「天国学の免許皆伝」 


 マタイ13章44〜52節
 2007年5月6日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。主イエスの公生涯と言われる伝道活動はおよそ3年間ほどだったと言われていますが、それは旅から旅の連続でした。その旅はお一人でなさったのではありませんでした。それは12弟子を始めとする多くの弟子たちを伴った旅でした。その旅の中で、主イエスは何をなさったか、それは彼らに教えを与えられる旅だったと言えます。

「弟子」という言葉は、「学ぶ者」という意味の言葉です。当時の旅は当然のことながら、歩いての旅でした。主イエスは毎日歩きながら、弟子たちに授業をされたのです。そしてそこに「イエスの学校」言うべきものが生まれていきました。では、その「イエスの学校」で何が教えられたのでしょうか。

先ほどお読みいただいた聖書の最後の言葉、52節に「天の国のことを学んだ学者は皆」とあります。「学者」というと何だかいかめしく聞こえますが、この言葉の元の意味は「これこれのことを学んで知識を得ている者」といったことです。その得た知識によって生活をしていたのですから、「学者」と訳して少しも差し支えないのですが、この言葉は他でもない、イエスに従っていっていた弟子たちに向かってかたられている言葉です。彼は、弟子たちに対して「あなたがたはもう学者」だと言われているのです。この弟子たちは、通常の学校で学問を修めたような人物たちではありませんでした。その彼らのことを「学者」と呼んでいるのです。その専門は何か、「天の国」についての教えを受けた学者でした。今日の説教のタイトルにあるように「天国学」、天の国のことを学んだ学者、天国についての専門家です。

52節の後半では、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」とあります。その学者は主人に似ている、と言われています。勉強を重ねて、ある専門の学者になりますと、その自分の専門領域については自由に振舞うことが出来る。何か尋ねられても、その人の知識の倉の中につまっているものを自由に取り出して回答することが出来る。主人を英語で言うと、マスターです。勉強を重ねることで、その学問をマスターしたといいます。主イエスはここで、「天国学をマスターした学者」、別な言い方をすれば、弟子たちに「天国学の免許皆伝」をされているのです。

今日の44節からを見ますと、新共同訳聖書には、「『天の国』のたとえ」と見出しがついており、50節までには、三つのたとえが語られています。先ず一つ目が44節の「畑に隠されている宝」のたとえです。天の国は、「畑に宝が隠されているようなものだ」とおっしゃるのです。それを見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買うのだと言います。

この時代は当然銀行が今のように整っていた時代ではありませんから、この話のように宝を土の中に埋めておくというようなことはいくらでもあったのかもしれません。自分の財産を隠しておいたが、そのまま使わないまま、身内の者にも告げないままに死んでしまった。そのように隠された宝をたまたま、他人が見つけるというようなことは案外多くあったそうです。その当時の考え方としては、そこで見つかった者は、その土地の所有者の物になったようです。従って、他人の土地で宝を見つけた人は、とにかくその土地を何とかして手に入れようとする。持ち物をすっかり売り払って、それこそ、借金をしてでもお金を作って、その土地の所有者には、見つけた宝のことなんか言わずに黙って、何食わぬ顔をして「あの土地を欲しいので譲ってください」と言って、宝を手に入れるのです。

45節の真珠を探している商人のたとえも、良い真珠を見つければ、同じように持ち物を売り払ってそれを買うという主イエスはおっしゃいます。この時代の真珠は天然のものだけです。養殖の技術が確立するより、はるかに昔のことですから、天然の良い真珠を入手するのは、非常に困難でした。真珠を扱う商人は、良い真珠を求めて各地を飛び回って探したのであります。

この二つのたとえに共通しているのは、持ち物をすっかり売り払ってでもそれらを買い求める点です。天国とはそれほど貴重なものであり、そのためには、持ち物をすべて売り払ってでも手に入れるべきものだということです。

先週も申し上げましたように、天の国とは神の国のことであり、それは神さまの支配のことです。その神さまの支配に身をおくことは、どんな犠牲を払ってでも手に入れる価値があるということです。私たちはそれほどの必死さを持っているかということが問われています。

そして宝と高価な真珠とはいずれも、その値打ちが隠されています。宝は土の中に埋められていましたが、真珠を探しているのは、一般の人ではありません。それを扱う専門家と言える商人です。真珠の本当の値打ちは専門家でなければ分かりません。

これらの天の国のたとえは誰に向かって語られたでしょうか。36節によると、イエスは群衆を後に残して家に入って、弟子たちだけに語られています。真珠専門家でなければその値打ちが分からないように、宝もそれを掘って見つけた者でなければそれを手にすることは出来ません。そのように神の支配は、誰の目にも明らかなことではないのです。

主イエスにおける神の支配は全ての人には見えなかった。見えなかったからこそ、人々は主イエスを十字架につけて殺してしまいました。そこに神の支配を見ることがなかったからです。イエス・キリストにおいて現されている神の支配は、私たちの知恵からみれば少しも神の支配らしくなかったのです。主イエスは、こんなところに神の支配、神の王としての姿が見えるかと思うほどに深く、僕の姿をお取りになられました。人間よりも、もっと深く人間の弱さの中に、惨めさの中に、神にさばかれる罪の恐ろしさの中にお立ちになったのです。

しかし、主イエスは弟子たちに、あなたたちはわたしにおいて、その神の支配を見ていると、おっしゃいました。彼らは、主イエスに勧められるままに、家も財産も捨ててイエスに従っておりました。まだ、事の真相をわきまえておりませんでしたが、それに従っていったのです。ここで取り違えないようにしなければならないのは、この二つのたとえにおいては、主は命令しておられないことです。「真珠を探せ」とか「宝を探せ」とか「持ち物を売り払え」とは言っておられません。隠されているその宝を見つけ、その真の価値が分かっているならば、このようにするとおっしゃっているのです。

主イエスは弟子たちをその事実の中に引きずり込んで語られました。「もう、あなたがたは宝を見つけている。真珠を見つけているのだ。もうあなたは、わたしのことについての専門家なのだよ」と語られています。「わたしを手に入れるために全力をあげてごらん。わたしを手に入れるためにすべてを捨ててごらん。それが天の国なのだよ」と。

そしてもう一つ語られているのが47節からの網のたとえです。この網の中には、良い魚も悪い魚も入れられます。そして最後になって、悪い魚が取り出され捨てられる。これは先週申し上げた10人のおとめのたとえで愚かなおとめたちが、花婿がやって来たときに油の備えがなかったために、婚宴の席に入れてもらえなかったことに共通しています。天の国にはそのような厳しい側面があります。ここではどんな魚が良い魚で、どれが悪い魚かというようなことをおっしゃってはいません。ただ、そのより分けは神さまのみ使いである天使たちによって行なわれています。この網の所有者は神さまです。ですから、その判断には神さまの基準が適用されるのです。それが天の国であり、神さまのご支配なのでしょう。

最後に、51節からを見てまいりましょう。ここで主イエスは「あなたがたはこれらのことがみな分かったか」と弟子たちに尋ねられました。それに対して彼らは「分かりました」と答えています。彼らは本当に主イエスのみこころを分かっていたのでしょうか。この後の主イエスの十字架にお付けになられる場面などからすると、彼らがそのお心を分かっていたかは、はなはだ疑問です。そしてそのような弟子の理解の度合いを主イエスがご存じなかったはずがありません。しかし主は、そんなことは一言も言っておられません。それどころか、最初にも述べたように、彼らのことを学者だと言い、一家の主人、マスターだと言っておられるのです。これはどういうことでしょうか。

私たちは聖書の語っていることを知り尽くすことは出来ません。今日の弟子たちのように分かったような気になっているというのが関の山でしょう。しかしそれで良いとおっしゃっているのです。弟子は何をしたのでしょうか。今日のたとえを話されなかった他の人たちとはどこが違っていたのでしょうか。それは、イエスに従うものであったことです。確かに、十字架の最後の場面までは従ってはいけませんでした。しかし、それでも彼らは網を捨て、家族を捨てて主イエスに従ってまいりました。そして主イエスと一緒に旅をしてまわったのです。その中で多くを教えられ、学びとっていったのです。

クリスチャンは、キリストに従う弟子のことです。私たちも今日、休日の日曜に多くのなすべきことの中から、このようにして、教会に集うことを選びとりました。そしてこうして、主を礼拝しています。これが弟子のわざです。その私たちに対して、主は弟子たちにおっしゃったように、私たちにも天国学の免許皆伝をして下さるのです。

お祈りをいたしましょう。


2007年説教ページに戻るトップページに戻る