皆さんお帰りなさい。今日の話は「放蕩息子の話」と一般的には言われます。しかしたとえばドイツでは、今日のタイトルにしたように、「失われた息子」の物語と呼ばれているそうです。この15章で語られているたとえ話は、「失われた羊」「失われた銀貨」の物語です。「失われたもの」の再発見というのが、この三つの物語に一貫したテーマです。私たちの罪とは、失われた存在となっているということにはっきり表されています。このたとえ話は32節まで続きますが、今日は24節までの弟息子のことだけに留めますので、24節までとしました。
最近はそのような言い方をしなくなったようですが、人が突然姿を消すことを「蒸発」と言っていました。普通に真面目に生きていた人が突然姿を消す。今日の弟息子も、そのように突然いなくなったのかもしれません。しかし、実は私たちの誰もが、心の奥底のとこかに自分の生活を投げ出したいと思っているのではないでしょうか。蒸発するのに足る十分な理由を抱えているのではないでしょうか。
主イエスは「ある人に息子が二人いた」と切り出して話始められました。12節 弟は「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言いました。生前分与と云うのでしょうか、まだ父が健全なうちに遺産を要求したのです。こういったことは、当時のユダヤ人の社会では、それほど不自然なことではなかったようです。そういうことを認めている法律もありました。ただ、それらの法律でも、父が生きている間はその父から分けてもらった財産をどのように使うかに関しては、きちんと父の監督を受けねばならなかった、そのようばきまりがあったのです。
ここでの弟の問題は、その父の監督さえ拒否したことです。財産さえもらったら、父の存在はもう不要であった。老後の面倒のことなど考えもしていない。家族との関係を断ち切って家を出た。家族との関係を断つことで、父を殺したとも言えます。
13節 何日もたたないうちに、この息子は全部金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
家族の目の届かない所、自分の仲間の干渉の届かない所で、何でもやりたい放題をした。そんな生き方の中にこそ、自由がある。そこでこそ、自分らしく生きられると思ったのでしょうか。こういった思いも私たちとは無縁だとは思えません。自分を束縛し、窮屈にしている一切の絆を断ち切りたいと思う。父も兄も、家族も、皆殺してしまう。そのようにしてこの男は、父にとっては失われた存在となっていきました。
14節 何もかも使い果たし、更にひどい飢饉までが起こりました。そうして彼は食べるにも困り始めました。そしてとうとうある人のところで豚の世話をする仕事をするようになります。ユダヤ人は豚を一切食べませんから、この雇い人は外国人であったことが分かります。この弟は明らかにユダヤ人ですから、ユダヤ人としての誇りも持っていたことだとは思うのですが、こうなると民族の誇りも失っています。どんな仕事でもする、誰であっても自分を雇ってくれる人のところに行かねばならない。本当に惨めな気持ちになったことだと思われます。食べ物をくれる人は誰もおらず、豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたくなった、というのです。
さてそこで、主イエスは話をこのように続けられました。17節「彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ』ここをたち、父のところに行って言おう。」
ここに「我に返って」とありました。口語訳では「本心に立ち返って」と訳されていました。いずれも良い訳だと思います。「我に返って」とは、夢でも見ていたか、妄想のとりこにでもなっていたことから覚めるという意味でありましょうし、「本心に立ち返る」というのは、何か悪事を働いていた人が悔い改めるという響きがあります。いずれもここでは適切な意味があります。
この弟息子は、彼自身を生きていなかった。自分を失っていたのです。故郷にいた時は、自分らしい、自分のしたいことが出来ないと思って、家を飛び出した。自分らしい生活が出来ると思った。自分を見つけようと思って、正に自分探しの旅に出かけたのです。しかし、現実は、自分を見つける旅ではなく、自分を見失う、自己喪失に終わる旅でした。故郷を捨てたら、自分は自分ではなくなってしまったのです。
17節をもう一度見てみましょう。そこでは、彼は我に返って言った、と主イエスは語られています。彼は自分で自分に向かって言ったのでしょう。お前は間違っていたぞと、自分に語りかけている。「我に返る」というのは、このように自分で自分に語りかけ、自分の間違いに気づかせるようになるということです。
それに気づくきっかけとなったのは、自己喪失の惨めさの中で故郷を思い起こしたことでした。自分がはっきりと捨ててしまったはずの故郷に帰らねばならない、そうしないとこの惨めさは解決しないと気づいたのです。それは自分が元々何者であったかを思い起こさせられたということでもあります。先ほど自己喪失の旅だったと申し上げましたが、その意味では、自己回復の旅だったと言えるかと思います。
もう息子と呼ばれる資格はない、雇い人の一人にでもしてもらってでも故郷に受け入れてもらわなければならない。自分勝手なことをして、息子であることを捨てたのだから、そのことをきちんと認めなければならない。そのことに、自分自身との対話の中で気づかされたのです。
彼はどのように帰郷すべきか、そして父にどのように言おうかを問いました。自分の中で言うべき言葉を繰り返してみます。こうすることで、自分が言おうとしていることの意味をきちんと確認することが出来ます。
そんな中で見つけた言葉、思いついた言葉は次のものでした。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。
天に対してとは、神に対してということです。神に対して罪を犯した。そして父であるあなたに対しても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれるにも値しないほどです。しかし、虫のいい話ですが、その罪を赦してせめて雇い人としてでも迎えていただけませんか。彼は自分で自分を罰しています。自分は審かれるべき人間であることを正直に認めています。運が向いてなくて、お金をなくした、しかも飢饉まであった。だから自分の責任ではない、自分が悪いのではない。ここでの弟にはそのような思いはありません。根源に自分の罪があることに気がついております。
その罪とは何か。神に対しても父に対しても罪を犯した。つまり、相手に対して悪いことをしたのです。ここで明確なことは、息子が故郷を捨てたことです。本来自分がいるべきところを捨てた。その故郷を与えて下った神のご意志を受け入れなかったことです。ユダヤ人なら誰でも知っている律法の基本、神のみを神とし、その存在を賭けて愛することをしなかったことです。父も捨てました。これまた、律法の「父母を敬え」を守っていません。父に対して心からなる愛を抱くことがありませんでした。故郷における神の定めた生活を喜んで受け入れ、神の定めて下さった生き方をすることをしませんでした。神をも父をも愛していなかったのです。そのことに気づいたのです。
その罪に気づいた弟息子は、父に告げようとしている謝罪の言葉を自分に向かって言っているのです。おそらく故郷に帰るまでの長い旅の間、何度も何度も、この悔い改めの言葉を口にして練習したのではないでしょうか。
その間にも、自分の姿を思い浮かべ、父がどのような態度で迎えてくれるであろうかと想像したことでしょう。父の怒る姿を、その言葉を、当然のこととして覚悟しながら、思い浮かべていたでしょう。
すると、どうだったでしょうか。思いもかけない展開となりました。
20節 彼はそこをたち、父のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。・・・・・・祝宴を始めた
こんな結末を誰が想像し得たでしょうか。まだ遠くはなれていたのに父は息子を見つけています。父は、息子が必ず帰ってきてくれると信じていたのです。家の前で、待っていたのかもしれません。そして父のほうが彼を見つけて、ぼろぼろは着物を着ていても、やせ衰えていても、すぐに自分の息子だということが分かって、父の方から走り寄って、その首を抱いて接吻をしました。
息子は21節で「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と何度も練習したであろう、言葉を語りました。本当はまだ先があったのです。「雇い人の一人にしてください」そういうつもりでした。しかし父はそんな言葉を言わせないかとするように、それを押さえつけるようにして僕たちに、この失われた息子を迎え入れる準備をするように告げます。
雇い人の一人としてという言葉を、父は言わせてくれない。言わせてくれないどころではない。子として、しかも「死んでいたのに生き返ったのだ」と言って、息子のままで迎え入れます。生き返ったのです。甦ったのです。息子は新しく生まれました。取り返しのつかない過ちを犯して、昔に戻る術もないということではありませんでした。それどころではない。むしろ、今こそ、真実の父と子の関わりが始まる。真実の故郷における生活が始まるのです。
息子が家を出て行ったとき、父がどれほど深く悲しんだかがこれらの言葉から分かります。どれだけそのことを真剣に受け止めていたかがよく示されています。ここに主イエスを地上に送って下さった父である神のみこころやよく現われています。息子は父にとっては死んでいた存在でした。父である神を捨てる罪を犯した私たちも死んでいました。ですから、この私たちを救うために来られた主イエスは、罪人として死ななければなりませんでした。この物語の陰に十字架がすでに見えています。罪というのは、自分を殺すことです。私たち自身を殺し、共に生きる周囲を人間をも殺してしまう。その殺してしまったものを神が取り戻そうとして走り寄って来て下さる。そこに神が主イエス・キリストを通じてなさった救いのみ業が映し出されているのです。
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