「ラザロと金持ち」   


 ルカ16章19〜31節 
 2007年6月10日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。

今日のたとえ話には、二人の人物が登場しています。明らかに対照的な二人です。一方は金持ちで、豪華な衣装を着て、毎日贅沢に暮らしていました。もう一人は貧しい人でしかも全身でき物におおわれており、犬がそのできものをなめたとあります。旧約のヨブの姿を連想させられます。何とも惨めな姿です。明らかにこの二人の生ははなはだ不公平です。誰しもがラザロのような生き方をすることを望みはしないでしょう。ところが、このたとえでは貧しい方の者にはラザロと云う名が与えられていますが、金持ちの方には名は記されていません。実際は金持ちの方が有名で多くの人に名前が知られていたと思うのですが、あえてイエスさまは金持ちの名を示さずに、貧しい者の方の名を示しています。ラザロのほうが重要視されていることが分かります。ここに聖書の価値観とこの世の価値観の違いが表れています。ここまでがこの話の第一幕です。

 第二幕は、この二人の死後の世界が記されています。死というのはすべての人に平等にやってきます。どんな金持ちであろうとも、どれほど立派な正しい人であっても、死を免れることは出来ません。全ての人は死にます。この点では全く平等です。22節には「この貧しい人は死んで」とだけ書かれているのに対して、金持ちの方は「死んで葬られ」とあります。恐らく盛大な葬儀が行なわれたのではないかと思われます。葬儀はその人の生前の力を示すという要素があります。ところがこの二人の死後の生活は全く生前とは逆転しています。ラザロは、ここは口語訳では「アブラハムのふところ」と訳されていましたが、アブラハムのすぐそばに連れていかれましたが、金持ちは陰府で苛まれたとされています。アブラハムとは彼らユダヤ人の先祖であり、正にラザロはその先祖のふところに抱かれたのです。一方、陰府とは神の力も及ばない真っ暗な所と信じられていました。

 主イエスは、このようにラザロと金持ちの死後における境遇の違いを語っていますが、この世での安楽で幸福な生活の後には必ず災いが来るとか、地上で貧しく苦しい生活をした者には、死後必ず幸せな生活が約束されていることを言おうとしているのではありません。また、この金持ちが生前に格別悪いことをしたとも書かれてはいません。ラザロの生前の生き方が特に良かったとも言われてはいません。ここで主イエスが置いた力点は、金持ちがその財産を自分の楽しみを満たすためだけに用いるのでなく、貧しき隣人の必要に仕えるために為すべき責任があったことを述べようとしたことにあったと思われます。金持ちはその自らの責任を果たさず、恐らく自分の財産を誇り、自らのことのみを考え、自分の家の玄関の前に座っていた貧しい人には目を向けなかったのです。恐らく、自分とは関係の無いものとして、ラザロのこと、また貧しい者たちのことを無視していたのでしょう。ラザロは大声で何かを訴えたり、求めたりはしなかったことと思います。しかし彼は何かを求め、問いかけていたのですが、この金持ちはその問いかけに関心を示さなかった。彼はその富のゆえに、人々からは尊敬されたかもしれませんが、神の目からみればそうではなかったのです。貧しき者の名は、ラザロであったとされています。このラザロという名は、「神が助けて下さる」という意味です。金のない者は、金持ちのようには金の力に頼ることは出来ません。その分化ねの力でなく神の助けにより頼んだ人であったことを、主イエスは示そうとされたのではないでしょうか。救いとは神の一方的な行為であります。貧しさに悩む隣人を見る目と受け入れる心を持たなかった金持ちのたどる道は、神の秩序に従えばどこに行き着くかを示すものであります。ということは、単に金持ちだけのたどる道ではなく、貧しい者であってもより貧しいものに対してこの金持ちのように振舞うならば、同じ道をたどることになります。

 この話は一体誰に向けて語られていたのでしょうか。それはこの話の前のところを見れば分かります。16章の前半では、見出しにもあるように、1節からで「不正な管理人のたとえ」を主イエスは語られ、その最後の13節で「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とおっしゃっています。それを聞いてあざ笑ったのは14節の「金に執着するファリサイ派の人々」でした。彼らに向かって、今日のたとえ話もなされているのです。彼らは神と富とに兼ね仕えることが出来ると考えていたのです。むしろ富は、神さまからの祝福のしるしだと自慢していたのです。

しかしこの話がここまでで終わるならば、現世と来世との対比を描くものとして、聖書以外にも見出せる話でしょう。ルカのこの話の核心は、この後に続く27節からの第三幕にあるのです。

 この金持ちは陰府に行ってこんなに苦しむのなら、5人いる兄弟たちにこんな苦しい場所に来なくてもよいように知らせてやりたい、と言います。玄関先にいた赤の他人の物乞いは無視しても、自分の肉親のことは気にかけます。これが人間の本性でしょう。これに対して主イエスはアブラハムに次のように言わせています。29節「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」

 ここでのモーセと預言者というのは、当時の聖書、今で言うところの旧約聖書のことです。旧約聖書は3つに分けることが出来ます。第一部は律法(創世記から申命記まで)で、これをモーセ5書と呼びます。そして第2部は預言者で、これはいわゆるイザヤ書やエレミヤ書などの預言書だけでなく、ヨシュア記から列王記までの歴史書を含んでいます。第三部は詩編や箴言などのことで、これは文学書、ユダヤ教ではこれを諸書(もろもろの書)と呼んでいますが、これらは既に読まれてはおりましたが、正式に正典となったのは、紀元後1世紀後半のことですから、このイエスさまの時代には「モーセと預言者」が聖書全体になります。ですから、彼らには聖書が与えられている、だからこの世においてどのように生きるかを、彼らは聖書を通して十分に知らされ、教えられているということを主イエスはおっしゃっているのです。それ以上に何かもっと確かな目に見える証拠が必要だというのならば、それはしるしによって信じることとなる。しるしそのものは信仰と悔い改めをもたらすものではないのです。ルカ10章13節からで悔い改めなかった町を叱られた時、主イエスは16節で「あなた方に耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」とおっしゃっています。すなわち、人を信仰と悔い改めへと導くのは、ただ神のことばだけなのです。彼らは、モーセの律法の書を通して示された神の律法と、その時々の状況の中での律法の生きた意味を語り示した預言者たちを通しての預言書が指し示されているのだと、主イエスはおっしゃいます。

 最後の31節の言葉はもう一ひねりの大きな思い問いかけが込められています。「たとえ死者の中から生き返る者があっても」という言葉には「たとえイエスが死者の中からよみがえったとしても」という意味が込められていると考えられるのであります。ですから、

「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、そのいうことを聞きはしないだろう」とは

「もし、聖書に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中からイエスがよみがえっても、その言うことを聞き入れないだろう」

主が復活したとしても、あなた自身が聖書の言葉を受け入れて、その通りにいきようとしないのならば、何の意味があろうか」ということなのです。

 福音書記者ルカは、もちろん主イエスが復活したことを知っています。しかし「たとえ死者の中から生き返る者がいたとしても、それをただ喜んだり、たたえたりするばかりでは、何の意味もないよ。聖書のメッセージにきちんと耳を傾ける生活を心がけないといけない」ということを、現代を生きる私たちに警告しているのです。そうしないと主イエスの復活さえも無意味なものにしてしまうのです。

 今日この言葉が与えられた私たちにとって大切なのは、主が私たちにもとめておられることは、生きている間に、生きたイエスの言葉と行いに学ぶことです。生きた主イエスの言葉と行いに学び、それを自分の人生に活かそうとしないならば、主イエスが復活したといっても、それは何の意味も生じないことになります。どうぞ、その与えられた聖書の言葉に耳を傾け、中でも主イエス・キリストの語られたことばに耳を傾け、そのことに生きるものでありたく願います。お祈りをします。-


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