「憐れに思ったサマリア人」  


 ルカ10章25〜37節 
 2007年6月3日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。以前よりお知らせしておりますように、今月は教会組織30周年の節目を迎えます。17日には感謝礼拝を行ないますが、今回はその前日の16日に「夢を語り合う会」という時を持ちます。土曜日の午後からですが、是非皆さんご出席下さい。この教会が40周年に向かってどのように歩むか、また皆さんの側からもどのような教会であってもらいたいか、どのような教会にしたいかをみんなで語り合えればと思っております。この時に全てを決めてしまおうというのではありませんが、なかなか今みんなで集まって教会のことを話し合う場がありません。是非都合をつけてご出席くださるようにお勧めいたします。

さて、先週はたとえ話から離れましたが、今日はまた主イエスのたとえ話に戻ります。このたとえ話も、先週の「放蕩息子のたとえ」「失われた息子の話」と同様に、とてもよく知られた話です。とても親切なサマリア人がいた。当時のサマリアというのは、ユダヤ人とは犬猿の仲のような存在であったが、強盗に襲われた人のことをほっておかず、親切にし、その人を助けた。それに対して、祭司やレビ人といった当時の社会で尊敬され、立派だとされている人は見て見ぬふりをして通り過ぎた。主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃった。そのイエスさまがお命じになったように、私たちも困った人や助けを必要としている人がいたら、助け合おう、それが主イエスのおっしゃる隣人愛なのだ、というように理解されていると思います。

この話は、日本では一般には「良きサマリア人」という題で知られております。英語で「グッド・サマリタン」と呼ぶのが通例で、その翻訳が日本で用いられるようになったのだろうと思います。良い、立派な、親切な、善意に満ちたサマリア人、なのでしょう。確かにここでのサマリア人はそう言われるに足るだけの人物です。しかし、たとえ話に入ってから何度も私が言っていることを今日も最初に確認しておきたいと思います。それはあまりに当たり前のことなので、つい忘れてしまうことです。それは、この話がたとえ話だということです。主イエスは現実に起こったことを例にとって人々に教えられたのでなく、あくまでもたとえ話を例にとって教えられたのです。だとすると、主イエスがただ「人々に親切にしなさい、困っている人がいたら助けてあげなさい」ということだけを伝えようとして

このたとえを話されたとは思えないのです。では、この話のポイントになるのは何かと言うと、それは今日のタイトルにもしたように、このサマリア人は33節で「その人を見て憐れに思い」とあることです。このサマリア人は「憐れに思った」のです。

主イエスがたとえを話されるには常に何かきっかけがあります。今日のきっかけは25節の「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」ということにあります。この律法学者は、先週のニコデモとは少し違うようです。それは、彼は主イエスを試そうとして、こんな質問をしているのです。最近人々の注目の的になっているこの人物(イエスのこと)が、本当に神について、律法について、永遠のいのちについて分かっているのかどうか判断しようとしたのでしょう。彼は律法の専門家ですから、律法については自分のほうが良く知っていると思っていたでしょう。その自信と云うか自負によって、このイエスが正しい律法にたっているか、それを試してやろうと思ったのです。

ところが、「何をしたら受け継ぐことが出来るか」と尋ねたのに、「律法には何と書いているか」と逆に問われ、27節にあるように旧約の2つの律法の規定を答えた。これらは1つ目は申命記6章の4,5節、もう一つはレビ記19章18節の律法です。今日はこの二つについては詳しくは見ませんが、ここで押さえておくべきは、これがいずれも律法の規定だということです。そこで主は28節で「正しい答えだ。そうすれば命が得られる」と答えました。

さあ、問題はここからです。この律法の専門家はこのような展開は自分の思惑とは違っていたようです。そしてそれどころかどうも、形勢は不利になったと感じたのでしょうか、29節には「彼は自分を正当化しよう」とし出したのです。相手を試してやろう、正しい答えを教えてやろうと思っていたのが、逆に自分の立場を弁護しなければならないようになったと感じたのです。だから、彼は「自分を正当化しよう」としました。自らも「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を持ち出しているのですから、隣人を愛することが神から求められていることは分かっていました。しかし彼にはそのことが自分の問題であることも気づいていたのです。自分は隣人を愛しているのか、現実には愛せていないことを知っていたのです。そしてそれには理由があり、それは自分が間違っていることを意味しているとは思っていなかった。だから、彼はその立場を弁護し、正当化しなければならなくなったと感じたのです。

少しややこしい理屈っぽいことになりましたが、これは私たちの問題でもあります。私たちも愛することの大切さは知っています。しかし実際には、愛に生き抜いていない自分であることを認めざるをえない。そしてそのことには理由があるのです。みんないろいろと理由をつけて、人のことを愛していないのです。だから正当化しようとするのです。自分が人のことを愛さないのは理由があると言わんとするのです。この律法の専門家も同じです。そしてこの律法の専門家は私たち一人ひとりの姿にほかならないのです。

イエスさまのたとえに登場したのは全く意外な人物でした。そしてその人物こそが、追いはぎに襲われて助けを必要としている人の隣人、隣り人となったのでした。それはサマリア人であったというのです。そこには長くて深い対立の歴史がありました。ソロモン王の時代の後に、ユダヤの国は、サマリアを首都とする北イスラエル王国と、エルサレムを首都とする南ユダ王国に分裂しました。ところが北王国も神殿が必要ですから、エルサレムに神殿に代わる神殿を造ったのです。その後、北王国は滅ぼされ、捕囚として連れ去られ、その代わりに異国の人々が移住させられて来て、その際に外国の偶像が持ち込まれてきました。またその移住してきたが異邦人との雑婚が始まり、宗教的にも民族的にも純粋なユダヤ人とは呼べなくなっていきました。そのため、南ユダの人々は、そのようなサマリアの人たちのことを軽蔑し、区別したのです。こうしてユダヤ人とサマリア人の間には癒し難い憎悪の念が生じることとなりました。ユダヤ人とサマリア人とは交際しないだけでなく、お互い口もきかなくなっていったのです。

サマリア人は、第一にユダヤ人への憎しみを捨て、旅人を救いました。第二に、うろうろしていたら同じ目に遭うかもしれないという給付真に逆らって、救いました。彼はろばから降りて、宿屋まで運び、デナリオン銀貨を支払い、足りなければ帰りに払うとまで約束しました。彼は義務感ではなく、本当の愛の心でこのことを行なったのだと言えましょう。

「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったか」と問われて、この専門家は「サマリ人です」とは言えずに、「助けた人です」と答えざるをえませませんでした。おそらく、彼は主イエスへの腹立たしさと同時に、ばつの悪さというか、自分の中の愛のなさを痛感させられたことだと思います。主イエスはここで、隣人への愛とはどのようなものであるか、そしてそのことを理屈ではなく、実行することを教えようとされたのでしょうが、主イエスがここで教えようとされたのは、そのこと以上に、私たちの愛の無さではなかったかと思います。

私たちは何だかんだ理由をつけて人を愛さないものです。人を愛するとはその相手と関わりをもつことです。人と関わりを持つとは、最初のうちは良いのですが、突き詰めると、人の面倒を背負い込むこと、人の迷惑を買って出ることと言えます。正にこのサマリア人は面倒を背負い込みましたし、レビ人と祭司はそれから逃げました。

最初にも触れましたように、ここで注目したいのは、「憐れに思う」ことです。聖書に出てくるこの「憐れに思う」とは単にかわいそうに思うこととは異なります。そしてこの言葉の元の意味は、「はらわた痛む」という意味なのです。単に同情うするとか、かわいそうに思うことだけでは当然なく、その人の痛みを自分の痛みとして引き受ける。共にはらわたが痛むほどに共感することなのです。そしてこの言葉は、聖書では父なる神や特にイエスさまが私たち人間に対して、して下さるものとして記されています。ですから、今日のこのサマリア人とは他でもない主イエス・キリストのことなのです。

もう一度、サマリア人がしたことを見てましょう。「「ところが、サマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って、介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」

油は聖霊、ぶどう酒は十字架の地、宿屋は教会、支払いは主イエスの全き贖いを意味していると言えるかもしれません。主イエスは、サマリア人として、神に敵対して歩んできたわたしたちを赦し、私たちに近づき、私たちを憐れんで、聖霊を注ぎ、十字架の地で清め、教会を与え、完全な贖いを約束して下さったのです。この主イエスの救いを知り、その癒しを身に受けて、感謝と讃美にあふれる時、私たちは初めて主イエス・キリストに従うものとなること、つまり、よきサマリア人、憐れに思ったサマリア人にみならうものとなると思うのです。そしてそこにこそ、私たちの永遠の命、いつも主が共にいて下さる命が約束されているのだと、主イエスは教えてくださっているのではないでしょうか。


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