皆さんお帰りなさい。本日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステは、ギリシャ語で「50番目」という意味です。イースターから数えて50日目がペンテコステです。ユダヤ教では、過越しの祭りから50日目に“五旬節”というお祭りがありました。イエスさまは過越しの祭りに十字架につけられましたから、イエスさまの復活、イースターの日から50日目がこのペンテコステとなります。7×7=49+1 ペンテコステはイースターの七週間後ということになります。この日、弟子たちの群れに聖霊が降り、彼らは主を証しするものとされていきました。私たちも今日、聖霊を受けて、ますます主を宣べ伝える者とされることを願います。
イースター以降主イエスのたとえ話から学んできましたが、今日だけそこから離れ、主イエスとニコデモの対話をみます。ニコデモはファリサイ派の律法学者で、サンヘドリンと呼ばれるユダヤの最高法院の議員でした。
ファリサイ派とは、ユダヤ教の宗派の名前で、律法を学び、それを実行することに生活全体を傾けていた人たちのことです。その信仰態度は熱心であり、真面目。世俗の妥協をゆるさない厳しさを持っていた人たちでした。明らかに一般の人たちとは違っていたことから、ファリサイ派「分離された人」とあだ名されるようになっていきました。彼らの信仰は、決して常軌を逸したような過激なものではありませんでした。むしろ、根気強く律法を学び、神のみ心を忍耐して行なっていた人たちでした。当時「ファリサイ派に属している」と言えば、それだけで信用されたといわれています。加えて彼ニコデモは、サンヘドリンの議員でした。彼は誰からも尊敬される立場にあったのです。
今日のところの前の2章の終わりでは、主イエスがいわゆる「宮清め」、神殿から商人を追い出すために、両替商や動物を売る者たちの台を倒した事件が記されています。大立ち回りをしたのです。更に「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とまで言いました。このとき、主イエスには、当時の指導的立場の人からは「お尋ねもの、やっかいもの」のレッテルが貼られたことだと思います。
そんなイエスのところをファリサイ派の人でサンヘドリンの議員でもあるニコデモが訪ねたのです。つりあいのとれることだとは思われません。ニコデモの家に主イエスが訪ねて、玄関払いをくらったのなら、話は分かるのですが、ニコデモの方が主イエスを訪ねた。世間の常識からするとちょとありえないことです。仮に誰かに見られたら、「ニコデモ先生は一体何をしているのだろう」と訝られることは間違いありません。人目を忍んで夜になってやって来たのも当然かとも思えます。彼にしてみれば大きな決断をして主イエスのところにやって来たことだと思われます。救いを求めてやって来たのでしょう。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と言いました。4節では「年をとった者が」とあることから、断定は出来ませんが、彼は若くはなかったのかもしれません。そんな地位も名誉もある者が、厄介者の若造に向かって述べる言葉だとはおもえません。そこにニコデモの悩みと苦しみとが表われているように思えます。
主はおっしゃいます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。主イエスはここで「はっきり言っておく」という言葉を用いておられます。これは5節でも、また11節でもおっしゃっています。ギリシャ語では「アーメン、アーメン」と云う言葉です。ご存じのように「アーメン」は本来はヘブライ語です。そこには自分の語る言葉が現実となりますように、という思いが込められています。自分が言ったことは必ずやります、という意味にもなります。また人に命令を与える時にも「アーメン」と言い、それを言われた方も「アーメン」と返したそうです。あるいはまた、自分の言葉は偽りではない、真実ことであることを確かにする思いで「アーメン」と言いました。これらは私たちが祈りの終わりで「アーメン」と云うのに通じます。文語訳聖書ではここを「まことに、まことに」と訳していました。とにかく、主イエスは大切なこと、特に伝えたいことを述べる時に、この表現を用いられたのです。3節「人は新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ない」ここでの「神の国を見る」とは「神の支配を見る」ということでしょう。ニコデモは良心的に一所懸命生きてきただけに、問い続けていたのは「神の国」「神の支配」であったことでしょう。そのニコデモの思いを主は見てとられたのでしょう。「新たに生まれなければならない」と告げられたのです。
それはニコデモにとっては、不可能だと思えることでした。「もう一度は母親の胎内に入って生まれることが出来るだろうか」彼は主のおっしゃった「新たに」と云う言葉の意味を誤解したのです。この「新たに」と云う言葉には、第二の意味が込められています。それは「上から」ということです。人は人間の力によって、努力は心がけで生まれ変われるものなのではなく、「上から」「神の力によって」、生まれ変わる、新たにされるのだと、主はおっしゃっているのです。そしてそれは5節にあるように「水と霊によって生まれること」だと説明されています。
主イエスはニコデモにはっきりと道を示されました。「水と霊によって新しく生まれよ」と言います。「水」とはバプテスマの水、「霊」とは聖霊のことです。バプテスマを受けて、聖霊の恵みに与りなさい、とおっしゃるのです。
主イエスはこの5節以降で、霊とは何かを述べられるのに、まことに不思議なことを言われています。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」「霊」のことを話されるのに、主はどうして「風」のこととおっしゃったのか。これはギリシャ語でもヘブル語でもそうなのですが、風、霊、そして息、の三つは同じ一つの言葉であることによります。ギリシャ語では“プネウマ”、へブル語では“ルアッハ”。そこで風は目には見えないが、存在することを感じることは出来る。そのように、私たちの目には見えないが、上から神の霊を受けることによって、人は新たに生まれ変わることが出来るのだ、と主イエスはおっしゃっているのです。
しかしニコデモは、まだここでは「地上のこと」しか考えていないことによって「イスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と叱られています。
3度目の「アーメン、アーメン」「はっきり言っておく」と云う言葉を用いて、主は最後に大切なことをおっしゃいます。
11節「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」
その証しとは何か。それこそが「天から降って来た者」であり「天に上った者」でもある、人の子イエス・キリストのことです。あなたたちはイエスを神から送られた救い主と信じない。だから「上げられねばならない」と云う。この「上げられる」ことの一つの意味は十字架にかけられることです。ここでの14節のモーセの話は、モーセが荒れ野でへびを上げたという故事を引き合いに出して、そのことに答えられたものです。民数記21章4〜9節によれば、荒れ野で食物と水に苦しんだイスラエル人が神とモーセに不平を言った罰として、神は火のへびを送られた。そのへびにかまれて多くの人が死んだので、民は悔いてモーセに助けを求めた。モーセは神の命によって、青銅で造ったへびをさおの上にかけた。すべてへびにかまれた者は、その青銅のへびを仰ぎ見ることで癒され救われたということがありました。へびに力があったのではなく、神の約束を信じてへびを仰ぎ見ることを神は求められたのです。青銅のへびと同様に神の救いの計画が成し遂げられようとしています。モーセの青銅と同じように、いやはるかにそれ以上に、イエスはすべての人の罪を担い、償うために十字架に上げられようとしています。それこそが、神の愛である。今日のニコデモ話に即していうならば「新たに生まれなおす」ためには、主イエスは十字架にかけて殺されねばならない、そのイエスの十字架を仰ぎ見ることで、私たちは救われ、かつ新たに生まれ変わることが出来るのです。
このように神の愛の風が、今まさにあなたに向かって吹いています。あなたをつくり変え、全く新しくしようとしてです。だから私たちがニコデモと共に求められ、なすべきことは、この神の愛、神の霊の風をまともに受け、それに吹かれてたつことだけです。それを聖書では信仰と呼びます。そしてイエスを仰ぎ見つつ、新たに生まれ変わらせていただくのです。私たちの自分の力によって、新たにやり直すのではありません。上からの霊の力によって、私たちは新たに生まれ変わることが出来るのです。そして人の子イエスが上げられることによって、私たちは新たに生まれ変わった者は、永遠の命を得ることが出来るのです。
お祈りをします。
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