「二人の息子」  


 マタイ21章28〜32節 
 2007年6月24日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。先週はご一緒に教会組織30周年の記念の時をお祝いし、また新たな歩み出しを出来ましたことを心より感謝申し上げます。太田伝道所の就任式の時にも、連合の諸教会の皆さんからも、お祝いのお言葉やこれからの激励や励ましの言葉をいただきました。これからも主イエス・キリストを見上げつつ、主の背中を見つめながら共に歩んでいければと願っております。

 さて4月より共に読んでまいりました主イエスのたとえ話も本日が最後となりました。実は聖書教育では別な箇所であったのですが、主は私にこの「二人の息子」のたとえを与えられました。この話はそれほどよく知られているたとえ話ではないかもしれません。これはマタイ福音書にのみ伝えられている話です。筋書きは簡単、あまりに単純過ぎてかえって印象に残らないほどです。二人の兄弟がいて、それぞれが父から「ぶどう園へ行って働いてくれ」と命じられた。兄は「いやです」と答えたが、実際には考え直して出かけて働いた。しかし弟の方は「承知した」と返事は良かったが、実際に行かなかった。そうして主イエスは「どちらが父の望み通りにしたか」とお尋ねになっています。答えは明らかであって、こんなことを尋ねること自体が人を馬鹿にしたかのように思えるほどです。分かり過ぎるくらいに分かる。でも、この分かり過ぎるくらいに分かるというのはかえって曲者であります。

 実はこの話には一つやっかいなことがあります。それは口語訳聖書では話の内容がある意味逆になっているのです。口語訳ではこうなっておりました。お聞き下さい。

「あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところに来て同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望み通りにしたのか」。お分かりのように、兄と弟の返事も、その後で行動も入れ替わっています。もちろん、答えも「後の者です」となっております。

 何故このようなことになったのかは、実際には伝えられているテキスト、写本が二通りあることによります。どちらの写本を採るかで判断が別れます。このイエスさまの言葉を読むと、これは徴税人や娼婦たちとユダヤ人と対比しているわけですから、そうだとすると、心情的には、祭司長たちを兄をして、徴税人たちを弟とした方が、自然だとも言えます。そのため、このような混乱が起こったのかもしれません。

 ここでの問いで主イエスは何を問うておられるのでしょうか。最初に思ったのは、「不言実行」を勧めておられるのかということでした。言葉をいろいろ語るよりも、事を実行することが大切だということです。今日の話では兄の方でしょうか。それに対して弟の方は口だけで行動が伴わないのですから、「有言不実行」でしょうか。そのようにここで、主イエスはやはり「不言実行」が大事だと言っておられるのか。兄が、父の命令に言葉では背いたが、実際にはそれを実行したから、返事ばかりよくて、何もしなかった弟よりもずっとましだ、とそのような教訓として読み取ればよいのか。深く考えることなく、私たちは単純にそのように読んで終わらせてしまってはないでしょうか。だからかえって、主イエスのおこころがよく分からなくなってしまっているのではないかと私には思えます。そこでこれをもう少し丁寧に見てまいりたいと思います。

 先ず、この話を主イエスはどのような場面で語られたのかということです。いつも申していることですが、主イエスがたとえを語られるにはm何かきっかけがありました。それは今日の話の前のところを見れば分かります。23節からです。ここでは、主イエスは神殿の境内で、祭司長や長老たちとの厳しい緊張関係の中で、論争されています。そこで問われているのは、主イエスの権威についてです。ヨハネの洗礼も、祭司長たちが皮肉な仕方で認めさせられているように、天からの権威によるものです。それをも、ヨハネのもとで悔い改め、洗礼を受けた人々ならば認めているのに、祭司長たち、自分たちこそ権威があると自負する者たちは認めようとはしていません。

 その論争を受けて、主イエスは、一見それとは関係がなさそうなこの二人の息子のぶどう園の話を始められました。しかし旧約聖書を見ますと、ぶどう園というのは神の民イスラエルのことであることが分かります。ぶどう園の主人が神です。ここでは主人というだけでなく、父である方として神が描かれています。その父である神のぶどう園で働くのは、その子どもたちです。その父の子どもとして働く、いや働くべき人間としてここに二つのタイプの人間が登場してきている。言い換えると、ここでは、この話をして下さっている主イエスが、私たちを神の子として見ておられるのです。神の子として、その父にふさわしい生活をするかどうかということを、私たちに問うておられるのです。

 そこで、そのように神の子として、父なる神の支配しておられるぶどう園で働くように命じられのたが二人の兄弟でした。問題は、ただ不言実行などということではない。二人の兄弟が実行すべきは、父の意志でした。主イエスの問いは「どちらが父親の望み通りにしたか」でした。主イエスはここで、こういう二種類の人間のタイプを作り出されたわけではない。そうではなくて、ご自分の周囲に生きている人々が、この二つのタイプに分けられると言っておられるのです、ぶどう園に生きている二つの種類の人間がいるのです。

 兄になぞられているのは「徴税人や娼婦たち」です。彼らは父の意志を実行しました。それに対して、弟で表されているのは、ここで主イエス・キリストに向かい合っている祭司長や長老たちです。当時の考え方からしても、たいへん模範的な立派な信仰生活と道徳の生活をしていた人たちです。考えようによっては、こちらの方がまさに有言実行タイプです。しかし彼らは、父である神のご命令を実行していないのです。

 ここでもう一つ思い起こしておきましょう。それは先ほどの神殿の境内での論争の中で語られたのは、洗礼者ヨハネのことでした。そして今日の32節でも、改めてヨハネの名が主イエスによって語られるのです。

 「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 洗礼者ヨハネは、主イエスに先立ち、ただひたすら神の民の悔い改めを説き、そのための洗礼を勧めました。神のぶどう園を神のものとしてお返しするための浄化作業をしたのです。彼は主イエスに先立つ最後の預言者として働きました。そこで主はこう言われました。「あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じた」

 マタイは洗礼者ヨハネの登場を次のように描いています。3章1節からです。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこういわれている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。』「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』」主イエスも4章17節で同じように説教しています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」

 天の国とは、神の国、すなわち神の支配のことです。神の支配が始まる。ぶどう園で働く時が来ている。神が神として登場なさる。その神にふさわしいように、悔い改める。神のみもとに帰る。今までの生活を変えて、生活の向きを変えて帰る。

 今日のたとえ話の主題もそれです。「兄は『いやです』と答えたが、後で考え直してでかけた」。そして最後の言葉も「徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」徴税人が主イエスによって認められているのは、それは神の命令に従ったからです。預言者が伝えた、神のご命令に従って信じたからです。それが考え直したということでした。心を入れ換えたのです。実行すべきことは、ただこの一点にかかっているのです。

 心を変えること、それは、いろいろなたとえ話の中でも学んできましたが、「悔い改める」ということです。それには自分の罪を認めなければなりません。ただ単純に、有言実行か不言実行かというようなことではありません。そのことを洗礼者ヨハネは説いた。兄にしても弟にしても、つまり徴税人や娼婦たちにしても、祭司長や長老たちにしても、しなければならないことはただ一つです。ぶどう園に行って、つまり父なる神のもとに行って、その父なる神を信じて、みこころに従って生きること。それが「後で考え直す」すなわち「悔い改める」ことに始まります。

 そして最後の32節で主イエスが繰り返されていることがあります。それは徴税人たちが「信じた」ということです。何を信じたのか。それは主イエスの権威です。主イエスが神から遣わされた者であって、その権威は父なる神にあること、それを信じたのです。祭司長たちはそれを信じなかったのです。

 主イエスはおっしゃいます。「ここに帰るがよい。皆、ここに帰るがよい」。主イエスがお問いになるのはこのことであります。主が求められるのは、この心を変えて、神のみもとに帰る決断です。それを娼婦たちは実行した。

 祭司長や長老たちにおっしゃいます。「あなたがたは、わたしが語っている神のことを語り、そのみ言葉に生きているようでありながら、神の望み通りに生きてはいない。私と共にぶどう園で働いていないではないか」主と共に愛の労苦の中で、ぶどう園を耕す、その歩みの中に生きようとしない。今、私たちに問われていることもそのことです。主イエスは今日もぶどう園に赴き、ぶどう園を耕すために生き続けておられるのです。それは父なる神のもとに主イエスがあることです。それを信じることを私たちに求めておられます。お祈りをします。


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