を蒔き、そうして後に、その蒔いた土地を耕していったのです。種を蒔いてから鋤きこまれるので、種は道端や岩地や茨の中に落ちることもなった。特に、この地方は岩だなの上に薄く土がかぶさっているだけの土地が多かったそうで、それは見た目には分かりにくく、それらも蒔いた後で鋤を入れてみてやっと分かることであったのです。

 13節以降では、このたとえの説明をイエスさまがして下さっています。道端に蒔かれたものとは、福音を素通りさせてしまう人のことです。そこには烏などに対抗出来ずに、すぐに誘惑に負けてしまう人のことです。 石だらけのところとは、み言葉に飛びつきはしますが、根がないので、すぐに枯れてしまう、信仰を受け入れても長続きしない人のことです。

茨は強い植物で、猛威をふるうので、農作にとっては大きな障害となるものです。鋤を入れる前に、これらの茨を焼き払い、灰を耕作のための肥料としたそうです。もしこれを怠ると畑は茨に覆われて荒れてしまいます。何故なら、根が土の中に残っておれば、たとえ見かけはキレイな畑に見えても、やがてその茨の根が生え出てきて、麦の芽が覆われてしまうからです。茨の中に落ちた種は意味深です。ある程度は成長しますが、この世の思いわずらいや富への執着のために福音がその人のものにはならない人のことです。道端には外からやってくる迫害や弾圧の手が伸びて種が奪われてしまうことでしょうが、この茨は、この世の思いわずらいや富への惑わしといったその人の内側にある欲望が種の成長を阻むことになる、そのような人のことであります。

このように見ていくと、このたとえは「種蒔き、種を蒔く人のたとえ」と云うよりも、「種を蒔かれた地のたとえ」または「種の落ちた地のたとえ」といった方が適切であろうと思います。

そしてここでこの話をされた主イエスの目的とは、人々に理解しやすかったこのたとえを用いることで、聞く者一人ひとりが自分はどの土地であるかに気づかせることにありました。しかしそのように問われた時に、「あーあ、良かった、私は良い土地だ」と思う人はおそらくおられないでしょう。クリスチャンになられた方であるならば、またたとえバプテスマをお受けにはなっておられなくとも、こうして続けて教会の礼拝に来られている方であるならば、道端ではなかったでしょう。しかし16節にあるように「み言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後でみ言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまう」また、19節のように「心にある欲望に覆われて実を結ばない」といった教えが耳に痛く聞こえない人はおそらくはおられないのではないでしょうか。

人間には四種類のタイプがあって、それぞれは別個のものというのではなく、最初は道端であって、教会に誘われたけれどもみ言葉を聞くことはなかったり、教会に続けては通ったけれども誘惑の中にあって、神さまの方に心が向いていない時期もあった、いや今正にそうだ、というものなのではないでしょうか。

では、良い土地とはどのようなものなのでしょうか。それは種がすくすく育ち、豊かに実を実らせるようによく耕された土地のことです。「あなたたちが入って行って得ようとしている土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。」これは申命記11章11・12節のみ言葉で、エジプトを導き出されたイスラエルの民に主が与えようとされているカナンの地のことでありますが、これこそが良き土地です。良い地に蒔かれたものとは、神のみ言葉を素直に受け入れ、そのみ言葉の根を深くおろし、世の迫害やさまざまの欲望に妨げられることなく信仰を守り通す人のことです。

では誰がこのように良い土地でありうるのでしょうか。ある医者が次のように語っているのを読みました。「人間の健康にはまず出すことが大切である。出さねば入らぬ。ところが現代人はみな取り入れることばかり考えて、出すことを疎かにするから病気になるのだ。呼吸でも吸おう吸おうと思って吸い込んでも十分に肺にまで入らない。まず力一ぱい吐き出し、肺の中をからっぽにすれば、吸うことなど意識しなくともおのずと空気は十分に体の中に入ってくるのである」 

ハンターという有名な聖書学者は「神の国の良いおとずれである種はことごとく良いのである。しかしその結実について言えば、種が落ちる土地にすべて依存している。こう解釈するとこれは福音を聞くことの責任についてのたとえであって、聞く者に『わたしはどんた土地か』と問わしめるように意図されたものである」と述べています。聞く者が主イエスから問われているのです。あなたは良い土地であるか、と。ですから、私は人は良い土地になれるのだと思います。種を蒔いて下さったのも、栄養を注ぎ、実を実らせるように条件を整えてくださるのは神さまでありましょう。実を結ばせるのは基本的には私たちの力でなく、神さまがなして下さることです。しかし、最初に私が証しさせていただいたように、そのように願うかどうかは、真剣にそのことを求めるかは、私たちの責任の範疇の事柄です。ただ、何も求めずにただ何も願わずにただ待っているだけでは、誘惑や迫害や欲望にやられてしまうのがおちです。私たちはサタンの攻撃や欲望には全く無力な弱い存在です。しかし願い、求めていけば、その思いに必ずお応え下さるお方です。どうぞ心に実を結ばせていただけるように願いましょう、良い土地になれるように求めましょう。お祈りをいたします。


2007年説教ページに戻るトップページに戻る