皆さんお帰りなさい。主イエスの語られたたとえ話の今日は2つ目です。この十人のおとめのたとえの話は大変明瞭、単純明快な話です。十人のおとめたちには、花婿を迎える務めが与えられていました。主イエスは最初に、こう言われています。「そのうちの5人は愚かで、5人は賢かった」彼女たちのどこが愚かで、どこが賢かったか。みんなともし火を持っていましたが、5人はともし火を絶やさないための油を用意していましたが、5人は用意していなかった。そこが両者の分かれ道でした。一見すると、とても分かり易いかのように思えるこのたとえから話から主イエスが何を私たちに教えようとされているかをご一緒に見てまいりたいと思います。
先ず最初に押さえておかなければならないことは、この話が十字架の直前になされているということです。この後の26章から主イエスの十字架の物語が始まっている、それはすなわち、主イエスご自身の死が目前であったということです。その死の直前になされたたとえ話は結婚のたとえであることの意味を考えないといけません。主イエスは、ご自分の死に向かうその心で、結婚の喜びを語っておられるのです。
ここに登場するおとめたちは、花婿の迎えに出ているのですから、晴れ着を着ていたかもしれない。あかりを整えるにも、晴れ着を着るときも、彼女たちは喜びに満たされていたことだと思います。主イエスはご自分の死が近いことを意識されている中で、その死との深い結びつきにおいて、弟子たちに、そして教会に生きる私たちに、この婚宴の喜びを知るようにと勧めておられるのではないでしょうか。しょんぼりと出て行くのではない、歌でも歌いながら「おめでとうございます。よくいらっしゃいました」と喜びの声を上げながら、迎えるのです。
心を込めて語って下さったこの主イエスの言葉の中には、明らかに私たちの愚かさを憂える思いが込められています。そして私たちを賢い者にしよう、もう一度私たちに賢くあって欲しいと、最後の力を込めて語っておられる、そんな主イエスの声を聞くことが出来ると思うのです。主イエスは、私たちに喜びに生きること、望みに生きること、それだけを勧めておられるのです。
最初にも申し上げましたように、この話は理解することが困難に思えるような話ではない、非常に単純明快な話に思えます。しかしよく読んでみると、気づくことがあります。それは、賢いおとめだと言われている油を用意していた彼女たちが、愚かなおとめたちが眠ってしまっていた間、どうしていたかということです。5節には「皆眠気がさして眠り込んでしまった」とあります。そうです、賢いおとめたちも眠っていたのです。この「眠気がさして眠り込んでしまった」という部分は、口語訳聖書では「居眠りをして」とされていることからも分かるように、眠くてどうしようもなくうつらうつらして、とうとう眠りこんでしまったという意味の言葉が用いられています。十人とも眠りこけてしまったのです。愚かなおとめたちだけが眠ってしまったのではないのです。最後の13節の「目を覚ましていなさい」という主の言葉がありますから、花婿を迎えるにあたって、私たちはずっと眠らずに目をさましていることが求められているように思ってしまいますが、眠ってしまうことを主イエスは憂えておられるのでなく、いつ迎えても良いように備えをしているかどうかが問われているのです。
ここで「賢いおとめ」と言われているおとめたちも、居眠りをしてしまう人間であるのです。これは人間の弱さです。花婿を迎える役割をおおせつかっているのですから、いくら眠気がさしたとはいえ、眠り込んでしまうのでは考えものです。しかしここで主イエスは、その人間の弱さを決して否定されていません。眠くなった時であっても懸命に目を開けている、そのような努力を5人に要求されているのではありません。そうではなく、弱さのために居眠りをしてしまう時でも「花婿だ、迎えに出なさい」と起こされた時に、あわてることなく、主が求めておられる明かりをもって迎えに出られるか、ということを問われているのであります。
福音書において、花婿は主イエスを表しているといわれますから、ここでの話が、主イエスの再臨について語っていることは明らかでありましょう。主イエスは十字架で死なれ、復活された後に天に昇って行かれたことが使徒言行録の最初に記されております。その天に帰られた主イエスはもう一度、この地上にやって来て下さる、それが主の再臨であります。しかし、それがいつのことであるのかについては、聖書は明言しておりません。その時がいつであるのかは分からないが、その再臨の時がやって来ることは証言しています。私たちがいつも神経質にいつ主イエスが来られるかと、苛立ったり、いきり立ったり、焦ったりすることを求めておられるのではない。繰り返しになりますが、賢いおとめたちも居眠りすることが出来たのです。いつでも目を覚ます用意をしながら、居眠りをする自由を持っていたのであります。その花婿なる主イエスが来られるのは、明日かもしれないし、10年後、20年後、いや100年、1000年後かもしれません。私たちはそれをいきり立ち焦って待つのでなく、眠い時には眠ってその時を待つこと。そしてそこで主が勧めておられるのは、どんな時であっても、自分のあかりに火を灯す油を備えておくことなのです。
このように聞くと、背筋を伸ばされるような思いになりながら、「ああ、主は私たちの弱さを受け入れて下さっているのだ」とちょっとホッとするのですが、でもよく読んでみますと、とても厳しい側面がこの話にはあることが分かります。
8節には、「油を分けてください」という愚かなおとめたちは、賢いおとめたちから分けてもらえない、と主イエスはおっしゃっています。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と言われます。この話は、互いに助け合うことを述べるのに、用いられている話ではありません。マタイによる福音書は、ユダヤ人向けに語られているものであることから、十戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」の戒めから、神という言葉を極力用いないようにされております。ですから、ここで言っている天の国とは、死後の世界を指す天国のことではありません。これは神の国のことであり、神の国とは神の支配のことであります。ですから、ここでは神の支配とはどのようなものであるかを示すために語られているのです。神の支配の元に身を置く備えは、人から分けてもらうものではないのでしょう。ここで言うならば、いつ主イエスがやって来られても、それに応えるための備えは、本人の問題であるからです。
花婿がやって来て、慌てて買いに行って戻って来た時には、婚宴の席の扉はすでに閉まっており、それを再び開けることは許されておりません。ずいぶん厳しい話です。彼女たちはそんな備えはいらないと言ったのではありませんし、あかりを用意しなかったのでもないのです。そうではなく、彼女たちも花婿が来るのを待っていたのです。ただ、思慮が浅かっただけです。失敗して、それを反省して油を買って来たのですから、今度だけは勘弁してやるから二度とこういう過ちはしないようにと言って聞かせて、迎えてくれるのが愛の神ではないか、と思ってしまうものであります。けれども、主人は12節で「はっきり言っておく、わたしはお前たちを知らない」おっしゃっています。まことに厳しい教えです。しかしこれが神の国の現実なのでしょう。では、そのあかりを灯す油とは、私たちの現実に即して言うならば、何をさしているのでしょうか。そのことをはっきりしておかないことには、おちおち寝てもおれないと考えられる方もおられるかもしれません。
主イエスはここで、あかりとは何か、油とは何かということを何も説明されていません。先週の種蒔きのたとえでは、その蒔く種とは、神のみ言葉だとおっしゃっているのとは異なります。何もおっしゃらないで、先ず私たちに、あなたのあかりが灯っているか、あなたには自分のあかりをいつでも灯すに足るだけの油があるか、とお問いになるのであります。そしてその時に、私たちは「わたしには油があります」と答えることができればそれでよいのです。
そしてここで忘れてならないのは、最初に申し上げたように、この話を主イエスは十字架へ赴かれる直前になさっていることです。ここでは、主イエスは十字架での死を明確に意識されています。イエスは何故十字架で死なねばならなかったか、それは神と私たちの間の仲介として役割を果たすためでありました。そうしなければ、神さまと私たちの間に道は繋がらないからであります。その道を開くために、キリストの愛はここで燃えています。キリストのあかりがここで明々と燃え盛っています。そしてこの火が、その神と間を繋ぐ道を照らす役割ともなっています。その神の火が燃え続けているのを私たちが目にする時、その神の火に似合う火を、私たちが消してしまって、自分はそんな火を燃やさなくともいいのだと言ってしまってよいのだろうか。神が燃やして下さるあかりに似合う、私たち一人ひとりのあかりを、小さくても貧しくても灯すことを、主イエスは求めておられるのです。そしてこの主イエスのあかりは、何よりも恵みの火であります。
神さまに造られた存在だということを知っている人間は、自分が必ず新しくなる、自分は必ず神の目から見て美しい人間になるのだということを信じて待ち続ける人のことだと、私は思います。この神が造られた世界が、こんなにも争いに満ち、悲しみに満ちている時に、その惨めさの中で望みを失うのではなくて、「神よ、これはあなたがお造りになった世界ではありませんか、どうぞもう一度来て下さって、この世界をあなたの真実が表される世界にして下さい」と祈ることが出来るし、待つことが出来る。世界だけではありません。教会も同じです。歴史を見ても、プロテスタントとカトリックの争いがあり、プロテスタントの中でも、「やれあの教派はどうだの、こっちはああだの」と言って反目している。全国のバプテストの教会での話しにしても、牧師の私の耳に入ってくるのは「あの教会が揉めている」とか「あそこの牧師がもうすぐ辞めそうだ」というような話が全てとは言いませんが、大半です。周囲のことだけではない。自分自身のことを省みても、バプテスマを受けて教会の群れに加えられたと言っても、ちっとも変わっていない、バプテスマを受けたらもう少しましな人間になるかと思ったけれども、何も起こらないではないか、何も変わらないではないかと、そう思って嘆かなければならないことはいくらでもあります。しかし主イエスは、そこで目を覚ますのだと言われるのです。あなたはあかりを灯すことが出来る、あなたは油をもつことが出来る。それがわたしがあなたに与えた「恵み」ではないか、そう言われているのであります。
主イエスは、ここで私たちを脅かしておられるのではありません。みんなが賢いおとめのように生きるために、ご自身の憐れみのすべてを注ぎ出しておられるのです。あるスイスの神学者は「主イエスがさばきについて語られる時、その物語はすべて憐れみの物語であることを忘れてはならない」と言っています。十字架で死なれた主イエスは、私たちが一人も欠けることなく、主イエスを迎える日をいつも待ち望んで生きることを求めておられます。だからこそ、私たちは愚かな罪を犯すわけにはいかないのです。天地を造られた神、主イエスを私たちのところに送って下さった神さまが、私たちをお見捨てになることはない、私たちを死の寂しさの中にほおっておかれることはないのです。私たちをこの世にあって、いつも途方に暮れる絶望の中に捨てておかれることはないのです。世界の貧しさ、教会の愚かさに、やけを起こしたくなる状況に、私たちをほっぽっておかれることはないのです。「目を覚ましなさい、私は必ず来る、その望みに生きなさい。その望みに生きる時、あなたがたは安んじて生き、安んじて寝て、安んじて死ぬことが出来るのではないか」と言われているのであります。お祈りをしましょう.
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