「いなくなった羊って誰のこと?」 


 ルカ15章1〜7節
 2007年5月13日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。本日は父母の日礼拝です。毎年丁度野外礼拝と重なりますが、年に一度こうして、私たちの両親のことを覚える日が与えられていることを感謝いたします。最初に一言お祈りをさせていただきます。

祈り

さて、今日はイエスさまのたとえ話から、「いなくなった羊のたとえを見てまいりましょう。先ほど歌った新生讃美歌の503番、恐らく初めての方が大半であったと思いますが、私たちは羊です。そして羊飼いはイエスさまです。今日は教会堂を離れて、牧場とは言えないかもしれませんが、こうして緑の中で、この箇所が読めるのも主の導きでしょう。

主イエスは多くのたとえ話をなさいました。それは要するに物語です。その物語では事件が語られています。実際に起こった出来事、事件ではなく、主イエスがご自身で創作された物語に託して、一つの真理を私たちに伝えようとして、たとえ話を語って下さったのです。学者が書斎にこもって考えた思想ではありません。人間とはどのように生きなければいけないかと教える、所謂、倫理・道徳の類の教えとも異なります。神の言葉の、神の真理そのものが一つの出来事であったのです。しかも、その真理は、人の目にすぐに見えてくるものではなかった。それは先週も申し上げたように、隠されているものでした。たとえに託して語ってこそ、初めてはっきりと見えるものであった。その真理こそが、神の国のことでした。

物語と言えば、何人かの人物が登場しますが、そこにはその中心となる主人公がおります。神の国のことを語っているのですから、その主人公は先ず何よりも神であります。イエスさまこそが主人公になって下さる。そしてそれ以外の登場人物である人間と、主人公である主イエスがどのように関わって下さるか、扱って下さるのか。神との関わりの中に生きる人間が神の眼差しの中で、どのように見えているのかが教えられています。私たちがいつも自分の目で見ているのとは異なる私たち自身の姿が、そこには見えてくる、神の国の真理がそこで聞こえてくる。主イエスが物語って下さるたとえ話とはそのようなものだと言えます。

もう一つ、主イエスのたとえ話を理解するのに大切なことがあります。それは主イエスは突然の何のきっかけもなく、その話をなさるのではなく、いつも何かのきっかけがあったということです。主イエスの周りに生きていた人たちが、心に抱く考えやその示す態度を見、あるいは聞いて、主イエスが何かを伝えようとされた、そこにたとえ話が生まれたのです。それを聞く人々に、自分の真実の姿を気づいて欲しいという主イエスの願いがそこにはあります。ですから、たとえ話は常に問いを含みます。自己批判を求めます。もっと正確に言えば、さばきの意味を伴います。見ても見ず、聞いても聞かず、悟らない鈍い者たちに、正しい罪の認識と悔い改めを求めるのです。

今日のこの「いなくなった羊のたとえ」にもそのような主イエスの思いが表われています。ここには、難しい言葉は全く出てまいりません。聖書をそれほど読まれたことの無い方でも理解できるものです。一匹の羊がいなくなった。その一匹は百匹のうちの一匹であった。羊飼いはそのいなくなった一匹を見つけるために、他の九十九匹をそのままにして探しに行った。ここではその一匹を探し出すための苦労は具体的には語られてはいませんが、おそらく大きな困難があったことだと思われます。しかし主イエスは「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでくださり』と言うであろう」とおっしゃいました。主が語っておられるのは、見つかるまで探しぬく忍耐です。一匹を捜し求める、諦めを知らない神の愛が語られています。そして、見つけたときの非常な喜びです。一人でではなく、親しい人々を集めて祝っています。喜びを多くの人たちと分かち合っているのです。

さて、先ほども申し上げましたように、たとえ話は実際にあったこと、主イエスが御覧になられた事実の報告がなされているのではありません。そこには主イエスの意図があり、神の国の真理を伝えるためのものであり、聞く人々に罪の正しい認識と悔い改めが求められています。そもそも、主イエスがこの話をされたきかっけは何であったか。それは1,2節にあります。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言い出した」

ファリサイ派の人々たちは、主イエスを非難し出したのです。それは、彼が徴税人や罪人たちと食事を一緒にしたからでした。食事を共にすること、これは人と生きるためにとても大切な行為です。それは、互いが仲間として受け容れ合うことをも意味しています。主イエスは徴税人や罪人の仲間入りをされた、と律法学者たちには見えたのです。実際そうではあったのですが。彼らには、そんなことは受け容れられなかった、見過ごすことは出来ない行為でありました。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」という非難が起こったのです。

そのことの答えとしてお話になったのが、今日のたとえです。ここには、主イエスがなぜ人の世に来たのかが語られています。それは「いなくなった羊を捜すため」でした。今このようにして、共に食事をしているこの人たちこそがそのいなくなった羊たちだと言わんとされたのでしょう。しかしそれだけだったのでしょうか。今回読んでどうも私には、主イエスの意図はそれだけではないように思えました。

ファリサイ派、このファリサイとは、周囲の人たちから彼らにつけられたあだ名、ニックネームです。彼らは、イスラエル民族の苦難の歩みの中でも、神の民としての信仰を保ち、その歩み相応しい生活が必要だと思って一所懸命に生きてきたでありました。ファリサイとは、区別された人、ということでした。その意味では立派な正しい人たちであったのです。そしてもう一つそこに居合わせたのは律法学者たちでしたが、彼らも聖書の教え、神から与えられた律法に関して詳しい知識をもっていた、律法の専門家たちでした。彼らも正しい人たちだったのです。

彼らは神の民としての真実を真剣に求め、それを生きようとしていた人でした。ちょっとカタカナを使って難しい言い方をすれば、信じる者としての自分たちのアイデンティティを貫こうとした人たちです。神に誠実に生きようと努力し、周囲人たちのあり様にも流されることなく、精一杯努めて神の民として歩もうとした、いや歩んでいた、正しく善良な立派な人たちでありました。そのことには何の落ち度も罪もなかったのです。しかし人間という生き物は、それが罪なのでしょうが、えてしてそのような努力をしている時には、「自分はあの人たちとはちがう。私はあんな汚れた連中とは違うのだ」という思いをもって、他者と自分たちとを区別するものです。そこには、自分を確立するために、他者を裁くことが含まれます。ファリサイ派、律法学者たちから見れば、徴税人や罪人たちがしていることは、神に対する裏切りであり、自分たちイスラエル民族に対する裏切りでした。神が定めて下さった神の民としての正しい生き方を捨てている。神の言葉に従って生きようとしているわれわれイスラエルの民そのものをも裏切っている。だから、徴税人や罪人は神からも見放されたし、いや、見放されたというよりも自分の方からさっさと神との縁をも切ってしまった、イスラエルの仲間からも出て行ってしまった奴らである。爪はじきされるのも当然ではないか。

しかし、そこに、そのような当時の人々から排除されていた人々、裁きを受け、ある意味差別されてもいた人々と平気に交わる人間が現れた。その人は平気で罪人たちと食事をしている。そんな非常識とも言える行為、当時の社会からすると反社会的とも思える行為をされたのがイエス・キリストでありました。

彼は神の言葉を語っていた。彼は神の義を実現するためにやって来た。ファリサイ派や律法学者たちも、そのことは心の中では認めていたことだと思います。そんな人であるならば、言ってみれば「善人と悪人」「神の民と罪人」のどちらに立つのか。これは全く常識的な判断であり、期待です。そして律法学者たちは、主イエスが自分たちの側に立つことを期待していたに違いありません。一所懸命に神を信じて、律法に適った正しい生き方を守ってきた自分たちの行き方を認めてくれるのは当然だろうと思っていました。そうしたら、豈図らんや、自分たちのところには来ずに、事もあろうに、徴税人たちの方に近づいて行かれ、彼らに教え、何と一緒に食事までなさった。彼らの驚き、そして怒りは相当であったと思います。だから、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言って、イエスを裁いたのです。

一方徴税人たちはどのように思ったでしょうか。彼らがそのような生活に入っていったのか、それは個人個人さまざまであったでしょう。自堕落さや弱さにもよったでしょう。しかし、当時の社会の人々からは罪人のレッテルを張られ、爪はじきにされ、差別さえされた、そのことの悲しみを十分に味わっていました。中には開き直っていた人もいたかもしれません。神を愛し、隣人を愛する生活を願いながらも、為しえない悲しみと絶望感に囚われていた者もいたことだと思います。愛に満ちた食卓をもう忘れていたかもしれません。そんな自分たちのところにやって来て、一緒に食卓を囲んでくれる人が現れた。そして神の言葉を語ってくれた。彼らの驚きが大きなものであったことは疑いえません。信じられない思いをもったことだと思います。

彼らは自分の家を捨てていました。故郷さえ捨てました。彼らには帰るべき場所はなかったのです。神の元に返ることを忘れてしまっていたのです。そんな自分たちを捜しに来て下さる方と出会いました。彼らはこのたとえをどのような思いで聴いたでしょか。

そして主イエスは言われたのです。人は、本当は誰もが、この徴税人や罪人と等しく、いなくなった羊ではないか。帰る故郷を失ってしまっているのではないか。ファリサイ派の人々や律法学者、自分たちは正しいことをしていると確信している人々も、神さまの真意、神の国の真理を忘れて、そこから離れてしまっていました。主イエスはおっしゃったのです。「ファリサイ派の人々、あなたには神の家に生きている平安があるか」と。

人はみな、神の故郷、神の家に帰らなければなりません。わたしは、あなたたちを、あなたを呼び戻しにやって来たのだ。捜しに来た。見つけて大きな喜びをもって、連れ帰るためにやって来たのだよ、そう、主イエスは私たちに一人ひとりに語りかけて下さっています。私たちには律法学者と罪人の両方の面を持っています。しかし、主イエスはそんないなくなった羊、迷いでて帰るところを失くしている私たちに呼びかけて下さっているのです。

お祈りします。

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